イエス・キリストを描いた映画 パゾリーニ『奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo』1964年

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パゾリーニ『奇跡の丘 Il Vangelo secondo Matteo』1964年

監督 ピエル・パオロ・パゾリーニ
脚本 ピエル・パオロ・パゾリーニ
音楽 ルイス・バカロフ
撮影 トニーノ・デリ・コリ
公開 1964年10月2日

動画
https://www.youtube.com/watch?v=U63s0kZ1nVc
https://www.youtube.com/watch?v=Awaso0MNprY


『奇跡の丘』(伊: Il Vangelo secondo Matteo、英: The Gospel According to St. Matthew、「マタイによる福音書」の意)は、1964年(昭和39年)製作・公開されたピエル・パオロ・パゾリーニ監督によるイタリア・フランス合作映画である。

ヴェネツィア国際映画祭の審査員特別賞、国際カトリック映画事務局賞を受賞。


「マタイによる福音書」に基づいて処女懐胎、イエスの誕生、イエスの洗礼、悪魔の誘惑、イエスの奇跡、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ゴルゴダの丘、復活のエピソードが描かれている。

キャスト

エンリケ・イラソキ(イタリア語版) - イエス
マルゲリータ・カルーソ - 母マリア(若い時代)
スザンナ・パゾリーニ(イタリア語版) - 母マリア
マルチェロ・モランテ(イタリア語版) - ヨセフ
マリオ・ソクラテ(イタリア語版) - 洗礼者ヨハネ
セティミオ・デ・ポルト - ペトロ
アルフォンソ・ガット - アンデレ
ルイジ・バルビーニ - ヤコブゼベダイの子)
ジャコモ・モランテ - ヨハネゼベダイの子)
ジョルジョ・アガンベン - フィリポ
グイド・チェレターニ - バルトロマイ
ロザリオ・ミガーレ - トマス
フェルッチョ・ヌッツォ - マタイ
マルチェロ・ガルディーニ - アルファイの子ヤコブ
エリオ・スパツィアーニ - タダイ
エンゾ・シチリアーノ - シモン(熱心党)
オテロ・セスティリ - ユダ(イスカリオテ
ロドルフォ・ウィルコック - カヤファ
アレッサンドロ・クレリチ - ポンテオ・ピラト
アメリゴ・ベヴィラッカ - ヘロデ大王
フランチェスコ・レオネッティ - ヘロデ・アンティパス
フランカ・クパーネ - ヘロデア
パオラ・テデスコ - サロメ
エリゼオ・ボッシ - アリマタヤのヨセフ
ナタリア・ギンズブルグ - ベタニアのマリア

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E4%B8%98

 

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ヨーロッパ諸国の中でも特にカトリックの勢力が強いイタリアでは、パゾリーニがキリストを冒涜する映画を撮るに違いないと早合点し、激しい反対の声をあげ、撮影中から早くも妨害される。映画が完成してヴェネチア映画祭に出品されたときも、右翼の学生がパゾリーニに怒号を浴びせ、腐った生卵を投げたりした。

ところが映写が始まってみると、何と忠実なキリストの映像化…

満場はシーンと静まりかえった。 というエピソードがあります。

何故こんなに信用されなかったのか?

それはウルトラ左翼のパゾリーニだからです。
http://blogs.yahoo.co.jp/legendofbenji/12024963.html



無神論者・パゾリーニが、キリストの生涯を新約聖書の「マタイの福音書」を元に映像化した作品。

マリアの懐妊に始まり、東方三博士の礼、ヘロデ王の嬰児大虐殺、パンと魚の奇跡の話、サロメが洗礼者ヨハネの首を所望した話、最後の晩餐、釈放されたバラバ、磔刑、そして復活と、絵画等の主題になるような内容はほとんど描写されているし、 「汝の隣人を愛せよ」というような、よく知られたキリストのことばも、作中に多数含まれている。

他のパゾリーニ作品に見られるような”毒気”はなく、敬虔なキリスト教信者の視点で描かれているといえるだろう。 飾り気のない映像も、キリストを語るにふさわしい。パゾリーニ無神論者であることを知らなければ、キリスト教信者によるキリスト教布教の為の作品にも思えるほどである。いったい、パゾリーニの意図はなんだったのか。

パゾリーニアッシジ滞在中に時の法王、ヨハネ23世のアッシジ訪問に遭遇し、ホテルで街の喧騒を聞きつつ手にした聖書が、この映画製作のきっかけとなったらしい。しかし、「奇跡の丘」撮影前に発表したオムニバス映画「ロゴパグ」の第3話「リコッタ」で、キリストの磔刑映画のパロディーを描き、「宗教を侮辱した」かどで告訴された(判決は無罪であった)という経緯があったので、パゾリーニによるキリストの映画製作には反対も多かったという。

ところが、「奇跡の丘」が発表されると、国際カトリック映画事務局賞を受賞。ローマ法王庁キリスト教徒に適した映画を選出する「ローマ法王のオスカー」と呼ばれるリストでも、「奇跡の丘」は上位に入っている。ヴァチカンのお墨付きになったわけである。
http://www.cinemaitalia.jp/primipiatti/primo-ka.htm



ヨハネパウロ二世の推薦する映画第二位の映画。

カトリック信者ならこれ以上の信頼できる評価は無いでしょう。

1位「シンドラーのリスト」(93)
2位「奇跡の丘」(64)
3位「ライフ・イズ・ビューティフル」(97)
4位「モダン・タイムス」(36)
5位「ナザレのイエス」(77)
6位「ベン・ハー」(59)
7位「わが命つきるとも」(66)
8位「2001年宇宙の旅」(68)
9位「8 1/2」(63)
10位「山猫」(63)
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/B001SSXXWA


パゾリーニコミュニストであったにもかかわらずなぜにこの映画を作ったのか。
彼はこう語っている。

[パゾリーニの言葉]

 私はアッシジのプロ・チヴィターテ・クリスティアーナに泊めてもらっていた。その後も何度か訪ねているが、そこは私のような人間にもいつも扉を開いている。1962年10月2日だった。アッシジはロレート・ジョヴァンニ(ヨハネ)23世の来訪を待っていた。

ヨハネ23世はヴァティカンを出て、宗教会議のさだめによって“貧しくつつましき者”と名付けられた聖フランチェスコの墓に祈るためにやってきた初めての法王だった。

私はベッドに横になり、町の音に耳を澄ました。町は人々の声や足音で沸き立っており、好奇心と幸福感で熱くなっていた。大聖堂に向かう道にはたくさんの足音が聞こえた。ありとあらゆる鐘が鳴り始めていた。

私は優しい農民法王のことを思っていた。彼は難しいと当時は思われた希望へと人々の心を開き、またレジーナ・コエリの扉も彼に開かせたのだ。そこで法王は《自分の目で》泥棒や殺人者たちを見たのである。厚い慈悲の心以外は何もまとわずに。

 私も一瞬起き上がってそば近くで彼にまみえたいと思った。しかし、鐘が私の頭の上でも鳴り響いているあいだ、彼に会いたいという望みは突然鎮まった。自分がたくさんの人にとって苛立たしいはみ出し者になるのではないか、安易な宣伝をしようとしていると非難されるのではないかと思ったからだ。

私は自分のことを“放蕩息子”とは思わなかったが、多くの人にとってはそうした振る舞いは趣味の悪いシナリオのように映るだろう。

 本能的に手をナイトテーブルの上にのばして私は福音書の本を手にした。それはすべての部屋に置いてあるものだった。私は最初のところから読み始めた。

つまり4つの福音書の最初、マタイ伝から。最初のページから最後まで、今でもよく覚えているのだが、祝典で沸き立つ町の喧噪から喜んで身を守るように私は読み耽った。ついに本を置くと、私は最初のざわめきから、鐘が巡礼法王の出発を告げるまで、自分がこの厳しいと同時に優しい、かくもヘブライ的で激しやすいテキスト、それこそがマタイ伝だーーを全て読んでしまったことに気づいた。

 福音書を映画化しようという考えは何度も浮かんだが、この映画はまさにそこで、その日の、その時間に生まれたのである。

パゾリーニは「信者の中に入り込まずには神の子イエスを描くことが出来ず、無神論者である自分自身と信者との、2つの物語の間をきわめて難しい均衡をこの作品で実現せねばならなかった」と書いている。

これでなるほどと思い当たるのが、この映画の極めて客観的なイエスの描き方だ。俳優は素人であり、現代的な感情を込めた演技をしていない。

本作のすばらしさはその音楽によるところが大きい。聖書に書かれている事実は、淡々と語られていく。

ゴルゴタの丘にのぼる場面。このシーンを「パッション」と比べるといかに違うかわかります。

熱心なクリスチャンのメル・ギブソンが作った「パッション」と比較するとあらゆる面で対照的だ。パゾリーニ版のこの淡々とした進行が、彼の客観的な視点、信者でないという事実を如実に物語っているように思える。

信仰というのは理屈でないので、「パッション」ではメル・ギブソンの思い入れの深さが、時に執拗なまでに残酷な描写に行き着いたり、観ている私からするとうんざりしてしまったりするのだが、「奇跡の丘」には見事にそれがない。やはりパゾリーニは信仰心からイエスを語っているとは思えない。非常に冷めているなあと感じる。

ではこの淡々とした語り口が、なぜ数あるキリスト教映画の中でももっとも感動的であるといわれる作品といわれるようになったのか。

まず聖書を読んでみるとわかることだが、聖書が淡々としているのだ。現代的なストーリー展開に慣れている私たちにとっては、入りにくい文章である。

なにより、いつどこでだれとだれがどうした、という現代なら当たり前の歴史記述が聖書にはない。唐突に物語りははじまり、ある記述はとても長かったり、ある記述はあっさりしていたり、時系列であったりなかったり、そのときにその場に誰がいたりというのが定かでない。

そしてそのとき「と思った」という登場人物たちの思いは見事に省かれている。だからそれは文脈から汲み取るしかないので、そこにイエスを物語にするときの醍醐味があるといえるし、難しいところであるのだ。そしてこれが様々な聖書解釈、異端信仰を生む。

だいたい、どうしてユダがイエスを裏切ったのか、その理由は一切書いていないのが、私からすると本当にミステリアスだ。

では、キリスト教に興味がない私が、もし聖書のイエスの生涯を映画にするとしたら、どうするだろう?

そう考えると、この映画も非常にすっきり理解できる。

おそらく、パゾリーニが聖書を読んで最も共感できた箇所が、この映画でもっとも感動的な場面になっているのだと思う。だから「イエスの奇跡」といわれる処女受胎や湖の上を歩いたことや、病の治療、復活は淡々と描かれる。削ってはいないという点もミソだと思う。あくまでそれは事実として描いている。

この、ことさら奇跡を大げさに映像にしていないことが、信者でない多くの人がこの映画に対して拒否反応を示さなかった理由だと思う。

そして、コミュニストらしい解釈というか、お金持ちや権威ある階層に対しては戦いを挑むイエスが描かれる。

過ぎ越しの祭りのときに、イエルサレムに入城し、両替人の台や、鳩を売る者の腰かけをくつがえし、天使のような子どもたちが宮に入り、イエスを祝福する。その子どもたちが、ロケ地周辺から集められて演技させられてますっていう感じが非常にほほえましく、子どものたちの純粋さに溢れている感動的な、私の一番好きな場面。

神の国はこのようなものたちである」と、そのかわいい子たちをいとおしく、優しい表情で見つめる人間としてのイエス

こういったキリスト教の教えの根幹にあたる小さきものたちへの「愛」のシーンの普遍性こそが、この映画の素晴らしいところだと思う。

これこそキリスト教の教えがどうこうよりも、信者でないパゾリーニの心をも揺さぶった聖書の一場面であったろうし、同じく信者でない私が見ても感動する場面なのだ。
聖書に懐疑的な人間が、どうしても信じられない奇蹟は淡々と(鞭打ちもなければ、磔で苦しむさまも出てこない)、現代人でも共感できるエピソードはしっかり描く、このバランスが優れているのが、本作の素晴らしいところだ。

また、キリスト教の信仰では、「自らの罪を認める」というのが重要だが、この映画からはガチガチの罪悪感が感じられない。象徴的な場面としては、イエスがムチ打ちと磔で苦しむ場面で最もそれが強く表される。が、映画にこのシーンはない。人類の罪を背負ってイエス磔刑にされた、というイエスの受難は、ぽっかり抜けているのが興味深い。
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/11038795.html


黒と白の対照を最大限に生かした美しい画面。黒の美しさ、白の美しさが心を動かす。

 画面は動でなく、静を目指して構成されている。その静は石で作られ直線で象られた建物によってしっかりと支えられている。

 そのような静かな美しさに充ち満ちた映像でイエス・キリストの生涯が語られる。

 『奇跡の丘』でイエスの起す奇蹟は、ほとんど大道芸のように表現される。パゾリーニは奇蹟の中に聖なるものを示さない。パゾリーニの視線を追うとき、パゾリーニの視線が熱を帯び、炎をあげるのは、イエスが怒りを言葉に表す時だということに気付く。

 パゾリーニは言葉の中にイエスを見ているのだ。

 イエスの言葉は激しい。イエスの言葉はこう叫んでいる。全てを破壊せよ。私だけを見ろ。私だけを愛せ。

 イエスの言葉は静かな美しさに充ち満ちた映像によって支えられている。映像の静かさの背後には激しさがある。その激しさが抑制されているところに生まれているのが『奇跡の丘』の映像の静かさなのだ。だからイエスの激しい言葉を支えることができる。

 イエスは手に太い釘を打ち付けられるとき、苦痛の叫び声を上げる。それはキリストに対するパゾリーニの冒涜ではない。そうではなく超人でないイエスに対するパゾリーニの愛なのだ。

パゾリーニはイエスの中に一人の反逆者を見ていると言ったら、たぶん間違っているだろうが、パゾリーニのイエスに対する共感は怒れる反逆者という点にあるのだと僕は感じたことも確かなのだ。

 『奇跡の丘』では常に鳥たちの鳴声が聞える。鳥たちの鳴声は、イエスという一人の人間の物語を、人間社会という閉ざされた所ではなく、世界という開かれたところに投げ入れる。イエスは世界と繋がり、人間を超える。いや人間たち全てが世界に投げ入れられているのだ。そこにおいてこそ神がその顔を見せる。

 パゾリーニは神を信じていないとしても、絶対的なものを求めている。だからイエスに共感しこのように力の籠った映画を作るのだ

 これは本当に僕の勝手な感想なのだが、パゾリーニは絶対的なものを求めているが、最後の最後のところで絶対的なものを信じていない。パゾリーニは信じていないものに必死に手を伸ばしている。そう僕は映画が終わったとき感じたのだった。
http://www.ne.jp/asahi/akira/flick/flick/movie/1999/9905.html


管理人
『奇跡の丘』は、『マタイによる福音書』を元に〈無神論者〉のパゾリーニが撮ったキリストの生涯です。日本で最初に公開された記念すべき作品でもあります。キリストはカッコ良かったですね。おいしんさんはよくわかんなかったみたいですけど。


BABA
いや、おいしんもああ見えてなかなか鋭いんだよ。

「にしてもこの役者さんはこんなテンションの高い役を演じてしまって、通常の生活に戻れたんかなあ?」

と書いてたけど、

この役者さん、撮影が終わった後に「自分はキリストだ!」とか言い出して精神病院に入っちゃったらしい。


管理人
……。それは凄いですね。


ヤマネ
この映画、カソリック教会とかは大嫌いだけど、キリストその人は愛しているパゾリーニの気持ちがよく出てますね。


オガケン
革命家としてのイエスだな。


BABA
説教がほとんどアジテーションだもんね。なんか教会から賞をもらった作品らしいけど、細かい事は抜きにしてそれくらいイエスがカッコ良かったってことかな。中盤のマシンガン・トークとかスゴかった。取りあえず眉毛がつながってるし。


管理人
……。それはどうでもいいでしょう。


オガケン
とにかくザックリ感がスゴイ。細かいところはどうでもいいっていうか。終わり方も全部スゴいし。『デカメロン』とか、パゾリーニ扮するジオットが、「夢の方が素晴らしいのに、なぜ絵を描き続けるのだろうか?」でバスっと終わる。


BABA
ホント。もう話終わってるんやから、とっとと終われや! っちゅう映画が多すぎるからね。


オガケン
アントニオーニの『太陽はひとりぼっち』ってのを見たんだけど、パゾリーニの後に見るとやっぱり終わり方がダラダラしてて参った。


BABA
パゾリーニはとにかくスパッというか、バスッというか、ゴリゴリッとしたところがいい。
http://www.cafeopal.com/reviews/99/dec/reviews991214.html


パゾリーニが何故マタイ伝を基にしたキリストの映画を撮ったのであろうか。

 彼が描きたかったのは素朴な民衆を導く者の姿ではないのだろうか。

それは田舎に生きる人々の生活習慣に関心を寄せ、またプロレタリアートの解放を訴え、左翼運動を続けていたパゾリーニ自身の反映――。

であれば『奇跡の丘』は、十二使徒や説教を受ける人々は、田舎の人々やプロレタリアートと見なし、その説教を説いているキリストはパゾリーニ自身として捉えられるのであろうか。

 この映画のキリストはまるでアジテーションのように教えを民衆に訴えかける。
特に「山上の垂訓」といわれるシーンでの、たたみかけるような説教は他の介入を許さない。

カメラが捉えるのはアップで映し出されるキリストの険しい表情のみで、それが幾カットも力強く切り返し挿入される。パゾリーニの内面に秘められた熱き魂の叫びのようでもあり、また彼の生き方の姿勢とも見れる。 
http://www5b.biglobe.ne.jp/~satonaka/kiseki.htm


個人的なことになりますが、私がローマの・・・正確にはバチカンサン・ピエトロ寺院に行ったときに一番驚いたのは、その壮麗さでもなく・・・周囲にお店がいっぱいあったことでした。

ご存知のように、新約聖書にはこんなエピソードが出てきます。

神殿の前で商売をやっていた屋台をキリストが打ち壊し
「ここは聖なる場所だ!金儲けをするところではない!」

有名なシーンですよね?

「よりにもよって、カトリックの総本山の寺院の前で商売かよぉ・・・何故にそんなことを許すの?」

私も絶句してしまったわけです。まさかバチカンの人が聖書を読んだことがないはずもないでしょうし・・・

まさに聖書の言葉ですと、「言葉は聞いたが、内容は理解しなかった。」ということなんでしょうか?バチカンも、なんと罪深い・・・

勿論、宗教だって現実と折り合いを付けないといけない。何といっても現実に存在する人間を救うのが宗教の目的の一つ。

しかし、ものには限度というものがあるはずです。
ということで、どのような宗教にも必ずある時点で原理主義的な運動が起こってくる。

「この宗教の本来の姿だった、精神的で厳しいスタイルに戻ろうよ!」というわけです。


カトリック圏ですと、ポール・ロワイヤル修道院を中心としたジャンセニストが活躍した時期がありました。

ジャンセニストは、今で言うと原理主義者の典型といえるでしょ?
禁欲的で、ある種、教条的。

そもそもイエス・キリストだって、ユダヤ教における原理主義者ですし・・・


「形を守っていればいいわけではないんだ!

周囲の人が許してくれるから、それでいいというものではないんだ!

一人一人の内面が重要なんだ!」


というわけですからね。典型的な原理主義者の発想です。

ロシア正教においても、分離派の運動がありました。

ロシア正教の主流から分離して精神的で厳しい宗教活動を行った一派です。
オペラ・ファンの方はロシアの分離派の問題を扱ったムソルグスキーのオペラ「ホヴァンスティーナ」でご存知でしょう。

分離派はロシア語でラスコリーニコフ。

ラスコリーニコフというとドストエフスキーの「罪と罰」の主人公の名前です。
つまり小説「罪と罰」は「宗教的原理主義者(=分離派)が、金の亡者(=質屋のばあさん)を惨殺するシーン」で始まるわけです。

19世紀のロシアの小説と全く同じシーンで21世紀が始まったことを考えると、
人類は全く進歩してない。昔も今も同じことをやっているだけ・・・
ということが実感できます。

・・・念のため申し上げますが、あの同時多発テロ事件について、アメリカ人が金の亡者だと申し上げているわけではありません。そう思っている人が起こした事件だということです。

さてさて、長い前置きですが、今回取り上げるのはパゾリーニ監督の「奇跡の丘」。
原題を直訳すると「マタイによる福音」で・・・新約聖書のマタイ伝の映画化といえます。

ストーリーはまさにマタイ伝そのもの。

では何故にマタイなの?

何故、ルカやマルコやヨハネではないの?

福音史家にも4人いるわけですからね。その選択における意味もあるでしょ?
どんな観点から、マタイを選択したの?

まずもって、ヨハネは文学的なので映画の原作には向かない。
ヨハネによる福音書は読むものであって、見るものではない。
あとマルコとかルカでもいいのでしょうが、マタイには大きなメリットがあるわけ。

バッハが音楽を付けた「マタイ受難曲」の音楽が使える。
あのすばらしい音楽を使えるのはメリットですよね?マルコやルカだとそういうわけにはいかない。

このパゾリーニ監督の「奇跡の丘」でも、当然のこととしてバッハの「マタイ受難曲」が使われています。 今回はその意図を考えてみたいと思います。

しかし、パゾリーニ監督が聖書のマタイ伝を映画化するに当たって、バッハのマタイ受難曲を使うってそんなにメリットなのかな?

何と言ってもバッハのマタイ受難曲はドイツ語の歌詞。イタリア人には理解できないでしょう。もうひとつ問題があります。バッハはプロテスタントであって、カトリックにしてみれば異端に属するもの。かつては長年にわたる戦争もやっていたわけですから、よりにもよって聖なるキリストを描くに当たって、使いにくい音楽でもあるわけです。

流行音楽だったら、その作り手がプロテスタントに属する人であっても、それほど問題にはならない。しかし、宗教的な題材を描く際には、その作り手の宗教的なバックボーンにも目を向ける必要があるわけ。だから、キリストの受難を、マタイ受難曲を使いながら描いていくスタイルを持つカトリック系の作品となると、ちょっと矛盾している。

しかし、どうやらパゾリーニはあえてプロテスタントの音楽としてバッハを使ったように見受けられます。というのはロシア正教圏からの代表?としてプロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」も使われているからです。

プロコフィエフの音楽の使われ方は、ヘロデによる嬰児虐殺のシーンなどで使われています。確かに、その音楽は、死者累々の場面にはふさわしい音楽ですからね。

しかし、そのような場面でも別にプロコフィエフでなくてもいいわけですし、あるいは無理に音楽を付けなくても問題はない。むしろ、あえてプロコフィエフの音楽を使うことにより、ロシア正教圏代表のプロコフィエフと、プロテスタント圏代表のバッハ、そしてカトリック圏代表のモーツァルト(それにウェーベルンも?)の三位一体を狙っていたのでは?

単なるカトリックの範疇を超えて、キリストを描くこと。そのためにはカトリックロシア正教プロテスタント・・・そしてアメリカのゴスペルと様々な文化圏のキリストに関わる音楽を使う・・・そのような魂胆があったように見受けられます。プロコフィエフの「アレクサンドル・ネフスキー」はキリストとは縁がありませんが・・・ロシア圏では宗教曲って昔からあまりありませんものね。

プロテスタント陣営から参加したバッハの音楽ですが、マタイ受難曲のみを使っているわけではありません。ロ短調ミサのラストの部分「ドナ・ノヴィス・パーチェム」やヴァイオリン協奏曲も使われています。ロ短調ミサはプロテスタントのバッハの典礼音楽ということで、これもまた、ちょっと矛盾した存在といますね。

プロテスタントではそのようなミサ曲は使わないんですから。これはプロテスタントカトリックの橋渡しくらいの意味もあるのでしょう。カトリック圏のウェーベルンがバッハの音楽を編曲したリチェルカーレも同じ意味もあるのでは?

とりあえずここでは「マタイ受難曲」を中心に考えてみることにいたします。
バッハの「マタイ受難曲」は新約聖書のマタイ伝に自由詩やコラールを追加したもの。全曲を演奏するには3時間はかかる超大作です。ですから、映画においてそのマタイ受難曲を使う場合でも「3時間の全曲の中からどの部分を選ぶのか?」という点に注目する必要があります。


パゾリーニマタイ受難曲から2箇所使っている。

ひとつは「哀れみください。わが神よ!」。

タルコフスキーの作品では「ストーカー」と「サクリファイス」で使われています。

使われるもう一つが「マタイ受難曲」の最後「涙ながらにひざまずき・・・」

2つともマタイ受難曲でも自由詩に属する部分です。聖書の詩句でもなく、コラールでもない。イエスではない民衆の感情を歌った部分といえます。

「哀れみください。わが神よ。」では、イエスを否認したペトロの悲しみが歌われるわけですが、イエスの否認はペテロだけでなく民衆すべての問題ですよね?

そしてマタイ受難曲のラスト「涙ながらにひざまずき・・・」も民衆の感情を歌っているわけです。

ですからこのパゾリーニの「奇跡の丘」では、キリスト本人よりも、キリストを死に追いやった民衆の問題がテーマであるといえるわけです。聖なるものを認めない民衆。

この映画では、キリストが熱く説教するシーンが、長時間にわたって続きます。


「どうして人の目の中のチリを指摘するのに、自分の目に梁があるのに気がつかないのか?」

「彼らは重い荷をくくって、人の方に乗せ、自分は指一本さわろうとしません。」

「宴会の上座や会堂の上席が大好きで、広場で挨拶されたり、人から先生と呼ばれたりすることが好きです。」


・・・笑っていいのか?悲しんでいいのか?2000年前も21世紀の現在も、人類は全く変わっていませんね。

あるいはこのような言葉もあります。


「愚か者!あなた方は預言者の墓を建て、義人の記念碑を飾って

『私たちが先祖の時代に生きていれば、預言者たちの血を流すような仲間にならなかっただろう。』

と言います。こうして預言者を殺したものたちの子孫だと自分で証言しています。」


この言葉から、大昔より存在する創作する芸術家と、それを外から論評する評論家の関係を想起することは簡単でしょう。評論家っていつもこんな感じですよね?先代の評論家を否定し、同時代の芸術家も否定する・・・これって、典型的な評論家のスタイルです。

昔も今も、そして世界中どこも同じなんですね。パゾリーニ監督はそのような、創作する芸術家としての共感からこの部分を引用したのでしょう。


エスと民衆の関係から、パゾリーニ監督は芸術家と民衆の問題が提起されているわけです。

実際として、パゾリーニは自分自身とイエス・キリストを重ね合わせている。

1. 父親との微妙な関係。
2. 周囲の人に混乱をもたらす。
3. 神から霊感を受けている。

勿論、最大の共通点は迫害と受難でしょう。

聖書に記述されたキリストの行動を読んでみるとお分かりになるでしょうが、キリストの行動は典型的なカルト宗教のもの。

それこそ、神殿の前で商売をやっていた人を妨害する威力業務妨害をやったり、マジメに漁師をやっている人たちを布教活動に引っ張り込んだり、「持っているお金を全部寄付せよ!」とか言ったり、「家族なんかと関わるな!」と言ったり・・・

しかし本来は宗教というものは現実社会を重視するのではなく、現実を超えた精神的な世界を重視するものですから、現実の生活と齟齬が出て来るのは当然なんですね。

では、それこそオウム真理教の麻原氏も何百年か後には聖人扱いになるの?

それはありませんよ。だって「この世のことより大切なことがある。」という言葉はいいとして、それについて、ちゃんと実行しないとね。

麻原氏のように、この世に富を蓄えたりしては言行不一致ですよね?

また、この世より大切なことがあるのですから、自分の命に拘っていてはダメなんですね。

堂々と・・・あるいは従容と死に赴かないとね。

死に赴くこと・・・受難を受け入れること、これこそ神を受け入れている証でしょ?
裁判でブツブツ言っているようではダメなんですね。ちゃんと黙って死なないと・・・

死んでこそ聖人への道といえるわけです。

これについては、パゾリーニ監督だって十分にわかっていたことでしょう。

パゾリーニ監督が「キリストにならいて」75年に撲殺されたのは、勿論意図的でしょう。

パゾリーニ監督は無神論者だったとか解説されています。
しかし、パゾリーニはキリストには共感を寄せていたわけ。

世の中の不正と戦う同志として・・・
そして聖なるものに殉じる芸術家として・・・

バッハのマタイ受難曲におけるイエスの否認の部分を取り上げることによって、2000年前の民衆がイエスを否認し死に追いやったように、今現在の我々が聖なるものを放擲していることを確認しているわけです。

パゾリーニ監督はデビュー作「アッカトーネ」でもマタイ受難曲のラストを使っています。貧民街の娼婦のヒモが主人公の「アッカトーネ」。あの作品では受難という面が強調されていました。

この「奇跡の丘」では、聖なるものの受難という面だけでなく、「哀れみたまえ、我が神よ。」も使うことにより、聖なるものを受難に追い込む民衆の問題も提起しているわけです。

そしてイエスが捕縛されてから映画の視点は、イエスからむしろ離れる傾向があります。意図的にペテロの視点になったり、ヨハネの視点になったりする。

ペテロやヨハネは12使徒としてキリストにつながるものとしての扱いではなく、精神的な弱さを持つ我々の代表としての扱いです。

この「奇跡の丘」という作品は、キリストを主人公とするより、民衆を主人公としているわけです。だからこそ「マタイ受難曲」で民衆の感情を歌った部分が使われているわけ。

あるいはこのようなセリフがあります。旧約聖書の言葉なのかな?

『耳で聞くとも理解できぬであろう。目で見るとも判別できぬであろう。

人々の心は感覚を失っている。彼らは耳を固くし、目を閉じた・・・』


ほぼ同じようなセリフがタルコフスキー監督の「ストーカー」でもありました。

タルコフスキーの「ストーカー」と、今回のバゾリーニは、同じ音楽を使っているだけでなく、同じようなセリフも登場するわけ。

民衆は神の言葉を聞く意思がなくなっている。

神の啓示を受けた芸術家の言葉を聞く意思がなくなっている。

パゾリーニは、聖なるものを受け入れない民衆に対して怒っている。
ニーチェ流にいう、「神は死んだ!我々が殺してしまった!」そのもの。

パゾリーニの行動と生涯は、神殿の前で商売をしている屋台を打ち壊したイエスと同じ。

彼もゴダールと同じように、聖なるものに殉じる伝統的な存在と言えるでしょう。
まさに「パッション」を受け入れる存在として自分自身を規定している。
昔も今も芸術家がやっていることは同じ。そしてそれを認めない民衆も同じ。

そんな何千年も変わらない人間の姿が、マタイ受難曲の中での選曲で示されているわけです。
http://magacine03.hp.infoseek.co.jp/old/04-07/04-07-20.htm

 

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バッハ『マタイ受難曲

Mengelberg - Bach : Matthew Passion Part 1 (1939)
https://www.youtube.com/watch?v=Zs2HIpLEsPo&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=175

Mengelberg - Bach : Matthew Passion - Part 2 (1939)
https://www.youtube.com/watch?v=Atv_FVuqF0s&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=174

Willem Mengelberg cond. / Concertgebouw Orchestra of Amsterdam
Karl Erb, Tenor (Evangelist), Willem Ravelli, Bass (Jesus)
Jo Vincent - Soprano, Ilona Durigo - Alto
Louis van Tuler - Tenor, Herman Schey - Bass
Amsterdam Toonkunst Choir "Zanglust" Boys' Choir
Recorded 2nd Apr. 1939, Amsterdam - Live
transferred from the first issue of Japan Fhilips / LP- FL-5561/3


Mengelberg - Bach : Matthew Passion - Part 2 (1939-Live)-repost
https://www.youtube.com/watch?v=a9011ReoBok&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=179

Willem Mengelberg cond. / Concertgebouw Orchestra of Amsterdam
Karl Erb, Tenor (Evangelist), Willem Ravelli, Bass (Jesus)
Jo Vincent - Soprano, Ilona Durigo - Alto
Louis van Tuler - Tenor, Herman Schey - Bass
Amsterdam Toonkunst Choir "Zanglust" Boys' Choir
Recorded 2nd Apr. 1939, Amsterdam - Live
transferred from the first issue of Japan Fhilips / LP- FL-5561/3



Willem Mengelberg - Bach : from Matthäus Passion マタイ受難曲より(1936-Live)
https://www.youtube.com/watch?v=4f7azEsJwBY&list=PLF9sHH6NFGJNCiDK0VjOSy9slJF3WyiJy&index=45

Jo Vincent, soprano、Ilona Durigo, contralto
Karl Erb, tenor、Willem Ravelli, bass
Amsterdam Toonkunstkoor, Jongenskoor Zanglust
Willem Mengelberg cond,/ Amsterdam Concertgebouw Orch.
recorded 5 April, 1936 - Live
33 - Choral O Mensch, bewein dein Sünde groß (00:00)
50 - Rezitativ Erbarm es, Gott (08:33)
52 - Choral O Haupt voll Blut und Wunden (10:11)
58 - Choral Wenn ich einmal soll scheiden (13:00)
62 - Rezitativ Nun ist der Herr zur Ruh gebracht (16:00)
63 - Choral Wir setzen uns mit Tränen nieder


詳細は

バッハ 『マタイ受難曲
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/827.html  

 

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イスカリオテのユダ以外の弟子はイエスの教えが全く理解できなかった:


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

 

過ぎ越しの祭りの三日前、弟子たちが着席し感謝の祈りを捧げていると、やってきたイエスが声を立てて笑う。

弟子たち「先生、感謝の祈りを捧げる私たちを笑うのですか?
      正しきことを行っていたのですが。」

エス「あなた方のことを笑ったのではありません。
    あなた方は自らの意思によってではなく、
    あなた方の神をたたえるために、祈りを捧げているのです。」

弟子たち「先生あなたは・・・・私たちの神の子です。」

エス「どうして、あなた方は私をわかっているというのですか?
    本当のことを言いますが、いかなる世代でも、
    私をわかるという人はいないでしょう。」

弟子たちは怒りを覚えた。

エスは言う・・・

エス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

エスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

エス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに神の国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使さえ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」

エスはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。

■『イエス』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

エス「You will be greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『イエス』が『神の国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

エス「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdam. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。神の国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)


エスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に神の国の神秘を語って聞かせよう。神の国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」


「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。

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マタイ28-13
その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。

エスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。

ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。

エスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。

イスカリオテのユダしか考えられません。

イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。

イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。

彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。

早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。

それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。

 

 

イスカリオテのユダ以外の弟子はイエスの教えが全く理解できなかった。


神の子の本当の意味とは


マルコの福音書3-21
3:21イエスの親族の者これを聞き、イエスを取押へんとて出で來る、イエスを狂へりと謂ひてなり。
3:22又エルサレムより下れる學者たちも『イエスベルゼブルに憑かれたり』と言ひ、かつ『惡鬼の首によりて惡鬼を逐ひ出すなり』と言ふ。
3:31ここにイエスの母と兄弟と來りて外に立ち、人を遣してイエスを呼ばしむ。
3:32群衆イエスを環りて坐したりしが、或者いふ『視よ、なんぢの母と兄弟姉妹と外にありて汝を尋ぬ』
3:33イエス答へて言ひ給ふ『わが母、わが兄弟とは誰ぞ』
3:34かくて周圍に坐する人々を見囘して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。
3:35誰にても神の御意を行ふものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり』

 

ヨハネ福音書10-34
われ言ふ、汝らは神なり。
かく神の言を賜りし人々を神と云えり。

 

本当の神の国
トマスの福音書113
神の国は地上に広がっている。 そして、人々はそれを見ない。

 

トマスの福音書3
神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。

 

ヨハネ福音書18-35
神の国はこの(外なる)世界には属していない。

 

ルカの福音書17-20
神の国は汝らの中に在るなり。


トマスの福音書16
エスが言った。
まことに、人々はわたしが世界に平和をもたらすために来たのだと考えている。しかし、彼らはわたしが地上に不和、火、剣、戦争をもたらすために来たことを認識していない。まことに、ある家に5人いれば、3人はふたりに、ふたりは3人に、父は息子に、息子は父に対立するであろう。そして、彼らはひとりで立つであろう”。

 

エスが言った。
この世は橋である。
渡って行きなさい。
しかしそこに棲家を建ててはならない。

 

トマスの福音書113
「どの日に神の国は来るのでしょうか。」
「それは待ち望んでいるうちはくるものではない。」

 

トマスの福音書22
エスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。
”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。
彼らは彼に言った。
”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。
エスは彼らに言われた。

”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、
そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、
そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、
そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、
あなたがたは神の国に入るであろう”。

 

トマスの福音書42
エスが言った。
過ぎ去り行く者となりなさい。

 

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イスカリオテのユダ一人だけがイエスの教えを理解していた

イスカリオテのユダの悟境
【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】

「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。


エスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。

この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。


【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】

これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。

「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。

死海文書によると洗礼のヨハネエッセネ派に属し、イエスエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。

クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。

星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。

師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。

エスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。

また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。

【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21


エスがユダに語った「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

エスが十字架にかかるが、それと同時にユダも裏切り者の汚名を甘受するとともに、聖者殺しのカルマという重荷を負った。裏切り者の汚名は1700年を経て晴らされようとしているが、聖者殺しの意義は別格である。

神を知る者でない限り、その重荷を受けることはできないと見て、イエスはユダにそれを指示し、ユダもそれを了解したのだろう。間接的ではあるものの、聖者殺しの引き金を引くというのは、その行為のカルマの重さを考えれば、創造主と同等の意識レベルにある人でないと、容易になし得る業ではない。自分というものが少しでも残っていたら、たちまち落ちてしまう。従ってユダも自らの残りの人生・転生を、この神業に捧げたと考えられるのである。

ここは、古代インドのバガヴァッド・ギータで、聖者クリシュナが王子アルジュナに、人(敵)を殺すことを勧めた場面を彷彿とさせるものがある。

全体の構図としては、覚醒者イエスが、その力量に匹敵するほどの弟子ユダを養成し得たこと、そしてユダも、イエスを官憲に引き渡すことの意義を十分に理解していて、それを行ったというものではないだろうか。

この福音書は、【彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した。】で終わっている。
ユダは、師たるイエスの指示したとおり、イエスを官憲に引き渡し、その秘密の指示を生涯他に漏らすことなく守り切って死んでいった(自殺とされる)。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/92d2b6b940b5e978ea3082e03f241177

 

詳細は

 

エスの本当の教え _ 神の国、神の子とは何か?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006907

 

エスが殺された本当の理由
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/371.html

 

グノーシス思想
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/390.html

 

トマス福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/372.html

ユダの福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

マリアによる福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

 

マルコによる福音書(文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/376.html

 

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聖イッサ伝  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

 

エスは クンダリーニ・ヨーガ と ヒーリング の技術を何処で学んだのか?

 

十三歳になったイエスはひそかに両親の家を離れ、エルサレムを立ち、商人とともにシンド (Sindhはパキスタン南部の州) に向けて出発した。

神のことばにおける完成を目指し、大いなるブッダの法を学ぶために。

 

若いイエスは十四歳のとき、シンドのこちら側に来て、神の愛された地、アーリア人の間で一人立ちしていた。

エスはジャイナの謝った信仰を捨てて、オリッサの国ジャガナートに行った。
そこにはヴィアーサ・クリシュナの遺骸が安置されており、バラモンの白い僧らがイエスを歓迎した。

彼らはイエスにウェーダを教え、祈祷によって病人を治すことを教えた。
聖典を講じ解釈することを教え、人体から悪霊を払い、正気に戻すことを教えた。

エスは、夜に紛れてジャガナート地方を去り、山に入って、仏教徒の国、唯一にして崇高なブラフマンを信じる人々の間に住むことにした。

すなわち、かの偉大なブッダ・シャカムニ誕生の地である。

義の人イエスは、パーリ語を完全に習得した後、聖なる仏典の研究に専念した。

六年後、聖なる教えを広めるため、ブッダが選んだ人イエス聖典の完全な講術者になった。

その後は、ネパール、ヒマラヤ山地を離れ、ラージプータナの谷へ降り、さまざまな国の民に、人間の究極の完成について説きながら、西へ向かった


われらの主、神のご加護により、イエスは苦しむことなく自分の道を進んだ。


堕落して、真の神に背いた人間に警告するために、創造主が選んだ人イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。


彼がいない間、異教徒はイスラエルの民に、なお一層恐ろしい苦しみを与え、人々の気力はどん底に沈んでいた。

エスは町々を巡り、絶望の重みに耐えかねていたイスラエルの民の勇気を、神のことばによって強めた。

数千人の群集が、イエスに従って説教を聞いた。

町々の指導者らは、イエスを恐れはじめた。

そしてエルサレム駐在の統治者に通報した。

エスと呼ぱれる男が町に来たこと、説教しながら、権威に抗うよう民をそそのかしていること、群集は国の仕事もかえりみず、熱心に彼に聞き従っていること、そして侵人

して来た統治者が、間もなく迫い払われるだろうと彼は断言している、と。


エルサレムの統治者ビラトは、説教者イエスの身柄を抑え、町に迎れて来て裁きにかけよ、と命令した。

しかし民衆の怒りを買わぬよう、祭司や学識あるへブライの長老たちに、イエスを神の宮の中で裁くようにと勧告した。

しかし、イエスの釈明を聞いた祭司と、賢い長老らは、彼を裁かぬことに決めた。

なぜならイエスは、だれも傷つけてはいなかったから。

そして彼らは、ローマの国の異教徒の王によって、エルサレムの統治者として定められていたピラトの前に出て、こう述べた。

「町々の長らは、あなたに間違った報告をしています。

というのは、この男は民に神のことばを教える義人です。

彼を尋問して私たちは安心し、彼を行かせました」


これを聞いて統治者は怒りに駆られ、変装させた家来をイエスの身近に送り込んだ。

エスの行動すべてを監視させ、彼が民に向けて語ることばを、細大漏らさず報告させるために。

エスの驚くばかりの人気は、統治者ピラトをおののかせるようになった。

エスに敵対するものたちによると、民衆の中にはイエスこそ王だと主張するものがあり、イエスが彼らをそそのかしているという。

ピラトは彼のスパイの一人に、イエスを告発せよと命じた。

そこで兵士らが、命じられてイエスの逮捕に向かった。彼は捕らえられ地下牢に囚われた。

牢にはさまざまな拷問が待っていた。彼らは彼を死に定めるため、拷問にかけて自白を得ようとした。

聖者が受けている苦しみと、拷問のことを聞き知った大祭司、賢い長老たちは、統治者のもとへ赴き、近づいている祭りの栄光のためにも、イエスを自由にしてほしいと頼んだ。

だが為政者は、にべもなく拒んだ。

エスは総督に向き直り、こう言った。

「どうしてあなたは、自分の品位を恥ずかしめるのですか。
どうして家来に、間違った生き方を教えるのですか。
自分の手は汚さずに、無実のものを罪に落とす方を持っているあなたが」


総督はこれを聞いて怒り狂い、イエスに死の宣告と、二人の盗賊の赦免を命じた。

協議を終えた裁判官らは、ピラトに言った。

「私たちは無実の人を有罪にし、盗賊らを釈放するという大きな罪を負うことはできません。 それは法に背きます」。

 

「だからどうぞ、あなたの思いのままに」。

祭司と賢い長老たちは、こう言い残して法廷を出、聖なる鉢で手を洗って言った。


「この義人の死について、私たちに責任はない」


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十九世紀末、ロシアの探検家ニコラス・ノトビッチはカシミール地方を旅した際に、ある仏教徒の集会で「聖イッサ」という名の
外国から渡来した超人的人物にまつわる言い伝えを耳にした。

イッサというのはイエスのインド名で、このイッサの東洋伝道を記録する古文書が、チべット各地の寺院に保管されているというのである。

イッサに輿味をもったノトビッチはその古文書を探す旅に出た。

そしてラダックの首都レーにあるヒミス寺にその文書が保存されていることを突き止めた。

そしてその内容を、通訳を介して書きとめて故国に持ち帰り、「イエスの知られざる生涯」というタイトルで出版した。

以後それが英訳されてイエスのインド渡来説の有力な資料とされるようになった。

それによるとイッサはインドでバラモン憎に迎え入れられてヒンドゥー教聖典を学びながら六年を過ごした。

が、イッサはその感化は受けなかった。

それどころか、カースト制度偶像崇拝、人身供犠に我慢できなくなり、下層階級の救済に着手。

特権階級のバラモン(聖職者)やクシャトリヤ(貴族)の横暴を非難し始めた。

いかにもイエスのやりそうなことである。

そして遂には「ヴェーダ」 「プラーナ」といったヒンドゥー教の根本聖典の権威、三位一体説(ブラーフマ・ビシュヌ・シバの三神)を否定し、
「天の父」たる唯一神への信仰と、人間のすべてが等しく宿している霊性への回帰を説き始めた。

これもイエスらしい。

そのことに脅威を感じ始めたバラモンたちはイッサの殺害を計画。

それを察知したイッサはヒマラヤ山脈に逃れて釈迦生誕の地ルンビニ一に入り、仏典の研究を始めた。

入山から七年後、イッサは下界に下り、西方への伝道を開始した。

その教えは入山前と同じだったという。

http://www.gusuku.sakura.ne.jp/characters/main/ishadow1.html

 


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 イエスの人生は13歳から30歳に至る記録がまったくないそうだ。

キリスト教では「エジプトへ行っていた」としているらしいが何一つ証拠がないとのこと。

ところがこの間、アジアへ行った形跡がある。

過去に3人の人物がチベットで「イッサ=イエス」にまつわる経典を目撃しているのだ。

(※ニコラス・ノートヴィッチ著『知られざるイエス・キリスト伝』で紹介されたチベットに伝わる写本『聖イッサ伝 人の子の最も秀れしもの』)

物語は素早くイッサの13歳に飛ぶ。「失われた歳月」の最初の年である。

物語によれば、それは「ユダヤ人が妻を迎えねばならない」年齢でもあった。

見すぼらしい(ママ)両親の家だったが、若いイッサを養子にしようとする金持や、高貴の人々がここに集まった。イッサは「すでに全能の神の名において、教えを語ること

によってその名を知られていたから」

 しかしイッサの目標は他にあった。

ノートヴィッチが公刊した写本によると、イッサはひそかに父の家を離れてエルサレムに行き、東へ向かう隊商らとともに旅し、「神のことば」に生きる自らを完成させるた

め、偉大な仏たちの法を学ぼうとした。


 イッサがシンド――今日のパキスタン東南の地域を横切ったのは、14歳のときだった。

インダス川下流の渓谷地帯である。彼はその地の「アーリヤ人」の間に落ち着くことにした。

この人たちが、紀元前の第二・千年紀の初め、インダス川の渓谷に移住したとされるアーリア人に関係があることは明らかだ。

イッサの名声はそこで高くなり、彼らジャイナ教徒は、イッサに共にとどまるよう求めたが、彼はそうしなかった。

彼はやがてジャガナートの神殿に赴き、バラモンの祭司たちから歓迎された。

彼らはイッサにヴェーダ聖典を教え、説教と癒やし、また悪魔祓(ばら)いの方法を伝授した。

 イッサはジャガナート、ラージャグリハ、ペナレス、またその他の聖都市で、学び、教えて6年を過ごした。

彼は下位カーストの民衆、つまりヴァイシャ(農民と商人)やシュードラ小作人と労働者)に聖典を教え、そのことによって上位カーストバラモン(祭司)、クシャトリ

ヤ(王族)との紛争に巻き込まれた。

バラモンの定めによれば、シュードラヴェーダ聖典に近づくことも、目で見ることも許されなかった。ヴァイシャは祭りのときに唱えられるヴェーダの章句を、聞くことだ

けはできたたが、シュードラにはそれさえ許されなかった。

 その掟に従うことなく、イッサはバラモンクシャトリヤに逆らって、ヴァイシャ、シュードラに伝道した。

この反逆に気がついた祭司、王族階級はイッサを殺そうと計った。

 危機をシュードラに警告され、イッサは夜陰に乗じてジャガナートを離れ、南ネパール・ヒマラヤ山麓へ脱出した。

500年前、シャカ族の王子として生まれた偉大なる正覚者(ブッダ)、ゴータマの称号をもつシャカムニ生誕の地であった。

シャカムニ――ことばの意味はシャカ族の賢者(ムニ)。


 6年間の学びの後、イッサは「聖典のいう完全な解脱者となった」。

その後にヒマラヤを去って、西に旅立つ。

道々、偶像崇拝を非難して教えを説きながら、そして遂に29歳、パレスチナへ帰る。


 こうした内容が現地の各所で言い伝えとして残っているという。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090228/p1


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 キリスト教について考える時、ここで私たちが考えてみなければならないのは、

「人類は果たしてどれだけ『イエス』と呼ばれる人物を知っているのか?」

ということです。  実はキリスト教徒が使っている聖書には、イエスの生まれた時から12歳くらいまでの記述と、30歳を過ぎて人々に教えを説きはじめてからの記述しか

ありません。

ですから現在、正統とされているクリスチャンは、12?30歳までのイエスの姿について実は何も知らないわけであり、イエスの人生の半分以上は何も分かっていないのです。


 
実はニコラス・ノートビッチという方が、一八八七年にチベットを旅行して、ヒミスの寺院を訪問し、そこで「聖イッサ伝」の写本を発見しました。

聖イッサとはイエス・キリストのアジアでの呼び名です。

つまりニコラス・ノートビッチという方は、アジアにおけるイエス・キリストの言い伝えを発見したわけです。

 そして彼は現地の人にその写本を読んでもらい、書き写し、そして『知られざるイエス・キリスト伝』という本を世に発表しました。

その本の中で、イエスはインドに趣き、そして修行しながら、人々に教えを説いているのです。

 当然ながら『知られざるイエス・キリスト伝』は様々な問題を呼び、その真偽についていろいろと議論されました。

そしてその後、インドのアグラにある公立大学のある教授が、実際にヒミス寺院へいって、聖イッサ伝について調査しました。

 彼がチベットの寺院に行って、「イッサの伝記を書いた書物があるそうだが、知っているか」と聞くと、僧侶は答えました。

「イッサという名のついたものについては聞いたこともありません」と。

 そしてその教授は「『知られざるイエス・キリスト伝』の信頼性は薄い」と発表したのです。

 しかしこれで終わりにはなりませんでした。

その後、一九二二年にアベーダナンダという方が、ヒスミ寺院に立ち寄り、

「ニコラス・ノートビッチは、ここで聖イッサに関する写本を見つけて、『知らざれるイエス・キリスト伝』という本を出したが、それは事実なのか?」

と僧侶たちに訊ねました。 

すると僧侶たちは「まさに真実だった」と教えてくれたそうです。

 そしてそれから三年後、ヒミス寺院を訪問したニコラス・レーリッヒという方は、イッサについて書かれた古文書を発見し、のちに公刊したそうです。

 またさらに一九三七年、エリザベス・カスパリという方が、ヒミス僧院の図書係りから三冊の本をみせられ、こう言われたといいます。

「あなたがたのイエスはここにいた。この本にそうかかれています」

 イエスが生きた当時のインドは、仏陀が地上を去ってから約500年くらいでありますが、相変わらず厳しい身分社会でした。

ですから低い身分の人々、すなわちシュードラと呼ばれる奴隷階級の方々は、その生まれによって判断されて、宗教家たちから心について学ぶことが許されていなかったので

す。

 しかし聖イッサはそうした中でも、低い身分の人々に教えを説きました。

バラモンと呼ばれる当時の宗教家たちは、聖イッサに言います。


「ただ死のみが、彼らを奴隷の状態から自由にすることができるのだから、彼等に真理を教え説いてはいけない」


 もちろん聖イッサが、現実にイエス・キリストであるならば、そんなことで引き下がるわけもございません。


なぜなキリスト教徒なら誰でも知っていることでありますが、イエスという方はとても激しい愛の人であったからです。

 聖イッサはバラモンの言葉には一切従わず、奴隷階級の人々のところに赴いて、真理を説いまわりました。

そして聖イッサは、同じ人間が他の人間の権利を奪い、横取りするような卑劣な行為に対して厳しく批判した上で、こう言っています。

「父なる神は我が子に、どんな差別も置いてはいません。

 父なる神にとっては万人が平等であり、万人が等しく我が父の愛する者なのです」

 これは紛れもなくイエスの愛の教えそのものでありますが、こうした教えが確かにインドから「聖イッサ伝」として発見されたわけです。

 確かに「聖イッサ伝」の信憑性は議論の余地がありそうですが、しかし言えることが三つあります。

 まず一つ目は、「新約聖書にはイエスの十二歳から30歳くらいまでの記録が何も書かれていない」ということです。

そして二つ目は、「聖イッサ伝にはその間の修業時代のことが書かれている可能性がある」ということです。

そして最後の三つ目は、「新約聖書に画かれるイエス・キリストと、聖イッサ伝に描かれる聖イッサの人物像がとても似ている」ということです。


 そしてもしもインドの地で伝わる聖イッサが、キリスト教徒たちが知らないイエス・キリストであるならば、イエスは転生輪廻の教えを説いていた可能性はますます高くなり

ます。

なぜならインドは仏教発生の地であるのみならず、転生輪廻の教えが深く根付いている土地であるからです。

http://ngomisumaru.blog19.fc2.com/blog-entry-949.html

 

福音書で見る限り、イエス・キリストは12才から29・30才くらいまでの消息が全然分からない。

私たちが知っているイエスの知識は生誕から幼年期の少しとあと12才くらいの説明が少し、それから30才くらいからの3・4年の活動期だけなのである。

E.C.Prophet イエスの失われた十七年 はその失われた空白の間、イエスがインド及び現在のチベットを訪れたというものである。

ここでイッサという名前で知られるイエスは仏教の奥義をマスターしてブッダとなった後、再びパレスチナに戻ったとこの書は主張する。

ブッダはもちろん悟りをひらいたものへの尊称である。

最初から常識とは違う結論を与えられ、それを順々に解明していくという手法を取っている。

一般的にはイエスは父ヨゼフの大工の職をついで、青少年期から布教を開始する30才くらいまでパレスチナないしエジプトあたりにいたのだろうというのが通説だろう。

ただそれを裏付けるものは何も無いが、漠然とそう想像されているようである。

それに真っ向から対立するものだから、奇想天外のように聞こえるが、必ずしもそうではない。

本書にも出てくるルナンがイエス伝を書く19世紀まで、厳密な意味でのイエス伝は書かれなかったのではないのか。

イギリスに行ったとか、あるいはコーランではイエスは十字架の上では死んではいないと書かれていることなど私も以前に聞いていることは多い。

それに福音書を初めとする新約聖書と言われるものが、果たして本当に原始キリスト教ないしキリストの教えを正しく反映しているものなのかどうか。

もともとキリスト教はアジアに発生し、その後景教ユダヤ教の一派としてアジアの各地でも広がりを見せていた。

それが西の方に向かったキリスト教ローマ帝国の国教になり、そしてなりよりヨーロッパが世界史の中で果たした影響もあって、私たちはその解釈を通してのイエス像に親しいんでいる。

だからイエス像が見えにくくなっているのも確かだろう。

ローマカトリックないしはそれに反抗する形で発生したプロテスタントの教えより、ビザンチン帝国内で信じられた正教の方がより原始キリスト教の影響を残しているというのは、今でもかなりのかなりの人が信じている。

さらに一般的に12使徒のうち、トマス、パルトロマイ、マッテアの3人はチベット・インド・中国で福音を説いたらしい。

現在残されている手書きの福音書は、もっとも早くても4世紀にまでしか遡らない。

キリスト教成立よりその時までに、グノーシス派を始めとするさまざまな教えが異端とされ消えて行った。数多くの文書が失われ、そしてその中には現在の福音書と微妙に異なる教えの重要文書があったかもしれない。

現代になって、新約として編纂される以前のそうした原始文書のいくつかが発見された。そしてアジアに向かったキリスト教もなんらかの文書をしたと考えても別に不思議ではない。

もちろんこうした議論が現代においてはたして意味を持つものなのかどうか、少し疑問の点もある。しかし少なくとも真のイエス像がはたして新訳聖書に書かれたとおりだったのかどうかについては多くの謎があることは確かなのだ。

それに私には仏陀とイエスの教えの間には、そんなに相違は無いようにも思える。

1894年、ロシアのジャーナリスト、二コラス・ノートヴィッチが「知られざるイエス・キリスト伝」をかいた。

彼は1887年ラダーク(小チベット)を旅行中、古代仏典の中にキリストがインド及びチベットにきて、修行してブッダ・イッサとなったという言い伝え、及びそれを記録している「聖イッサ伝」の写しを手に入れたとされる。

この本は成功を収めるのだが、当然一部学者たちからの批判反撃も激しかった。

この過程でミュラーやルナンも登場するのだが、一応ノートヴィッチの業績というか、その本の内容は正統の学会からは無視されたままになるらしい。

しかしそのあと、かなり信頼すべき人物たちがその真実性を認める。

本書は第1章でそうした流れを概観し、2章以下ではノートヴィッチ(2章)、スワーミー・アベーダナンダ(3章)、二コラス・レーリッヒ(4章)、エリザベス・カスパリ(5章)など、そうした写本が存在すること、及びアジアの人々の間にイッサの伝説が広く伝わっていることを聞いた人々の証言から成り立っている。

ラダークは中国、インド、パキスタンの国境が接しているところで、私が持っている平凡社の地図でも国境線は確定していないし、1996年版のTIMEのWORLD Atlasを見ても、やはりあいまいでわからない。あまり詳細な地図を持たないから、仕方が無いのだが。

エスは聖書に書かれていない17年間どこにいたのかという問題は、歴史的な大問題だけになかなかスリリングである。

チベットの寺院には古代の文書が数万巻もあるとか、その中にイエス関係のものも多く含まれているとか、またバチカンの地下室にも古代のイエスにかんする文書は残っているとか、いろいろ書かれているが、そうした意味では一種の謎解きを含んでおり、ミステリーを読んでいるような趣もある。

実際作者は、1章はそうした視点から書いている。

何故チベットなのかという気はするが、この地は古代の教えを多く伝えているのだろうか。

私には河口慧海の名前が思い浮かぶくらいだが、そういえばヒットラーの晩年には何人かのラマ僧が共にいたとか言う話も聞いたような気もする。神秘主義者にはチベットは魅力的な土地らしい。

ただ面白かったのは、聖書の中でも私などが読んでも少し不思議に思う点をうまく説明していることである。


例えば、福音書の記述とは違って、

エスの処刑を決めたのはユダヤ人祭司長や長老ではなく、ピラトであったこと、

そしておそらくローマ帝国内でキリスト教を普及するためには、ピラトとユダヤ人僧侶たちの実際の果たした役割を交替して記述せざるを得なかっただろうという説明はなかなか説得力がある。

エスが磔にされる瞬間叫んだ言葉、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」の謎もそうであったが、私もこのへんは少しおかしいと思っていたから、なかなか面白かった。

さらにイッサことイエスはインドでもバラモンやクシャトリアから迫害されていたバイシャやシュードラの味方であったことなども書かれている。

ここでの革命家イエスの描写は、新約で描かれたように既成の権威を恐れず民衆の立場にたって行動したイエスを髣髴とさせるものがある。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~ohto/reading/read00/read000202.html

 

エス磔刑にかけられる裁判においての記述は、

ユダヤの長老達が死刑を迫り、ピラトがそれを拒んで最後には潔白を示すために手を洗った」

という聖書に対し、イッサ伝では

「ピラトがイエス様を目の敵にしていたが、長老がそれに反対して、手を洗った」

と180度逆になっています。

ローマ布教に際して、ローマ提督を悪者に出来ない為、ピラトと長老たちの立場を入れ替えたという解説がありますが、

「手を洗って潔白を証明」する行為はユダヤの風習であり、

ピラトが現地の風習にならってそうしたというように聖書にはわざわざ説明を入れて記述されていますが、

ローマ提督であるピラトがそのように媚びたことをするのは、考えてみればおかしなことです
http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-651.html