ドラマ 吉岡秀隆『スーパープレミアム・悪魔が来りて笛を吹く』(NHK   2018年) 


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スーパープレミアム悪魔が来りて笛を吹く』は、NHK BSプレミアム2018年7月28日21時 - 22時59分に放送された。原作から次の変更がある。
  • お種と信乃は登場せず、東太郎と菊江が使用人としての実務を全て負っている。
  • 原作とは逆に秌子が利彦の姉であり、近親相姦も積極的に主導していた。
  • 新宮殺害現場は防空壕である。殺害された夜にレコードが再生されるが、死体発見経緯との関連が明らかになる場面は無い。
  • 東太郎(治雄)が自分の出生の秘密を金田一が解明するまで知らなかったという設定に変更されており、東太郎は公丸や利彦が小夜子の死にどう関与したのか判らないまま、それを聞き出そうとさえしていないにもかかわらず、概ね原作通りの経緯で殺害したことになってしまっている。
  • 事実を知らされた東太郎は、毒殺されかかって寝ていた秌子[注 30]を叩き起こして問い詰める。しかし、秌子は手離した我が子への関心が低く、さらに東太郎を誘惑する挙に及んだため、逆上した東太郎は秌子を滅多突きにして刺殺し、慌てて制止しようとした等々力警部に射殺された。
  • 東太郎がフルートを吹くことは無く、金田一は事件終結後に一彦が演奏するのを見て運指のトリックに気付く。
  • 事件解決後、松月へ磯川警部から「八つ墓村で事件です」という電話がかかってくる。

 

キャスト

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NHKドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」|原作より淫靡で非情 2018/08/18
https://dramaeveryday.com/akumagakitarite_1/


後半は原作と違う展開だったけど、面白かった!!


結末は原作より残酷。


あらすじと人物相関図


金田一耕助吉岡秀隆)は、椿美禰子から「自殺した父・椿英輔の真意を確かめてほしい」という依頼を受け、椿邸を訪ねる。英輔は「天銀堂事件」の犯人の疑いをかけられたことを苦に自殺したと思われていたが、美禰子は英輔が「この家には悪魔が住んでいる」と言い残したことを気に掛けていた。

•椿邸で奇妙な占いが行われた夜、英輔が最後に作曲したフルート曲「悪魔が来りて笛を吹く」が流れ、椿邸に寄宿していた玉虫伯爵が殺される。美禰子の母・秌子(筒井真理子)は、黄金のフルートを持った英輔を見たと証言。防空壕で英輔のフルートケースが発見され、中から天銀堂で盗まれた宝石が見つかる。

金田一は、英輔が生前訪ねた須磨へ行き、英輔が泊まった旅館のそばに玉虫伯爵の別荘があったことを知る。別荘に出入りしていた植木屋の娘・駒子は、父親のわからない子供を産み、小夜子と名付けていた。

•小夜子は子を身籠もったまま自殺を遂げており、その後出家した駒子は淡路の寺に身を寄せていた。だが金田一が訪ねる直前に駒子は何者かに殺されてしまう。東京では美禰子の伯父・新宮利彦(村上淳)が殺され、秌子も毒殺されかかるが一命を取り留める。

金田一は全員を集め、椿邸で起こった殺人のトリックを解き明かす。犯人は使用人の三島東太郎(中村蒼)。彼の本名は河村治雄といい、駒子の父・植辰の妾の連れ子だった。治雄と駒子の娘・小夜子は、結婚を誓い合った仲だった。

•治雄は小夜子を殺した犯人が椿邸に住む誰かだと思い込み、小夜子の死の真相を探ろうとしていた。だが金田一は、治雄の出生の秘密にこそ小夜子の死の真相があると言い出す。治雄は新宮利彦と秌子の子供だった。

•小夜子は、姉弟の近親相姦によって生まれた治雄が自分の兄であり、自分もまた兄と近親相姦によって子を宿したことに絶望したのだった。治雄の肩には、父・利彦と同じ火焔太鼓の痣があった。真実を知り絶望した治雄は、母である秌子を滅多刺しにし、等々力警部によって銃殺される。

•後日。金田一は椿邸を訪ねる。美禰子は椿邸を手放し、ひとりの女として生きていくと言う。従兄弟の一彦(中島広稀)は、黄金のフルートで「悪魔が来りて笛を吹く」を奏でる。それを聞いた金田一は、その曲が中指と薬指を全く使わない曲だと気づく。治雄は、戦争で中指と薬指を失っていた。

•犯人を示すヒントに気づけず、殺された人々を救えなかったことを悔やむ金田一。落ち込む金田一のもとに、岡山県警の磯川警部から電話が入る。「八つ墓村で事件です!」

 


※ドラマにおける相関図のため、原作とは一部異なります

NHKドラマ「悪魔が来りて笛を吹く」人物相関図

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感想

いや~面白かったですねぇ~!
NHKとは思えない攻めた内容でした。

原作を読んでいても面白かったですが、読んでいない人でもよくわかる構成になっていたと思います。

大事な部分は網羅されていたし、伏線も効果的に張られていたし、なんといっても後半の見せ場(謎解き)が凄かった。

後半は原作とはだいぶ違うのだけど、原作より淫靡で非情でドラマチックでした。
吉岡秀隆さんの金田一が最高によかったです。

ちなみにこの作品、わたしが小学生の時に、西田敏行さん主演の映画が公開されまして。
これがねぇ……マジで怖かったんです!!

 


戦後の混乱期

ドラマではあまりピンと来なかったけど、原作では昭和22年という設定でした。
戦後2年経っていますが復興ははかどっていないようで、焼け野原の描写が頻繁に出てきます。

椿邸は、麻布六本木にあります。
このあたり一帯も戦災をうけ、椿邸だけが焼け残ったという状態。

焼け野原にぽつんと建っている椿邸も、あちこち損傷が激しく、庭木は焼夷弾を受けて黒く焼けただれている。

金田一が訪ねた神戸や須磨も、空襲で大部分が焼き払われた状態だと書かれていました。この作品で描かれる旧華族の没落は、そういう時代の話です。

ちなみに華族制度は、昭和22年(1947年)5月3日に施行された日本国憲法によって廃止されました。

天銀堂事件の犯人は?

椿子爵が犯人と疑われた「天銀堂事件」は、実際に昭和23年に起こった「帝銀事件」のことです。

未だに多くの謎が解明されていない事件ですが、この物語の中では飯尾豊三郎が犯人ということになっています。

治雄(東太郎)は、椿子爵と出会う前から飯尾と知り合いでした。
そして「天銀堂事件」の犯人のモンタージュ写真を見た時、犯人は飯尾だと確信します。

たまたま椿子爵と飯尾の顔が似ていたことから、治雄は椿子爵を「天銀堂事件」の犯人として密告することを思いつきます。残忍な悪戯心から……。

ドラマでは、新聞の文字を切り貼りした書状になっていましたが、原作ではタイプライターでした。

そしてこのタイプライターの文字にも犯人を示す仕掛けがあり、ここの謎解きも面白かったのですが、ドラマでは割愛されてしましたね。残念。

利彦と秌子、原作では兄妹

ドラマではなぜか利彦が弟に、秌子が姉に変わっていました。
原作では利彦が兄、秌子が妹です。

別荘で小間使いをしていた駒子は、姉妹を刺激する道具に使われました。

原作では、利彦と秌子の行為を目撃した駒子を、利彦が口封じのために犯した、ということになっています。

利彦も秌子も、ドラマのほうが外道ですね。

 

でも村上淳さんと筒井真理子さん、最高だったわ。

原作の利彦は臆病で神経質なところがあって、秌子は若くて美人でみんなからちやほやされるお嬢様でした。

それゆえに、利彦が身内には傲慢で高圧的だったり、秌子がセックス依存症だったりする側面を持っていることが、立体的な人物造形として強いインパクトを与えました。

ウィルヘルム・マイステルの修業時代

ドラマにもちらっと出てきましたが、椿子爵が美禰子に残した遺書は、ゲーテの「ウィルヘルム・マイステルの修業時代」という本に挟まれていました。

これにも意味があります。

「ウィルヘルム・マイステルの修業時代」には、兄と妹が互いに知らずに恋に落ち、子供ができて、3人が不幸な境遇に落ちていく遺族のことが書かれています。

椿子爵は、美禰子にそれとなく真実を伝えようとしていたんですね。


治雄の告白文

治雄は小夜子の死の真相を探るために椿邸に入りこんだ、と言っていました。
彼は、金田一に真相を突きつけられるまで、自分が何者か知らなかった。

知らずに、父親である利彦を殺し、大伯父である玉虫伯爵を殺したことになります。
そして、その真実を受け入れられず、発狂したように母親を滅多刺しにする。

 

なんという残酷な結末……。

原作では、治雄は全て知っていました。

金田一に追い詰められた治雄は、みんなの前で酒を飲み、肩に浮かび上がる火焔太鼓の痣を見せます。
そして、自分が利彦と秌子の息子だということを告白します。

そこからは、治雄が残した告白文(遺書)によって、すべてが明らかになります。

復員して小夜子が自殺したことを知った時、植辰の妾から真実を聞いたこと。
復讐のため、自分を生んだ両親と大伯父を殺すために上京したこと。

椿子爵に全てを話し、彼を脅して椿邸に住み込んだこと。

椿子爵が須磨へ行ったのは、治雄の話が本当かどうか確かめるためでした。


治雄の最期

ドラマでは、治雄は秌子を滅多刺しにし、等々力警部に銃殺されます。
正直、ドラマの結末はかなり後味が悪かったですね……。

原作の治雄は、椿子爵の黄金のフルートを取り出して「悪魔が来りて笛を吹く」を吹き(このとき金田一が曲の仕掛けに気づく)、そのまま床に倒れて死にます。服毒死でした。

ドラマでは、秌子は毒を飲んで死にかけるも一命を取り留めますが、原作ではここで死んでいます。なので、真実を知らされた治雄が狂気にとらわれて母親を滅多刺しにする、というシーンもありません。

原作の治雄は、自分が悪魔であることを知っていました。
すべて覚悟の上での所業でした。

その点で、少しだけ救われるんですよね……。

でもドラマの治雄は、何も知らなかったんですよ。
あの場で金田一に真相を聞かされるまで。

 

ドラマチックではあるけれど、治雄の気持ちになるとやりきれないわ。

復讐する理由も弱いですよね。
小夜子の死の真相を知らない治雄が、なぜ新宮利彦と秌子を殺そうと思ったのか。

小夜子を殺されたと思い込んでいたみたいだけど、やっぱりそれだけじゃ弱いと思う。

火焔太鼓の痣

酒を飲んだり入浴したりすると、利彦の肩に浮き出てくる火焔太鼓の痣。
ドラマではどう見ても刺青みたいでしたけど……。

金田一は治雄に酒を飲ませ、彼の肩に同じ痣が浮き出るのを見せて、利彦の息子であることを証明します。

原作では、治雄は自分に利彦と同じ火焔太鼓の痣があることを知っています。
だから、砂占いの時に火焔太鼓を描いたのです。

治雄は駒子の家でお風呂に入ったとき、この痣を駒子に見られています。
駒子はこの痣を見て、治雄が利彦の血を受け継いでいることに気づくんですね。

さらに、秌子もまた、鏡に映った治雄の肩にこの痣が浮かんでいるのを見て、悲鳴をあげています。

実は秌子が悲鳴をあげた理由は、ずっとわからないままでした。
それを金田一が解明し、治雄(東太郎)の自白を引き出すことになります。

悪魔が来りて笛を吹く

椿子爵が残したフルート曲「悪魔が来りて笛を吹く」。
原作では、こんな描写になっています。


このフルートのメロディーのなかには、たしかに一種異様なところがあった。それは音階のヒズミともいうべきもので、どこか調子の狂ったところがあった。そしてそのことが、この呪いと憎しみの気にみちみちたメロディーを、いっそうもの狂わしく恐ろしいものにしているのである。


椿英輔氏の「悪魔が来りて笛を吹く」は、徹頭徹尾、冷酷悲痛そのものである。ことにクレッシェンド(次第に強く)の部分のもの狂わしさにいたっては、さながら、闇の夜空をかけめぐる、死霊の恨みと呪いにみちみちた雄叫びをきくが思いで、いかに音痴の私でも、竦然として、肌に粟立つのをおぼえずにはいられない。

劇中で使われた曲はドラマオリジナルの曲なのですが、原作の描写に近い曲になっていて、印象的でした。

ちなみに「悪魔が来りて笛を吹く」というタイトルは、木下杢太郎の詩「玻璃問屋」の一節「盲目が来りて笛を吹く」から転用したものだろう、と金田一は推測しています。

ドラマでは、事件解決後に一彦が演奏し、それを見た金田一がこの曲に仕掛けられた秘密に気づきます。

この曲は、中指と薬指を使わなくてもすむように作曲されていたのです。
それによって、椿子爵は悪魔=治雄(東太郎)であることを暗示していました。

原作では、治雄はこの曲を奏でながら死んでいきます。


ラストシーンは、倍賞美津子さん演じる宿の女将せつ子とのやりとり。
ここ、原作にはないんですけど、膝を抱えてうじうじしてる金田一が可愛かったです。

余談ですけど、金田一が持ってるトランク、これ原作ではボストンバッグとかなんですよね。

石坂浩二さん演じる金田一が映画で初めてトランクを使って、この映画がヒットしたので、以来イメージが定着してしまったとか。
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先日開催された角川映画祭で『悪魔が来りて笛を吹く』(1978)を久々に再見した際、事件のカギを握るヒロインを務める鰐淵晴子の妖艶な美しさに、改めて圧倒されました。

日本人とオーストリア人のハーフという出自からくる日本人離れした西洋的な雰囲気が、横溝正史原作のおどろおどろしい猟奇ミステリ劇と不思議に合致し、ついには作品そのものの象徴として実に見事に映えているのです。


1978年の横溝正史原作のミステリ映画『悪魔が来りて笛を吹く』も不思議な作品で、ここで彼女はヒロイン役を務めながらもほとんど内面など深く描かれることはなく、しかし、ただそこにいるだけで作品世界の猟奇的妖艶さや華麗さ、そしてはかなさなどを象徴する存在として見事に映えていました。
http://cinema.ne.jp/recommend/harukowanibuchi2016090411/

 

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帝銀事件アメリカが隠したい元731部隊の某歯科医が真犯人だった。

それで身代わり逮捕した平沢貞通は冤罪にも出来ず、執行も出来なかった。


帝銀事件発生後、犯人から受け取った名刺を支店長代理が紛失していたことが判明(当時、支店長は不在)。彼の記憶と2件の類似事件の遺留品である名刺、生存者たち全員の証言から作成された犯人の似顔絵、事件翌日に現金に替えられた小切手を手がかりに捜査は進められた。

遺体から青酸化合物が検出されたことから、その扱いを熟知した、旧陸軍731部隊関東軍防疫給水部)関係者を中心に捜査されていた。陸軍第9研究所(通称9研)に所属していた伴繁雄から有力情報を入手して、事件発生から半年後の6月25日、刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るも、

突如、GHQから旧陸軍関係への捜査中止が命じられてしまう。

 

 

14名が銀行で「毒殺」された… 犯人は元「731部隊」か、「謎の大金」を持つ画家か 凶悪犯罪「帝銀事件」の真相とは

https://news.yahoo.co.jp/articles/5ff0ef54668557153884890a24c129f8d1762268


1948年、第二次世界大戦終結から3年後の日本は、まだGHQの占領下にあり、戦争の傷跡が社会に色濃く残っていた。社会不安が広がる中で発生した「帝銀事件」は、銀行内で14名が毒殺され現金などが奪われた凶悪犯罪である一方で、冤罪の可能性が示唆されることもあり、戦後日本の混乱を象徴する事件だといえる。改めて、昭和犯罪史に刻まれたこの大量毒殺事件の経過と、いまだ深い闇に包まれている謎について見ていきたい。 ■閉店直後の銀行を訪れた「白衣の男」  1948年1月26日(月曜日)午後3時過ぎ、東京都豊島区長崎にある「帝国銀行(三井住友銀行の前身のひとつ)」の椎名町支店では、閉店後の片付けが粛々と進められていた。そこに、白衣を着て「東京都防疫班」と記された腕章を付けた中年男性が現れた。  男は「厚生省技官」を名乗り、名刺を差し出して「近隣で集団赤痢が発生した。感染者の一人がこの支店に来ている。感染拡大を防ぐためGHQが消毒を行うが、その前に予防薬の服用が必要だ」といった旨を話した。  当時、GHQは日本社会において絶対的な権威を持っており、この説明は十分に信憑性を持つものだった。支店長が不在だったため、支店長代理が対応し、行員や住み込み従業員の家族ら計16名がその場に集められた。 ■14名がバタバタと倒れていく惨劇  白衣の男は「予防薬には2種類あり、必ず順番に服用する必要がある」と説明し、第一薬については「歯のエナメル質を保護するため」として舌を出して飲むように指示し、自分でやり方の手本を見せた。そして、集められた16名分の容器に液体を垂らすと、行員たちはその指示に従って舌を出した上で飲み込んだ。  直後、異常が発生する。第一薬を飲んだ全員が突然喉を押さえ、激しい苦痛を訴え始めたのだ。苦痛を和らげたい一心だったのだろう。16名は耐え難い苦しみから、うがいをしようと洗面所や台所に向かった行員たちだが、そこまでたどり着けずにバタバタと倒れていった。言うまでもなく、男が飲ませたのは毒物だった。  そんな中、女性行員の一人が幾度か意識を失いながらも外へ這い出し、助けを求めたことで、午後4時過ぎに事件の発生が発覚した。警察が到着したとき、犯人は現金約16万円と小切手(額面1万7450円)を奪い逃走していた。被害金額は当時の貨幣価値に換算して1000万円近い額に相当すると推定されている  警官が駆けつけると、室内には多くの人が倒れ、嘔吐物が散乱した状態だった。行員ら16名のうち12名が死亡、残る4名も重体。被害者の中には住み込み従業員一家の子供も含まれていた。  なお、小切手は翌日には現金化されており、警察はその経路を追ったが、犯人の特定には至らなかった。 ■数ヶ月前にも発生していた「未遂の類似事件」  この事件には、見逃せない類似事案が2つ存在する。まず、1947年10月、安田銀行荏原支店に「厚生技官 医学博士 MS」と記された名刺を持つ男が現れ、赤痢発生を理由に行員らに液体を飲ませたという事件が発生している。なお、幸いにも死者は出なかった。  MSという人物は実在していたが、事件当時のアリバイが確認されている。また、名刺自体は本物だった。つまり、MSが誰かに渡した名刺が悪用されたのである。さらに1948年1月、三菱銀行中井支店でも「医学博士 YJ」と名乗る男が現れ、行員らに液体を飲ませようとしたという出来事があった。  ただし、男は不審に思われ追及されるとその場から逃走した。「YJ」という名前は架空だったことが判明している。  警察は「帝銀事件」を含め、これらの事件を同一犯によるものと推測した。舌を出させて毒物を飲ませる手口から、犯人が劇薬の効果を熟知しており、医療関係者である可能性が示唆された。また、16名が次々に苦しみ倒れる惨状の中でも一切動揺せず、現金を奪い去った点から、冷酷で無情な人物と考えられた。  ただし、帝銀事件の犯人が冷静沈着であったのに対し、類似事件の犯人とみられる人物は落ち着きに欠ける行動を取っており、一貫性の欠如が見られた。 ■「731部隊」への捜査は、GHQの命令により中止された  犯行に使用された毒物は青酸化合物であることがわかっている。この毒物を取り扱うには専門知識が必要であり、警察は旧陸軍の陸軍中野学校関東軍防疫給水部本部(通称「731部隊」)にも捜査を広げた。  しかし、旧陸軍をめぐる捜査は進展せず、その背景にはGHQが関与したとする説も囁かれる。 ■決定的な証拠がないまま行われた画家・平沢貞通の逮捕  帝銀事件の捜査で、毒物以外に重要な糸口となったのが名刺だった。事件当日、支店長代理が受け取った名刺は現場で確認されなかったが、類似事件で使用された「MS」の名刺が手がかりとして浮上した。  実在する医学博士・MSは几帳面な性格で、名刺を渡した相手や日付を詳細に記録しており、警察はその記録を徹底的に調査した。その結果、MSの名刺を受け取った人物の中で、その時点で名刺を所持しておらず、事件当時のアリバイを証明できない画家・平沢貞通(56歳)に疑いが向けられた。  平沢は「名刺はバッグごと盗まれた」と証言し、盗難届も提出していた。しかし、名刺捜査班のI警部補は平沢への疑念を捨てず、強引に接触を試み、記念写真と称して平沢の顔写真を入手するなど執拗に調査を進めた。  平沢の容貌は人相書きとの一致も見られたが、犯人である決定的な証拠は見つからず、捜査本部内では「Iの捜査は行き過ぎではないか」との批判も出た。  それでも、1948年8月21日、平沢は小樽で逮捕された。東京への移送中の平沢は、夏にもかかわらず頭から毛布を被らされ、食事を与えられないなどの人権を無視した扱いを受けたという証言もある。 ■手にペンを突き刺し、壁に血で「無実」と書いた平沢  平沢には毒物に関する知識がなかった。だが、事件直後に大金を所持していたことが疑われた。警察はその金の出所を追及したが、平沢は明確な説明をしなかったため、疑念を深めることとなった。  それでも平沢は一貫して犯行を否認し続け、8月25日にはガラスペンの先端を手に突き刺して自殺未遂を図った。このとき、血で「無実」と書き残したという話も流布されている。  一方、平沢が過去に銀行相手に4件の詐欺事件を起こしたことが明らかになり、本人もこれを自白した。しかし、帝銀事件と直接的に関連する証拠にはならなかった。この件には、狂犬病の予防接種後に精神疾患や記憶障害が見られるようになった影響があったという指摘もある。  ところが9月下旬、平沢は追い詰められた末に、これまでの否認を翻し、犯行を認める供述を始める。この供述をもとに、10月12日、強盗殺人および強盗殺人未遂の容疑で起訴された。  この起訴の根拠となったのは平沢自身の自供のみであり、物的証拠は一切存在しなかった。

 

■「死刑」判決後、再審は一度も認められなかった  1948年12月に始まった公判で、平沢貞通は無罪を主張した。しかし、1950年、東京地裁は死刑判決を下し、1955年には最高裁で上告が棄却され、死刑が確定した。  一方で「平沢は冤罪だ」という声は根強く、擁護派は「平沢の自白は警察による暴力的な取調べや、彼が抱える精神疾患の影響によるもので信憑性に欠ける」と主張した。また、物的証拠が一切存在しない点も疑念を深めた。平沢は再審請求を17回、恩赦願は3回にわたり提出したが、いずれも却下された。  1980年代以降、「免田事件」や「財田川事件」などで死刑判決を受けた被告が再審で無罪となる事例が相次いだが、帝銀事件については再審が一度も認められることはなかった。  その反面で、冤罪の可能性を考慮したのか、歴代の法務大臣は誰一人として平沢の死刑執行命令に署名せず。この結果、平沢は39年間にわたる獄中生活を送り、1987年5月10日、95歳で獄死した。 ■いまだ解明されない「二つの謎」  帝銀事件には今も解明されない大きな二つの謎が残る。一つ目は、平沢が得た大金の出所である。もし平沢が冤罪であるならば、この金の出所を明確にすれば無実を証明できたはずだ。しかし、供述は二転三転し、いずれも虚偽と判明した。なぜ平沢は真実を語らなかったのか、いくつかの説があるものの、それが正しいか否かを証明する術はもはや存在しない。  二つ目は、旧陸軍への捜査とGHQの関与に関する疑問である。一部では、GHQ731部隊の研究データを接収し、それを利用する目的で捜査に影響を与えたとする説が提起されている。731部隊満州を拠点に、生物兵器の開発や人体実験に関する膨大なデータを有していたとされ、それがアメリカの軍事や医学分野に利用されたという推論もある。しかし、捜査が実際に妨害されたのか、それとも通常の捜査過程で進展がなかっただけなのかは明らかではなく、この点については現在も議論が続いている。いずれにしても、帝銀事件にまつわるすべての真相が明らかになる日は訪れそうにない。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5ff0ef54668557153884890a24c129f8d1762268?page=2

 

 

帝銀事件では伝染病を口実にして行員は青酸化合物を一斉に飲まされた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103130002/

 

 日本が連合国に降伏して間もなく、まだ占領されていた1948年1月26日の午後3時過ぎ、東京都豊島区にあった帝国銀行椎名町支店にひとりの男が現れた。男は「集団赤痢が発生した」として液状の「消毒薬」を16名の銀行員に飲ませ、そのうち12名を殺害している。その男の左腕には東京都のマークが入った消毒班の腕章を撒いていた。

 男は「GHQのホーネット中尉」の命令で来たと告げ、中尉が来る前に「予防薬」を飲むように促した。男は机の上にニッケルメッキの小型ケース(軍医の野戦携帯用ケース)と薬瓶を置く。瓶の中にある液は下層3分の2ほどが白濁していたという。さらに「SECOND」と書かれた紙が張られた大きな瓶を机の脚の脇に置く。そのうえで、ケースの中から駒込ピペットを取り出し、それを使って薬瓶から液を吸い上げ、茶卓の上に並べられた茶碗やコップに注ぎ分けた。

 男は歯の琺瑯質を損傷するからとして、一気に飲む込むように指示、まず自分が飲んで見せた。男は上澄みの部分を飲んだと思われる。第2液は第1液を飲んでから1分後に飲むようにと言っている。

 その説明の後、16名の行員は第1液を一斉に飲むが、全員が苦しみを訴える。1分後に第2液が配られ、それを飲むが、直らない。水道の水を飲む人もいた。行員は次々と倒れ、意識を失っていく。それを見届けた男は現金16万4000円余りと小切手1万7000円余りを奪い、逃げ去った。解剖の結果、青酸化合物を飲まされたことが判明している。

 この事件では興味深い点がいくつかある。例えば男が口にした「ホーネット中尉」は実在、毒物の量は致死量ぎりぎりで、手際の良さから毒物による殺害に慣れていることが推測される。捜査に当たった警視庁捜査2課が「第731部隊」に目をつけるのは当然だった。

 

 本ブログでも繰り返し書いてきたが、第731部隊生物兵器の研究開発の一端をになっていた。生体事件を担当していたのだ。設立されたのは盧溝橋事件(1937年7月7日)の少し前で、当初は加茂部隊や東郷部隊とも呼ばれた。第731部隊と呼ばれるようになったのは1941年から。この部隊の隊長を1936年から42年、そして45年3月から敗戦まで務めたのは石井四郎中将、1942年から45年2月までは北野政次少将だ。

 

 日本軍の降伏が間近に迫っていた1945年8月に第731部隊は関連施設を破壊して貴重な資料や菌株は運び出す一方、監獄に残っていた捕虜は皆殺しにした。

 日本へ逃げ延びた石井たちは1946年に入るとアメリカ軍の対諜報部隊CICの尋問を受けているが、厳しいものではなく、資料はアメリカ側へ引き渡された。尋問の過程でGHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と石井は親しくなり、隊の幹部たちはアメリカの保護を受けるようになる。日本が提供した資料や研究員はドイツから提供された知識と同じように、アメリカにおける生物化学兵器開発の基盤になった。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202103130002/

 

 

第2次世界大戦後、アメリカでは軍や情報機関が心理操作を目的とするプロジェクトを進めている。1950年には「ブルーバード」を開始、その翌年にCIAのチームは東京でソ連とのつながりが疑われた4名の日本人を尋問、その際にいくつかの薬物を試している。結局、ソ連との関係を白状し、4名は射殺されて東京湾に沈められた。1953年に始められた「MKウルトラ」は有名だ。(Stephen Kinzer, “Poisoner in Chief,” Henry Holt, 2019)

 尋問に使われていた幻覚剤のLSDを製造するのは、言うまでもなく、薬品会社だが、毒薬の開発も進められた。日本で1995年に使われたサリンをCIAは1970年代に暗殺のために使っていたと言われている。

 1948年1月26日に東京都豊島区の帝国銀行椎名町支店で12名の行員が殺された「帝銀事件」では遅効性の青酸化合物が使われたが、こうした薬物を入手、使用できるのは生物化学兵器部隊の元隊員だろうと警察の捜査官が考えたのは当然だ。

 日本における生物化学兵器の開発は軍医学校、東京帝国大学医学部、京都帝国大学医学部が中心になって行われていた。毒物や病原体の効果を調べる目的で生体実験が行われたが、そのために中国で部隊を編成している。「関東軍防疫部(731部隊)」、「関東軍軍馬防疫廠(100部隊)」、「南方軍9420部隊」、「北支那方面軍1855部隊」、「南支那派遣軍8604部隊」などだ。特に有名なのは「731部隊」だろう。

 この部隊の隊長を1936年から42年、そして45年3月から敗戦まで務めたのは石井四郎中将。日本の敗北が不可避になると石井たちは日本へ逃げ帰り、1946年にはアメリカ軍の対諜報部隊CICの尋問を受けていることになるが、これは厳しいものではなかった。

 その過程で石井はGHQ/SCAPの情報部門G2の部長を務めていたチャールズ・ウィロビー少将と親しくなり、日本側の資料や研究員はアメリカにおける生物化学兵器の研究開発で中心的な存在であるキャンプ・デトリック(55年からフォート・デトリックに格上げされた)へ運ばれている。

 アメリカでも生物化学兵器の研究は行われていた。1943年にUSBWL(陸軍生物兵器研究所)がキャンプ・デトリックに創設されているが、研究開発が本格化するのは第2次世界大戦の後。日本やドイツから生物化学兵器に関する資料がアメリカへ引き渡され、日独の研究員が合流してからだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202112180000/

 

731部隊については

「標本室は目の開けられないくらい・・・」731部隊の実態、元少年兵の目に焼きついた光景
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16849822

愛国者篠塚良夫は14歳で731部隊入隊
http://www.asyura2.com/13/senkyo150/msg/442.html

731部隊wikipedia(隊員の子孫は、先祖の功罪を相続し、米英以生物兵器の全ワクチンを発見・発表すべきです)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak46/msg/167.html

731部隊と医療被曝 _ 無事に内地に帰還した731部隊員は何をやったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/471.html

東海アマブログ  731部隊の人体実験 猿の頭痛
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1043.html