ウェブブラウザに Brave を使うと、広告なしで youtube を視聴することができます
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14131432
スマホやノートパソコンを使っていると失明する
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/342.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/903.html
【Windows 10・11】ブルーライトカットの設定方法!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16832096
民族の起源・DNA解析
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14037548
原始宗教、アニミズム・トーテミズムとシャーマニズム
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16835417
世界史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14095572
▲△▽▼
▲△▽▼
スキタイ人はなぜ歴史から姿を消したのか?フン族やモンゴル帝国に影響を与えた謎多き古代遊牧民!
History hub 2024/12/14
スキタイ人は紀元前7~3世紀ごろ、黒海北部の草原地帯で活躍した遊牧民で、フン族やモンゴル帝国の元祖とも言える存在です。馬を使った騎射戦術で名を馳せ、ペルシャ帝国などの大国とも戦いました。移動式住居「ゲル」に住み、肉や乳製品を主食とし、発酵馬乳「クミス」も愛飲。黄金細工や動物モチーフの装飾で知られ、ギリシャ文明にも影響を与えました。墳墓や言語、宗教には謎が多く、現代にも彼らの遺伝子や文化の影響が残っています。自由を愛した彼らの生き方は、今も魅力的です。
▼チャプター
00:00 イントロ
00:49 第一章:スキタイ人ってどんな人たち?
04:37 第二章:スキタイ人のライフスタイル
07:27 第三章:歴史へのインパクト
09:43 第四章:スキタイ人の謎
12:43 まとめ
【匈奴・ウイグル・モンゴル】ユーラシア遊牧国家の歴史
歴ログ世界史チャンネル 2024/03/16
ユーラシア大陸は、東はマンチュリアつまり中国東北部から、西はパンノニア平原つまりハンガリー平原まで広大な半砂漠の乾燥地帯・草原地帯が広がっています。世界史ではこのユーラシアの乾燥地帯・草原地帯から、匈奴、突厥、ウイグル、遼、そしてモンゴルという強大な遊牧国家が生じてきて、ものすごいインパクトを世界中に与えてきています。
今回はユーラシアの遊牧国家の成立原理というのを解説していきます。
▲△▽▼
▲△▽▼
発掘された2400年前の革、人間の皮膚でした 2023年12月22日
https://www.gizmodo.jp/2025/11/researchers-test-2-400-year-old-leather-and-realize-its-2.html
なかなか激しいスキタイの人たちの記録。
ユーラシア・ステップに住む遊牧民で騎馬民族。定住せず、残っているのは東ヨーロッパ全体に広がってクルガンと呼ばれる古代の墳墓(日本の古墳のような感じみたいです)にある埋葬品のみ。
そんな謎のスキタイ人の墳墓で見つかった革が一体なにからできているのか調査するために、研究チームがそのタンパク質を調べました。
その結果、なんと人間の皮膚だったのです。スキタイ人たちは人間の皮膚から革を作っていたようです。この研究の結果はPLOS Oneに掲載されています。
スキタイ人とは?
45枚の革のサンプル(および2つの毛皮)が、スキタイの遺跡から回収されました。スキタイの埋葬遺跡は東ヨーロッパ全体に広がってクルガンと呼ばれる古代の墳墓(日本の古墳のようなもの)にあります。馬を家畜にした証拠が最初に見つかったのも、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリーのクルガンからでした。
スキタイ人はユーラシア・ステップに住む遊牧民族で、新しい論文によると、「ヨーロッパとアジアのさまざまな定住社会を結ぶ移動橋として機能」していたそうです。スキタイ人は大陸間で技術、商品、アイデアを運び、交換していました。
紀元前5世紀頃の古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが、スキタイ人についての描写を残しています。ヘロドトスは、直接の経験を通してではなく、東アジアからの商業ルートを通じて伝わった噂を通じて、スキタイ人について書いていました。
ペン・ミュージアムによると、ヘロドトスはスキタイ人たちは全員が馬上から射撃でき、所有している唯一の家は荷車だけと説明しています。
人の血を飲み、頭皮を縫い合わせて服を作る!
歩行時の武器は戦斧であり、ヘロドトスはさらに、スキタイ人が馬を崇拝していた考古学的な証拠があるとも書き残しています。
また、スキタイ人は敵の血を飲み、切り取られた頭を戦利品の取引に使用、頭皮を縫い合わせて服を作るなどもしていたとヘロドトスは書いていて、それについても今回の研究では触れられています。
というのも、今回研究で重要なのは、ヘロドトスが
多くの者は、死んだ敵の右手の皮、爪もすべて取り外し、それを矢筒のカバーとして使う。
と述べていた点です。
革と一緒に見つかった毛皮のサンプルは、キタキツネとネコ科、リス科の動物と特定されました。
研究チームは識別した革サンプルの26%については分類学的な同定をすることができませんでしたが、サンプルの大部分はおそらくヤギだったとのこと。次が羊皮(約19%)でした。
また2つが馬から、そしてもう2つが人間の皮膚から作られた革でした。
とにかく手に入る皮でなんでも作っていた
人間の皮革の検証により、研究チームは革の断片がそれぞれの矢筒の上部に作られたものであると結論づけました。残りの矢筒は動物の皮から作られていました。
しかし、動物の皮の矢筒でも異なる皮の組み合わせがあり、研究チームは「各射手がその時点で利用可能な材料を使用して自分自身の矢筒を作った可能性がある」と仮説を立てています。
戦場でのスキタイ人は、結構楽しんでいたことも記録されています。古代ギリシャの著者たちによるスキタイ人の激しい飲酒文化の記録が残っており、さらにヘロドトスは古代のマリファナのようなものを詳細に説明しています。
完全な遊牧民は一部だけだった?
新しいスキタイ人の研究は、スキタイ人のイメージをどんどん塗り替えています。たいへん恐れられた遊牧の戦士のイメージにとどまらず、2021年に別のチームが行なった研究では、ウクライナ各地の歯のエナメル質から同位体を研究し、古代の人々の食事を分析しています。
また、スキタイ時代の人たちの中で本格的な遊牧生活を送っていたのは実はごく一部だったと結論づけている研究もあります。
古代の戦士で人間の皮膚を矢筒に使用したのがほんの一部の人たちだけであっても、この研究はスキタイ人に関するヘロドトスの主張を裏付けることになりました。ヘロドトスが言う頭皮から作られた服も、いつかどこかで見つかるかもしれません。
https://www.gizmodo.jp/2025/11/researchers-test-2-400-year-old-leather-and-realize-its-2.html
▲△▽▼
▲△▽▼
2015年01月04日
スキタイ人の起源は中央アジアのトゥヴァと判明 イズベスチヤ紙
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/411786681.html?seesaa_related=category
9 сентября 2002 2002年9月9日
Известия イズベスチヤ紙
http://izvestia.ru/news/266886
「王家の谷」の今年の夏の発掘は、衝撃をもたらしました。
ペテルブルグの学者らが、紀元前7世紀~8世紀のスキタイ人の墓を発見したのです。
この発見は、スキタイの黒海沿岸起源説を根本から否定しました。
黒海沿岸のあらゆるスキタイ遺跡よりも、発見された墓の方が古いからです。
アジアの遊牧文化についての従来の見解が、ひっくり返りました。
遺跡の古さは、スキタイ部族が、中央アジア出身で、その後、黒海沿岸まで到達した事を物語ります。
スキタイ人の出身地についての議論は、ヘロドトスの時代に始まりました。
スキタイ人の墓は黒海沿岸で見つかりますが、ヘロドトスは、アジア出身の部族だと記述しました。
何百年間も、アジア起源説は疑問視され、スキタイ人ヨーロッパ起源説が主流でした。
発見された頭骨の特徴から、スキタイ人が、モンゴロイドではなくコーカソイドと判断されたからです。
スキタイ文化の一番の特徴である、装飾品の動物文様は、
スキタイ部族が、近東への遠征から帰還した後に始まったと、学者は考えていました。つまり、紀元前7世紀以降です。
これは、当時の古文書の記述から、判断されました。
「王家の墓」研究は、ロシア・ドイツ合同調査計画の成果です。
中央アジア考古学調査隊(ロシア文化省自然文化遺産研究所ペテルブルグ支部とロシア科学アカデミー)とドイツ連邦ベルリンの考古学協会ユーラシア部門が発掘しました。
アルジャン村の近くの平原(トゥヴァ北部、西サヤン山脈の支脈のトゥラン・ウユク盆地)は、前から考古学者が注視していました。
ここの「王家の谷」に、ユーラシアの初期遊牧文化の大古墳群があるからです。
最初の科学的発掘は、20世紀初めに行われました。
1970年代には、レニングラードの学者ミハイル・グリャズノフが、衝撃的発見をしました。
アルジャン古墳の発掘品から
紀元前1千年から紀元にかけての時代の、ユーラシアの初期遊牧文化の起源が明らかになったからです。
アルジャン第二遺跡の古墳発掘は、もっと普通の理由で始まりました。
1970年代の自動車道路建設で、損傷を受けていたからです。
紀元前7世紀から8世紀の遺跡が見つかった、トゥヴァの近年の発掘は、
図らずも、ヘロドトスの記述の正しさを証明しました。
スキタイ部族かどうかの判断は「スキタイの三種の道具」の存在によります。武器・馬具・動物紋様です。
発見された「王家の谷」と呼ばれる、紀元前7世紀~8世紀の古墳群は、
考古学的知見から、黒海沿岸にスキタイがいなかった時代の物です。
アルジャン第二遺跡の古墳での発見は、考古学的に比類ない物だと。
スキタイの三種の道具の装飾は、高度に発達した緻密さで
最初は、紀元前6世紀よりも前の遺物とは、信じられませんでした。
詳しい分析で、スキタイの王族に属さない「首領」の墓は、紀元前7世紀よりも新しい事が分かりました。
アジアの遊牧民文化の常識を覆しました。スキタイの高度に発達した芸術は
もっと後の時代の古代ギリシャ芸術を凌いでいます。
発見した遺跡の年代の古さから、スキタイ人は、中央アジアから黒海沿岸に勢力を伸ばした事になります。
しかし、クジル(訳注:トゥヴァの首都)で、調査結果の最初の発表がなされたあとに、話題になった「トゥヴァ住民がスキタイの子孫である」と言う「科学的」な説は、ペテルブルグの学者らが否定します。
主な理由は、スキタイ人の頭骨がコーカソイドの特徴を持ち、イラン語族である事です。
ある地域の古代文明の担い手が、後から来た地域住民の、本当の先祖であるとは限りません。
発掘は、来年の五月まで休止なので、中央アジア調査隊は、首を長くして来シーズンを待ちます。
あなたは、どう思いますか。
スキタイ戦士のミイラ - 2006年の衝撃的発見
http://eurasianhistory.seesaa.net/article/411668969.html?seesaa_related=category
スキタイ戦士のミイラ - 2006年の衝撃的発見 (ロシア語)
03.11.06 2006年11月3日
http://www.iriston.ru/news/full/kultura/mumiya_skifskogo_voina_-_sensatcionnaya_nahodka_2006/
2500年前のスキタイ戦士のミイラが、モンゴルの古墳から見つかりました。
ドイツ考古学協会の国際チームが、標高2600m地点で、偶然、古墳を見つけました。
この古墳は、とても長い間誰も知らなかった秘密を見せてくれました。ドイツ考古学協会のヘルマン・パルジンガー会長は言います。
古墳だけでなく、自然そのものが、現代まで、保存してくれました。
古墳を包んでいた氷が、スキタイの戦士を、良い状態で保存しました。
写真1:墓室の概観:古墳が氷に包まれ、ミイラは、非常に良い状態で保存されていました。
スキタイ - 金髪の人々
その遊牧民のウエーブのかかった金髪が目をひきます。30歳から40歳で亡くなったようです。
腰から下が完全にミイラ化している遺体は、とても保存状態の良いビーバーの毛皮のコートを着ています。クロテンの毛皮の飾りが付き、内側は羊の毛皮です。
戦士の体には、たくさんの刺青があります。
これまでの発掘例と同じく、戦士の副葬品として、飾りの付いた鞍と手綱、木製の食器、金箔を使った頭飾りと武器が見つかりました。
この発見で、スキタイの領土がアルタイ山脈の南にまで広がっていた事が分かりました。
今後の研究は、最新の分子生物学的手法を使って、偉大な遊牧民のアルタイでの生活を解明すると、ドイツ考古学協会の会長は言います。
マジナ・グサロヴァ
写真2:アルタイの埋葬場所:ここで学者が2500年前のスキタイ戦士のミイラを発見。
写真3:カラマツの丸太の棺:上に二匹の馬の遺骸がある。
▲△▽▼
2015年01月02日
先日、遺伝的研究の結果が出ました。シベリアの古代のインド・ヨーロッパ系住民の遺骨です。
四つの文化に属した、25個の骨片を調べました。
アンドロノヴォ文化、カラスク文化、タガール文化、タシュティク文化で、現在のクラスノヤルスク地方に、紀元前3000年から紀元後4世紀まで存在しました。
研究目的は、常染色体の色素遺伝子の識別です。25体中23体で成功しました。
少なくとも60%が、明るい目の色(青か緑)だったと分かりました。
研究結果「分析した古代人の多くは、典型的な明るい色の表現型です。」
「明らかに、典型的な西欧人の色素の特徴です。つまり、青か緑の目、明るい色の髪と肌。おそらく、西欧人の系統でしょう。」
25体の常染色体の遺伝子を、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人の遺伝子と比較しました。
22体が西欧系、2体がアジア系、1体が西欧とアジアの中間でした。
これよりも前に、同じ遺骨で、男系のハプロタイプ(Y染色体)を調べました。
18体で分析できました。
17体は、インド・ヨーロッパ系ハプロタイプのR1a1で、1体は、アジア系ハプロタイプCでした。
このモンゴロイドY染色体を持つ個体は、新しい研究で、常染色体遺伝子もアジア系と分かりました。(アジア系常染色体遺伝子を持つもう一人のY染色体ハプロタイプは、識別不能でした。)
▲△▽▼
Y染色体R1a系統 - 有名人のハプログループ
https://famousdna.wiki.fc2.com/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93R1a%E7%B3%BB%E7%B5%B1
Y染色体ハプログループR1a1系統 【スキタイ系】

Y染色体ハプログループR1a1a系統 【アーリア系】
キュロス大王


ミカロユス・ラドヴィラ・ルダシス公
ザラスシュトラ

Y染色体ハプログループR1a1a1b1a2系統 【アーリア系】
ガウタマ・シッダールタ

▲△▽▼
▲△▽▼
雑記帳 2021年03月30日
スキタイ人集団の遺伝的構造
以前のゲノム研究では、青銅器時代草原地帯において大規模な遺伝的置換(したがって、かなりの人類の移住も)が検出され、それは最終的に、西部および中央部草原地帯の定住牧畜民を特徴づける、均質で広範に拡大した中期~後期青銅器時代遺伝子プールの形成をもたらしました(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。これら中期~後期青銅器時代(MLBA)クラスタの急速な衰退とスキタイの台頭を促した理由は、まだよく理解されていません。研究者たちが指摘してきたのは、最も関連する要因のなかで、気候湿潤化と、近隣農耕文化(文明)、つまりバクトリア・ マルギアナ複合(BMAC)文化と関連する文化からの社会経済的圧力です。
スキタイ人の起源に関しては、競合する3仮説が議論されてきました。第一に、推定されるイラン語により支持されるポントス・カスピ海草原起源説です。第二に、考古学的知見により支持されるカザフ草原起源説です。第三に、共通の文化的特徴を採用した遺伝的に異なる集団の複数独立起源説です。これまでに鉄器時代草原地帯遊牧民から回収されたゲノムの数は限定的で、スキタイ人の遺伝的多様性を一瞥できるものの、さまざまなユーラシア東西の遺伝子プール間の混合の複雑なパターンを特徴づけるには、とても充分ではありません(関連記事1および関連記事2)。
考古学的観点からは、遊牧民戦士文化と関連する最初の鉄器時代埋葬は、カザフ草原東端の、トゥワ(Tuva)とアルタイ地域で特定されました(紀元前9世紀)。この初期の証拠に続いて、カザフスタン中央部および北部のタセモラ(Tasmola)文化は、最初の主要な鉄器時代遊牧民戦士文化の一つです(紀元前8世紀~紀元前6世紀)。これらの早期集団の後には、カザフスタン南東部と天山(Tian Shan)山脈に位置する象徴的なサカ(Saka)文化(紀元前9世紀~紀元前2世紀)や、アルタイ山脈を中心とするパジリク(Pazyryk)文化(紀元前5世紀~紀元後1世紀)や、ウラル南部地域に最初に出現し(紀元前6世紀~紀元前2世紀)、コーカサス北部やヨーロッパ東部にまで西進した(紀元前4世紀~紀元後4世紀)サルマティア人(Sarmatian)が続きます。遊牧民集団も、トボル(Tobol)川とエルティシ(Irtysh)川との間の北部森林草原地帯に位置する、サルガト(Sargat)文化遺構(紀元前5世紀~紀元前1世紀)と関連する文化など、その定住型隣人に影響を与えました。
鉄器時代後のカザフ草原は、東方の匈奴(Xiongnu)や鮮卑(Xianbei)、南方のペルシア人関連王国の康居(Kangju)など、複数の帝国の拡大の中心として機能しました。これらの事象は、スキタイ東部文化の終焉をもたらしましたが、この文化的移行と関連する人口統計学的交代はよく理解されていないままです。さらに、遊牧民生活様式の形態は、何世紀にもわたってカザフ草原で存続しました。遊牧民人口集団の最近の歴史における重要な事象は、紀元後15・16世紀に起きました。この時、現在のカザフスタンの領域に住む全部族が組織化され、主要な3ジュズ(Zhuz)に分類されました。それは、長老(Elder)ジュズと中年(Middle)ジュズと若年(Junior)ジュズで、それぞれカザフスタンの南東部・中央部および北東部・西部に位置します。ジュズとは、本来「100」を意味する言葉で、「(カザフ人全体の中の)部分」を意味する、民族と部族の中間概念とのことです(関連記事)。
この分割はアジア中央部全域に拡大し、ジョチ・ウルス崩壊後に外部の脅威から自衛する必要があった、異なる部族間の政治的で宗教的な妥協でした。これは、カザフ・ハン国(紀元後1465~1847年)設立の基礎を築きました。現在、カザフスタンのカザフ人集団は依然として、その部族同盟を維持しており、その文化の一部の側面を維持しながら遊牧民の歴史を尊重しています。これらの伝統の一つは、親族間の結婚を避けるために父系により家系図を7世代までさかのぼる「ジェティ・アタ(Zheti-ata)」です。
さまざまな鉄器時代遊牧民文化の遺伝的構造や、その起源と衰退に関する人口統計学的事象を理解するため、カザフ草原全域(カザフスタンとキルギスとロシア)の39ヶ所の遺跡で回収された古代人111個体と、現在のハンガリーに位置するフン人エリートの埋葬から回収された1個体のゲノム規模データが生成されました。本論文のデータセットの範囲はおもに紀元前8世紀~紀元後4世紀までで、中世の3個体も含みます(図1)。また、最近の歴史事象が現代遊牧民の遺伝的構造をどのように形成してきたのか、よりよく理解するため、現在のカザフスタンの全域にわたる、主要な3ジュズに分類されるいくつかの部族に属する現代カザフ人96個体の新たなゲノム規模データも生成されました。
1233013ヶ所の一塩基多型を濃縮するよう設計されたDNA解析技術を用いて、古代人117個体のゲノム規模データが得られました。品質管理の後、現代カザフ人96個体と古代人111個体のデータが保持され、少なくとも2万ヶ所を超える一塩基多型が網羅され、全個体で常染色体網羅率1.5倍のゲノム規模データが得られました。これら新たなデータは、以前に公開された現代および古代の個体群の参照データセットと統合され、586594ヶ所の一塩基多型で主成分分析および混合分析が行なわれました。各個体は、年代と考古学的文化により分類されました。以下、本論文の図1です。
●カザフ草原における鉄器時代の移行
全体として、主成分分析とADMIXTUREでは、かなりの人口統計学的変化がカザフ草原の青銅器時代から鉄器時代の移行期に起きた、と示唆されます(図2)。紀元前二千年紀末までカザフ草原全域で見られるひじょうに均質な草原地帯中期~後期青銅器時代(MLBA)とは対照的に、鉄器時代個体群は主成分分析空間全体、とくにPC1軸とPC3軸に散らばっています。これらPC軸に沿った広がりはそれぞれ、MLBA人口集団と比較しての余分なユーラシア東部人との類似性と、最終的には新石器時代イラン人および中石器時代コーカサス狩猟採集民(以下、イラン人関連祖先系統と呼ばれます)と関連する南部人口集団との余分の類似性の、さまざまな程度を示唆します。
高い遺伝的多様性にも関わらず、同じ文化および/もしくは地域の古代の個体群の均質なクラスタを評価できます。年代順に従うと、前期鉄器時代タセモラ文化と関連する遺跡の個体群のほとんど(タセモラ650BCE)と、カザフスタン中央部・北部の「サカ文化カザフスタン中央部・北部600BCE」は、主成分分析の中央部でクラスタ化し、ADMIXTURE分析では遺伝的構成要素の均一なパターンを示します(図2A・D)。トゥワのアルディベル(Aldy-Bel)文化遺跡の以前に報告された2個体も、この遺伝的集団内に収まります(図2A)。この遺伝的特性は後の中期・後期鉄器時代で持続し、ベレル(Berel)のパジリク文化遺跡のほとんどの個体(パジリク・ベレル50BCE)により示されます(図2B)。
この鉄器時代クラスタは、同じ地域に居住していた以前の草原地帯MLBA集団とは異なり、これはほぼPC1軸沿いにユーラシア東部人の方へとかなり動いているためです。さらに、主要クラスタよりもユーラシア東部人へと一層強く動いている外れ値も明らかになりました。これは、パジリク・ベレル50BCEの外れ値2個体と、ビルリク(Birlik)のタセモラ文化遺跡の3個体(タセモラ・ビルリク640BCE)と、カザフスタン中央部・北部のコルガンタス(Korgantas)段階の4個体のうち3個体です(図2B)。ユーラシア東部人の遺伝的特性を有するビルリクの女性1個体(BIR013.A0101)は、典型的なユーラシア東部草原地帯の特賞を示す副葬品(青銅鏡)とともに発掘されました。
天山山脈地域から南方までの古典的な鉄器時代サカ文化個体群(サカ・天山600BCE、サカ・天山400BCE、以前に報告されたサカ・天山200BCE)は、タセモラ文化・パジリク文化クラスタとイラン人関連遺伝子プールとの間でPC3軸沿いに勾配で分布します(図2A・B)。新石器時代イラン人へのより強い類似性も、ADMIXTURE分析で見つかります(図2D)。イラン人関連遺伝子プールへの移動は、早くも紀元前650年頃に、サカ文化のエリート被葬者から回収されたエレケ(Eleke)・サジー(Sazy)の1個体(ESZ002)で見つかりますが、カスパン(Caspan)の紀元前700年頃となる最初の天山サカ文化遺跡の1ヶ所で発見された4個体のうち3個体は、タセモラ・パジリク集団の範囲内に収まります。
カザフ草原北方の森林草原地帯の定住性サルガト文化と関連する個体群(サルガト300BCE)は部分的に、タセモラ・パジリク文化クラスタと重なりますが、主成分分析では、ユーラシア西部人(PC1軸)および内陸部北方ユーラシア人の最上端の勾配(PC2軸)へと移動する集団を形成します(図2B)。主成分分析と一致して、サルガト文化個体群は、さらに南方の遊牧民集団では検出されなかった、アジア北東部人祖先系統のさまざまな種類の小さな割合を有しています(図2D)。
タセモラ・パジリク集団に収まる外れ値1個体を除いて、早期のサルマティア450BCEや後期のサルマティア150BCE、西部のサルマティア・カスピ海草原地帯350BCEといったサルマティア文化と関連する個体群は、広範な地域と期間にまたがっているにも関わらず、遺伝的にひじょうに均質です(図2A・B)。カザフスタン中央部および西部の早期サルマティア文化の7ヶ所の遺跡からの本論文の新たなデータ(サルマティア450BCE)は、この遺伝子プールがすでにサルマティア文化の初期段階にこの地域に広がっていた、と示します。さらに、サルマティア人は、ユーラシア西部人へと動くクラスタの形成により、他の鉄器時代集団とは急激な不連続性を示します。以下、本論文の図2です。
●鉄器時代人口集団の混合モデル化
qpWaveとqpAdmにより実行された鉄器時代集団の遺伝的祖先系統モデル化では、草原地帯MLBA集団が鉄器時代スキタイ人におけるユーラシア西部祖先系統起源にほぼ適切に近似しているのに対して、ヤムナヤ(Yamnaya)文化やアファナシェヴォ(Afanasievo)文化集団のような先行する草原地帯前期青銅器時代(EBA)クラスタは近似していない、と確認されました。ユーラシア東部人の代理として、時空間的近接性に基づき、モンゴル北部のフブスグル(Khovsgol)の後期青銅器時代(LBA)牧畜民が選ばれました。他のユーラシア東部人の代理は、古代北ユーラシア人(ANE)系統(関連記事)への類似性の欠如もしくは過剰のため、モデルに適合しませんでした。
しかし、このフブスグルと草原地帯MLBAの2方向混合モデルは、スキタイ人の遺伝子プールの遺伝的構成要素を完全には説明しません。欠けている断片は、コーカサス・イランもしくはトゥーラーン(現在のトルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン)の中部地域に居住していた古代人口集団と関連する起源集団からの、小さな寄与とよく一致します(図3A)。この祖先系統の割合は経時的・地理的に増加します。最北東部のアルディ(Aldy)・ベル(Bel)700BCE集団ではごくわずか、早期のタセモラ650BCEでは6%、パジリク・ベレル50BCEでは12%、サルガト300BCEでは10%、サカ・天山600BCEでは13%、サカ・天山400BCEでは20%で(図3A)、f4統計と一致します。サルマティア人のモデル化にも、イラン人関連祖先系統が15~20%ほど必要となりますが、東部スキタイ人集団よりもフブスグル関連祖先系統がずっと少なく、草原地帯MLBA-関連祖先系統が多くなっています。
サルマティア人と後の天山サカ人にとって、銅器時代集団やBMACやBMAC後といったトゥーラーンの集団のみが起源集団として一致しますが、イランとコーカサスからの集団は適合しません。本論文では、代表的な代理としてBMACとBMAC後の集団が用いられました(図3A)。タセモラ・ビルリク640BCEやコルガンタス300BCEやパジリク・ベレル50BCEoといった外れ値の余分なユーラシア東部人の流入は、フブスグルのような以前の集団と同じユーラシア東部の代理には由来しません。代わりに、ロシア極東の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave)遺跡の前期新石器時代集団(悪魔の門N)に表される、古代アジア北東部人(ANA)系統でのみモデル化できます(図3A)。以下、本論文の図3です。
●カザフ草原における鉄器時代後の遺伝的置換
紀元後千年紀早期(鮮卑・フン・ベレル300CE)からカラカバ(Karakaba)830CEやカヤリク(Kayalyk)950CEなどの個体群まで、上述の新たなユーラシア東部人の流入の劇化が観察されます。これらの個体群は主要な鉄器時代タセモラ・パジリクのクラスタからANA 集団に向かってPC1軸沿いに散在しています(図2C)。紀元後3世紀のフン人エリート層埋葬と関連する2個体は、一方がカザフスタン西部のアクトベ(Aktobe)地域のクライレイ(Kurayly)遺跡で、もう一方がハンガリーのブダペストで発見されていますが(フン人エリート350CE)、この勾配に沿って密集してクラスタ化します(図2C)。
カザフスタン南部のオトラル(Otyrar)オアシスの古代都市の個体群は、ひじょうに明確な遺伝的特性を示します。コンレイ(Konyr)・トベ(Tobe)300CE と呼ばれる5個体のうち3個体は、類似の年代と地域の康居250CE個体群と近く、サルマティア人とBMAC集団の間に位置します(図2C)。コンレイ・トベ個体群のうちKNT005は主成分分析ではBMACの方へと動いています(図2C)。さらに、KNT005はアジア南部人のY染色体ハプログループ(YHg)L1a2(M357)を有する唯一の個体で、ADMIXTUREではアジア南部人の遺伝的構成要素を示します(図2D)。KNT004はPC1軸ではアジア東部人の方へと動いています。アジア南部人からの流入を10%、ユーラシア東部人からの流入を50%含む混合モデルは、それぞれ適切にKNT005と KNT004を説明します。対照的に、コンレイ・トベ遺跡の200km東方に位置する天山山脈のアライ・ヌラ(Alai Nura)遺跡の個体群(アライ・ヌラ300CE)は依然として、コンレイ・トベ300CE により近い4個体およびタセモラ・パジリク集団により近い4個体とともに、天山サカの鉄器時代勾配に沿って位置しています(図2C)。
●古代の混合の年代
DATESプログラムでの混合年代測定により、紀元前1500~紀元前1000年頃の主要なスキタイ人遺伝子プールの形成が明らかになります(図3C)。DATESは2方向混合のみをモデル化するよう設計されているので、qpWaveとqpAdmで得られた推定される3方向モデルを説明するため、3対比較が個別に検証されました(草原地帯MLBAとBMACとフブスグル)。DATESは、ユーラシア東西の2組、草原地帯MLBAとフブスグル、BMACとフブスグルについて、指数関数的減衰の適合に成功しましたが、ユーラシア西部同士(草原地帯MLBAとBMAC)では失敗しました。
各標的について、草原地帯MLBAとフブスグル、およびBMACとフブスグルでは、ほぼ同じ混合年代推定が得られました。本論文の推定年代は、真のシミュレーション3方向混合を反映しているというよりはむしろ、2つのユーラシア西部起源集団からの相対的寄与により重みづけされる、遺伝的に区別できる東部(フブスグル)と西部(草原地帯MLBAとBMAC)の祖先系統間の平均年代をほぼ反映している、と考えられます。BMAC 関連祖先系統が増加するにつれて、天山サカ集団におれる混合年代が新しくなる、とDATES により明らかになったことは注目されます。サカ・天山600BCEからサカ・天山400BCEまで、タセモラ650BCEの年代についてパジリク・ベレル50BCEおよびサルガト300BCEと同様に、とくに後のアライ・ヌラ300CEにおいてはそうです。
鉄器時代に継続したBMAC関連起源集団からの小規模な遺伝子流動は、BMAC関連祖先系統の割合の増加と、ますます新しくなる混合年代の両方を説明できるかもしれません(図3A)。繰り返しになりますが、推定された年代は、BMAC関連起源集団との鉄器時代の混合と、草原地帯MLBAとの後期青銅器時代の混合の平均を反映しているので、それらの推定年代は鉄器時代の遺伝子流動の実際の年代よりも古い期間に動いている可能性があります。
qpAdmの結果を確認して、タセモラ・ビルリク640BCEとコルガンタス300BCEの混合個体群(混合東部鉄器時代)は、ひじょうに最近の混合年代を示します(図3C)。鮮卑・フン・ベレル300CEとフンエリート層350CEとカラカバ830CEといった後の集団はさらに、混合の最近の年代というこの傾向を確証し、この新たなユーラシア東部流入は鉄器時代に始まった可能性が高く、少なくとも紀元後千年紀の最初の数世紀の間継続した、と明らかになります。
●現代カザフ人
現代カザフ人で行なわれた主成分分析とADMIXTUREとCHROMOPAINTER/fineSTRUCTUREの詳細な規模のハプロタイプに基づく分析は、地理的位置もしくはジュズの所属に関わらず、カザフ人の間での緊密なクラスタ化と検出可能な下位構造の欠如を明らかにします(図2)。ほぼ地理的起源を反映するジュズの所属に従ってカザフ人個体群を分類し、独立した複製としての経路にしたがってGlobetrotter分析を実行して、カザフ人の遺伝子プールに寄与しているさまざまな祖先系統の起源集団が識別され、混合事象の年代が測定されました。Globetrotter分析は、3集団が同じ起源構成要素と混合年代を有し、さまざまなユーラシア西部・南部・東部の祖先系統の複雑な混合の結果である、と確認しました。Globetrotterにより特定された混合年代は、現代カザフ人の遺伝子プール形成の狭く最近の時間範囲(紀元後1341~1544年頃)を浮き彫りにします。
●考察
アジア中央部の古代人100個体以上の本論文の分析は、カザフ草原の鉄器時代遊牧民人口集団が広範な混合を通じて形成され、草原地帯の先行するMLBA人口集団と近隣地域人口集団との間の複雑な相互作用から生じた、と示します(図2A、図3 A・C、図4A)。本論文の知見は、スキタイ文化の起源について新たな光を当てました。本論文は、スキタイ文化のポントス・カスピ海草原起源を裏づけず、じっさい、同説は最近の歴史学と考古学ではひじょうに疑問視されています。カザフ草原起源説は、代わりに本論文の結果とよりよく一致しますが、人口集団拡散の単一起源と、文化伝播のみの複数起源という、二つの極端な仮説の一方を裏づけるというよりもむしろ、少なくとも2つの独立した起源と、人口集団拡散および混合の証拠が明らかになりました。とくに東部集団は、シンタシュタ(Sintashta)文化やスルブナヤ(Srubnaya)文化やアンドロノヴォ(Andronovo)文化など、さまざまな文化と関連しているかもしれない先行する在来の草原地帯MLBA起源集団と、近隣のモンゴル北部地域に後期青銅器時代にはすでに存在していた、特定のユーラシア東部起源集団との間の混合の結果として形成された遺伝子プールの子孫であることと一致します(関連記事)。
カザフスタン中央部と北部の前期鉄器時代タセモラ文化集団の遺伝的構造は、ほぼこれら2祖先系統で構成されていますが、そのモデル化にはイラン人関連起源集団からの遺伝子流動もわずかに必要です(図3 A、図4A)。トゥーラーンの全体的なBMAC関連人口集団は、本論文のモデルに最適であるものの、コーカサス北部青銅器時代集団のようなさらに西方のイラン人関連起源集団では適合しない、と明らかになりました。これらの結果は、南方文化と北方草原地帯の人々との間の文化的接続という、歴史学と考古学の仮説を確証します。このBMACからの流入は、後の紀元前4世紀~紀元後1世紀となる、ベレルに位置する北東部のパジリク文化遺跡のスキタイ人集団で継続し、南東部に位置する天山山脈のサカ文化個体群で次第に増加し、不均一に分布します(図2B・D、図3 A・C、図4B)。
以前に報告されたトゥワ地域のアルズハン2(Arzhan 2)遺跡のアルディ・ベル文化の2個体は、主要な東部スキタイ人遺伝的クラスタ内に収まり、最初のスキタイ埋葬が見つかる同じ遺跡にも存在した、と確認されます。モンゴルにおける鉄器時代移行からの最近の知見と組み合わせると(関連記事)、これらのデータは、全東部スキタイ人を形成した主要な遺伝的下位構造のアルタイ地域起源を示しているようです(図4B)。ウラル地域南部の西部サルマティア人も、東部スキタイ人と同じ3祖先的起源集団間の混合の結果として形成されました(図3 A)。それにも関わらず、ユーラシア東部人祖先系統はサルマティア人ではわずかしか存在しません(図3 A)。さらに、サルマティア人と東部集団との間の、その早期の混合(図3 C)と混合勾配の欠如(図2A・B・D)からは、サルマティア人が、東部スキタイ人に寄与した遺伝子プールと比較して、関連しているものの異なる後期青銅器時代遺伝子プールに由来し、おそらくは後期青銅器時代混合勾配に沿って異なる位置にある、と示唆されます。
既知で最初のサルマティア人遺跡の場所を考えると、この遺伝子プールは後期青銅器時代ウラル地域南部に起源がある、と仮定されます(図4B)。コーカサスとヨーロッパ東部の、後の年代で西端となるスキタイ文化からのより多くのデータが、本論文で分析されたカザフ草原のより早期のスキタイ人との遺伝的類似性の、さらなる理解を提供するでしょう。さらに、本論文の結果から、北部の定住性サルガト関連文化個体群は、スキタイ人、とくに東部遊牧民集団と密接な遺伝的近似性を示す、と明らかになります(図2B)。サルガト文化個体群は、究極的にはシベリア北部系統と関連する、スキタイ人には見られない追加の遺伝的類似性を示します(図2D、図3 A)。これは、サルガト文化集団が、侵入してくるスキタイ人集団と、標本抽出されていない在来人口集団、もしくは恐らくこの余分なシベリア人祖先系統を有する近隣人口集団との間の混合の結果として形成された、との歴史的仮説と一致します。
紀元前千年紀後半から、興味深いことに、カザフスタン中央部のタセモラ文化を置換したコルガンタス文化の出現と関連する多くの外れ値で、大きな遺伝的変化が検出されます。とくに、後期青銅器時代の変化に寄与した起源集団とは異なる、ユーラシア東部起源集団からの流入が観察されます(図3 A、図4C)。紀元前千年紀の変わり目に、この混合された遺伝的特性は、鮮卑・フン文化および後の中世個体群と関連する北東部個体群間で広がるようになりました(図2C・D、図3 B、図4C)。それらの個体群で得られたひじょうに変動的な混合割合と年代から、これが紀元後千年紀(少なくとも紀元後1世紀~紀元後5世紀)を特徴づける継続的な過程だった、と示唆されます(図3 C)。紀元後千年紀の追加の遺伝的データが、この不均質性の性質と程度のより包括的な理解を可能とするでしょう。
代わりに、カザフスタン南部地域では、オトラル・オアシスの古代都市に位置するコンレイ・トベ遺跡の個体群が、イラン人関連遺伝的祖先系統の増加によりほぼ特徴づけられる、異なる遺伝的置換を示し、ペルシア帝国の影響を反映している可能性が最も高そうです(図4C)。ユーラシア東部人との高い混合もしくはアジア南部からの遺伝子流動を有する外れ値個体群からは、この時点でオトラル・オアシスの古代都市人口集団は不均質だった、と示唆されます(図2C)。この時期に、オトラルは康居王国の中心で、シルクロードの交差点でした。天山山脈の近隣地域では、アライ・ヌラの紀元後3世紀の遺跡の個体群で、ずっと早い鉄器時代天山サカ個体群に典型的な遺伝的特性がまだ見られます(図3 B)。
カザフスタンの鉄器時代と鮮卑・フンと中世で観察される不均質性と地理的構造化は、現代カザフ人で観察される遺伝的均質性とはひじょうに対照的です。詳細なハプロタイプに基づく分析はこの均質性を確認し、以前の知見(関連記事)と一致して、カザフ人の遺伝子プールはユーラシア東西のさまざまな起源集団の混合である、と示します。古代人口集団に関する本論文の結果から、これがひじょうに複雑な人口史の結果で、経時的に混合するユーラシア東西の祖先系統の複数の層を伴う、と明らかになりました。
現代カザフ人で得られた混合年代は、カザフ・ハン国が設立された期間(紀元後15世紀)と重なります。さらに、現代カザフ人の遺伝子プールは、鉄器時代後の北部の鮮卑・フンおよび南部の康居と関連する遺伝子プールの混合として、完全にはモデル化できません。これらの知見から、紀元後二千年紀に起きた可能性が高い最近の事象は、厳密な族外婚を有するカザフ・ハン国の設立の結果として、最終的にカザフ人の遺伝子プールの均質化につながった、この地域のより多くの人口統計学的交代と関連していた、と示唆されます。以下、本論文の図4です。
以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、おもに現在のカザフスタンを対象に、スキタイ人を中心としてユーラシア内陸部人口集団の遺伝的構造とその経時的変化を検証し、新たな古代人100個体以上のゲノム規模データを提示したことからも、たいへん意義深いと思います。本論文は改めて、ユーラシア草原地帯の人口集団が大規模な移動と複雑な混合により形成されてきたことを示しました。人口集団の遺伝的構造が、均質から不均質へ、また均質へと変わっていく様相は、動的なユーラシア草原地帯の歴史を反映しているのでしょう。これは、ユーラシア草原地帯で巨大勢力が急速に勃興し、また急速に崩壊することとも関連しているのかもしれません。今後、歴史学でも古代DNA研究の成果が採用されていくのではないか、と予想されます。
私が日本人の一人として注目したのは、コンレイ・トベ300CEの個体KNT004(紀元後236~331年頃)が、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)では、YHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)で、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はHV18と分類されていることです。YHg-D1a2a2aは「縄文人」で確認されており、一般的には「縄文系」と考えられているでしょうが、それが現在のカザフスタン南端の紀元後3世紀の個体で見られる理由については、私の知見ではよく分かりません。一般的に、片親性遺伝標識、とくにY染色体は現在の分布から過去を推測するのに慎重であるべきで、研究の進展により、YHg-D1a2a2aの分布についてより詳細に明らかになるでしょうから、それまでは判断を保留しておくのが妥当でしょうか。KNT004は、ADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の個体群(関連記事)に代表される系統構成要素(アジア北東部人祖先系統)の割合が高く、それとも関連している可能性が考えられます。
参考文献:
Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414
▲△▽▼
▲△▽▼
スキタイ人(Scythae, Skythai, 希: Σκύθαι)は、サイス人、古典的スキタイ人やポントスキタイ人とも呼ばれ、古代東イラン騎馬遊牧民で、主に現在のウクライナと南ロシアに相当する地域に住み、前7世紀頃から前3世紀頃までポントス草原の領土(彼らの名をとってスキシアまたはスキティカと呼ばれる)を支配していた。スキタイ人は、王族スキタイ人と呼ばれる戦士貴族に率いられていた。
スキタイは騎馬戦に最も早く取り組んだ民族[1]で、紀元前8世紀にはキンメリア人に代わってポントス草原を支配する勢力となった[2]。紀元前7世紀、スキタイ人はコーカサス山脈を越え、キンメリア人と共に西アジアを頻繁に襲撃し、この地域の政治発展に重要な役割を果たした[3] [4]。メディア人によって西アジアから追放されたスキタイ人はポントス草原に退き、その後、東に住むイラン系のサルマティア人に次第に征服されていった[5]。紀元前2世紀末、ヘレニズム化したスキタイ人の首都であるクリミア半島のスキタイ・ネアポリスがミトリダテス6世に占領され、彼らの領土はボスポロス王国に編入された[6]。紀元3世紀にはスキタイ人とスキタイ人の最後の生き残りがゴート族に圧倒され、中世前期にはスキタイ人とスキタイ人は初期のスラヴ人にほぼ同化され吸収された[7] [8]。スキタイ人は、アラン人の子孫とされるオセチア人の民族形成に大きく寄与している[9]。
スキタイ人の消滅後、古代・中世・近世の著者はスキタイ人とは無関係の大草原の諸民族を指して「スキタイ人」という呼称を使用した[10]。
スキタイ人は、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国を結ぶ広大な貿易網であるシルクロードで重要な役割を果たし、おそらくこれらの文明の繁栄に貢献したとされる[11]。定住していた金属加工職人はスキタイ人のために携帯用の装飾品を作り、スキタイの金属加工の歴史を形成していた。これらのオブジェは主に金属製で残っており、スキタイ独特の芸術を形成している[12]。
歴史
起源
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』において、スキタイの起源に関する説をいくつか挙げている。
- 伝説
- 当時、無人の境であった彼らの国土に最初に生まれたのは、タルギタオスという名の男であった。彼の両親はゼウスとボリュステネス河(現:ドニエプル川)の娘であったという。タルギタオスからはリポクサイス、アルポクサイス、コラクサイスの3子が生まれた。この3人が支配していた時代に、天から黄金の器物がスキティアの地に落ちてきて、長兄が一番にこれを見つけ、それを取ろうとして近づいたところ、その黄金が燃えだした。長兄が離れた後、次兄が近づくと、黄金はまた燃えだした。最後に末弟のコラクサイスが近づくと火は消え、持ち帰ることができた。これによって長兄と次兄はコラクサイスを王に推戴することにした。以後、長男のリポクサイスを始祖とするアウカタイ氏、次男のアルポクサイスを始祖とするカティアロイ氏とトラスピエス氏、三男のコラクサイスを始祖とする王族パララタイ氏の4氏族が形成されることとなり、彼らの総称は王の名にちなみ、スコロトイと呼ばれるようになった。コラクサイスは広大なスキュティアの国土を3つの王国に分け、自分の息子たちに所領として分け与え、そのうちの一国を特に大きくして黄金の器物を保管した。
- ヘーラクレースはゲーリュオーン[注釈 1]の牛を追いながら、当時は無人であったスキュティアの地にやって来た。ところが、折からの冬季で酷寒に見舞われ、ヘーラクレースはライオンの皮を引被って眠ってしまった。するとその間に草を食べていた馬がいなくなってしまったため、ヘーラクレースは目を覚ますなり馬を探しまわった末、ヒュライアという土地にやってきた。ヘーラクレースはこの地の洞窟で上半身は娘の姿で、下半身が蛇の姿である怪物と遭遇し、初めは驚いたものの、その蛇女に「迷った馬を見なかったか」とたずねてみた。すると蛇女は「馬は私の許にあるが、そなたが私と交わってくれぬかぎり馬を返さん」と言うので、ヘーラクレースは渋々了承し、しばらく同棲したあと馬を返してもらった。しかし蛇女の腹には3人の子供が身ごもられており、蛇女はヘーラクレースにこの子供をどうするか訊ねた。するとヘーラクレースは弓と帯を使って自分の示した仕草をした者をこの地に住まわせ、できなかった者を追放せよと蛇女に伝え、弓と金の盃のついた帯を渡して去っていった。やがて3人の子供が成人になると、蛇女はヘーラクレースに言われた通り、例の儀式を行った。長男のアガテュルソス、次男のゲロノスはヘーラクレースが示した仕草をできずに国を放逐されたが、三男のスキュテスは見事ヘーラクレースが示した仕草ができたので、国に留まり、王になることができた。以後、スキュテスの子孫が代々王となり、スキティア人は帯に盃をつけるようになった。
- ヘロドトスが信を置く説
- スキタイはもともとアジアの遊牧民であったが、マッサゲタイに攻め悩まされた結果、アラクセス河[注釈 2]を渡り、当時のキンメリア地方に移ったという。当時のキンメリア(キンメリオイの地)は現在(ヘロドトス当時)のスキュティア(スキタイの地)とされているので、この時キンメリアはスキタイによって奪われ、スキュティアと呼ばれることとなった。
- アリステアスの説
- プロコンネソス出身でカユストロビオスの子であるアリステアス(英語版)はその作詩した叙事詩において、東方のアリマスポイ(英語版)(一眼族)がイッセドネス人を追い払ったせいでスキタイがイッセドネス人によって追われ、そのせいでスキタイがキンメリオイを追い払ってその地に居座ったとしている。
最初の2説は少々異なるものの、3兄弟の末弟が王位を継ぐという点では似通っており、伝説といえどもそういうことがあった可能性がある。それよりもヘロドトス自身が「最も信を置く」と記している第3の説や第4の説はスキタイの東方起源説を思わせる記述なので、注目すべき説である。[13]
また、紀元前1世紀のギリシア史家ディオドロスも『歴史叢書』で「スキュタイ」(スキタイ)の起源についてふれている。
- 初め、アラクセス(ヴォルガ)河畔にわずかな部族が住みついただけであったが、あるとき戦好きで統帥力のある王が現れ、南はカウカソス(コーカサス)山脈、東は大洋オケアノス沿岸、西はタナイス(ドン)川に至る範囲をその版図とした。
- スキュタイの中にひとりの処女が大地から生まれたが、彼女の上半身は人間、下半身は蛇の姿であった。ある時、ゼウスが彼女と交わって男児をもうけ、スキュテスという名前をつけた。スキュテスはやがて名を挙げたため、彼の部族はスキュタイと呼ばれるようになった。後に彼の子孫からパロス,ナペス兄弟が現れ、王国を二分(パロイ,ナパイ)するほど強盛となった。さらに彼等の子孫から優れた諸王が生まれ、タナイス対岸の地域を支配し、トラキア,エジプトにまで遠征するようになった。その他、サカイ,マッサゲタイ,アリマスポイといった諸族が分岐していった。
アッシリア碑文の記録
『アッシリア碑文』においてスキタイはアシュグザあるいはイシュクザーヤと記される(紀元前7世紀)。
アッシリアのエサルハドン(在位:前681年 - 前669年)は、マンナエの地(現:西北イラン)でマンナエ軍とマンナエを救援するためにやってきたアシュグザ国(スキタイ)王イシュパカー(英語版)の軍を撃ち破った。その後、イシュパカーは前673年頃アッシリアによって殺される。ところがその翌年、エサルハドンは自分の娘をイシュクザーヤ(スキタイ)の王バルタトゥア(英語版)に与えて結婚させ、同盟関係となる。
この「バルタトゥア」はヘロドトス『歴史』に登場する「プロトテュエス」と考えられ、プロトテュエスの息子であるマデュエス(英語版)率いるスキタイ軍がメディア軍を破り、全アジアを席捲するというヘロドトス『歴史』のエピソードにつながっていく。
リュディア・メディア戦争の原因
スキタイの一隊が本国で謀反を起こしてメディア領内に逃れてきた。当時、メディアの王であったのはキュアクサレス2世(在位:前625年 - 前585年)であったが、彼はこれらのスキタイを保護歎願者(ヒケテス)とみなし、親切に面倒を見てやった。キュアクサレスは彼らを高く評価していたので、自分の子供たちを彼らに預け、スキタイ語や弓術を学ばせた。スキタイたちは毎日のように狩猟に出かけ、獲って来た獲物をキュアクサレスに献上していたが、あるとき獲物が一匹も獲れず、手ぶらで帰って来たことがあり、キュアクサレスの怒りを買って手ひどい目に遭った。このためスキタイたちは獲物の代わりにキュアクサレスの子を調理してキュアクサレスに食べさせ、その間にリュディア王アリュアッテス(在位:前605年 - 前561年)のもとへ亡命した。事に気づいたキュアクサレスは直ちにスキタイたちの引き渡しを要求したが、アリュアッテスが応じなかったため、5年に及ぶリュディア・メディア間の戦争が引き起こされた。[16]
アシア進出
アシア(ここでは西アジアを指す)において、メディア王のキュアクサレス2世がアッシリア軍と戦い、ニノスの町を攻囲していた時、スキタイ王のマデュエス(英語版)率いるスキタイの大軍はメディア軍を強襲し、交戦の末にメディア軍を破って全アシアを席捲した。スキタイ王のマデュエスらは北の草原地帯からキンメリア人(キンメリオイ)を駆逐し、それを追ってコーカサス山脈の東側からアシアに侵入してきたのであるが、この地ではちょうどアッシリアからの独立運動が盛んで、メディア軍がアッシリア軍を攻撃している最中であったため、スキタイ軍はそのすきを狙ってメディア軍を破り、続いてエジプトを目指して南下した。スキタイ軍がパレスチナ・シリアまで来た時、プサムテク1世(プサメティコス1世)が自ら出向いて贈り物と泣き落とし戦術でもってスキタイの進軍を思いとどまらせたため、スキタイ軍は後戻りしてアシアを28年間統治することとなった。このスキタイのアシア統治は乱暴で投げやりなものであり、住民の一人一人に課税して取り立て、貢税のほかに各地を回って個人の資財を略奪したので、全アシアは荒廃に帰してしまった。そのためメディア人の怒りを買い、メディア王キュアクサレス2世の指揮のもと、スキタイたちを宴席に呼んで殺害し、スキタイの大部分を駆逐することに成功し、メディア人は再びアシアを取り戻すことができた。[17]
アシアからの帰国
メディア人によってアシアから駆逐されたスキタイたちは、28年ぶりに故郷の草原地帯へと帰っていった。
ダレイオスのスキュティア遠征
アケメネス朝のダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)はボスポラス海峡を渡ってトラキア人を征服すると、続いて北のスキタイを征服するべく、イストロス河(現:ドナウ川)を渡った。これを聞いたスキタイは周辺の諸民族を糾合してダレイオスに当たるべきだと考え、周辺諸族に使者を送ったが、すでにタウロイ,アガテュルソイ,ネウロイ,アンドロパゴイ,メランクライノイ,ゲロノイ,ブディノイ,サウロマタイの諸族の王は会合し、対策を練っていた。スキタイの使者は「諸族が一致団結してペルシアに当たるため、スキタイに協力してほしい」と要請した。しかし、諸族の意見は二手に分かれ、スキタイに賛同したのはゲロノイ王,ブディノイ王,サウロマタイ王のみであり、その他の諸族は「スキタイの言うことは信用できない」とし、協力を断った。
こうして全ての民族が同盟軍に加わらなかったため、スキタイは正面からの攻撃をあきらめ、焦土作戦によってペルシア軍を迎え撃つことにした。スキタイはまず、ペルシア軍の前に現れてペルシア軍を誘き寄せ、東へと撤退していった。両軍は追い追われながらタナイス河を渡り、サウロマタイの国を越えてブディノイの国に達した。この間の土地には焦土作戦のため水も食料もなく、ペルシア軍はただもぬけの殻となったゲロノスの木造砦を燃やして進軍を続けた。やがて無人の地に入ったため、ダレイオスは進軍をやめてオアロス河(現:ヴォルガ川)畔に駐屯し、8つの砦を築き始めた。この間にスキタイ軍は北を迂回してスキタイ本国へ帰った。スキタイが姿を消したので、ダレイオスは砦の築城を放棄して西へ転じ、スキタイ本国へ向かった。ペルシア軍はそこでブディノイを含むスキタイ二区連合部隊と遭遇し、ふたたび追跡を始める。しかし、スキタイ軍は逃げるばかりで戦おうとしないため、ダレイオスは遂にスキタイ王のイダンテュルソス(英語版)に使者を送って降伏勧告をした。イダンテュルソスはダレイオスの態度に腹を立て、ふたたびペルシア軍を翻弄するとともに、両者一進一退の攻防を繰り広げた末、遂にペルシア軍をスキュティアの地から追い出した。 [19]
スキュレス王のバッコス信仰
スキュタイの王アリアペイテス(Ariapeithes)[注釈 3]がアガテュルソイ王スパルガペイテス(英語版)によって謀殺されると、アリアペイテスの子であるスキュレス(Scylas)が王位を継いだ。スキュレスの母はイストリア[注釈 4]の出身でギリシア人であったため、子のスキュレスにギリシア語とギリシア文字を教え、ギリシア風の教育をさせた。そのためスキュレスはスキュティアの王位を受け継いだものの、スキュティア風の生活(遊牧生活)が好きになれず、ギリシア風の生活を好むようになり、スキュタイの人目を忍んではボリュステネス人(農民スキタイ)の町(オルビア[注釈 5])へ出入りし、ギリシア風の服をまとい、ギリシア風の生活を送っていた。さらにスキュレスはスキュタイが嫌っているディオニュソス・バッケイオス(バッコス)の信仰に入信してしまう。のちにこれらのことが、あるボリュステネス人の密告によって明らかとなり、スキュタイらはスキュレスの異母弟であるオクタマサデスを立ててスキュレスに反旗を翻した。スキュレスはこれを知るなりトラキアへ逃亡し、オクタマサデスらはスキュレスを追ってイストロス河畔に達した。この時、トラキア・オドリュサイ王のシタルケスはスキュタイとの戦闘を避けるべく、互いの亡命者を引き渡すことを和平案として、甥でもあるオクタマサデスと交渉し、スキュレスを引き渡した。スキュレスはその場でオクタマサデスによって斬首された。 [20]
マケドニア軍の侵攻とアテアス王
紀元前4世紀、スキュティア王アテアス(アタイアス[注釈 6])はヒストリア[注釈 7]の住民との戦争で苦しみ、アポロニア人[注釈 8]を介してアルゲアス朝(マケドニア)に援助を求め、養子縁組をもちかけた。しかし、途中でヒストリア王が死去したため、アテアスは援軍に来ていたマケドニア兵を帰国させ、この話をなかったことにさせた。
その頃のマケドニアのピリッポス2世は長引くビュザンティオン攻囲戦の出費を取り返すべく、スキュティア遠征を画策しており、初めは率直に攻囲に要する費用を求めたものの、相手にされなかったため、すぐさまビュザンティオン攻囲を解いてスキュティア遠征にとりかかった。ピリッポス2世は初め、スキュティア人を安心させるためにヒステル河口(ドナウ川)に神像を建てるという口実で軍隊を差し向けたが、アテアス王が警戒し、「国境を越えて神像を建てたならば、マケドニア軍が去った後、神像を鏃にかえてしまうであろう」と敵意を募らせたため、結局全面戦争となった(前339年)。初めはスキュティア軍が勝っていたものの、ピリッポス2世の狡猾さに敗れ、2万人の少年・婦人が捕えられ、膨大な数の家畜が奪われた。その中から2万頭の血統の良い雌馬が純血種を作るためにマケドニアに送られた。この戦いでスキュティア王アテアスが戦死したが、年齢は90歳を超えていた。
ボスポロス王国の後継争いとアガロス王
紀元前4世紀末、ケルチ半島のギリシア系国家ボスポロス王国で王のパリュサデス1世(前347/46 - 前311/10年)が亡くなり、長子のサテュロス2世が王位を継承した。しかし、その弟のエウメロスが王位に就こうとしてサテュロス2世に対して権力闘争を始めた。この権力闘争の中でギリシア,トラキア,スキタイの傭兵がサテュロス2世側に付き、サルマタイの一部族シラケスの王アリファルネスの軍隊や、その他近隣の異民族がエウメロス側に援軍を送り、黒海北東岸の勢力が二分される戦いとなった。サテュロス2世が戦死すると末弟プリュタニスが後を継いだが、エウメロスに敗北して王国の安定を保てず失脚した。エウメロスが権力を握ると、サテュロス2世とプリュタニスの縁者を粛清した。唯一生き残ったサテュロス2世の子パリュサデスは馬で逃亡してスキタイ王アガロスに救いを求めたため、アガロスはパリュサデスを匿った。 [21]
諸族
ヘロドトスは『歴史』においてスキタイの諸族を紹介している。
カッリピダイ
カッリピダイ(あるいはカリッピダイ[26])はギリシア系スキタイであり、ヒュパニス(現在の南ブーフ川)河畔に住んでいる。習俗は大体にしてスキタイと同じだが、自ら穀物を栽培して食用に充て、玉ねぎ,ニラ,扁豆,栗なども栽培しているので、遊牧民であるスキタイと異なる。カッリピダイの向こうにはアリゾネスという民族が住んでいる。
農耕スキタイ
農耕スキタイとチェルノレス文化(黒森文化)が一致している。
また、ミログラード文化とネウロイも一致している。
アリゾネスの向こうには農耕スキタイ(スキタイ・アロテレス)と呼ばれる部族が住んでおり、カッリピダイ同様、穀物を栽培している。しかし、カッリピダイとは違って自らの食用のためだけではなく、他に輸出するためにも穀物を栽培している。農耕スキタイの北ないし北西にはネウロイという民族が住む。[28]
鉄器時代の文化である黒森文化の担い手で、古い時代の馬具が出土しており[29]、遅くとも先スキタイ時代である第2期までにはすでに馬をよく使う文化が成立していたことが知られている[30]。スラヴ語に見られるイラン系言語の地理的名称(とくに河川の名称)や借用語、そしてキリスト教を受容する前の中世前期スラヴ人にも見られる火葬の習慣から、農耕スキタイはプロト・スラヴ人(原スラヴ人とも呼ばれる、スラヴ人の祖先となった複数の古代部族)のうちの基幹的な集団であると推定される[29]。
農民スキタイ
ボリュステネス河(現:ドニエプル川)を渡って海辺から北上すれば、まず、ヒュライア(森林地帯)があり、ここからさらに北上すれば、農民スキタイ(スキタイ・ゲオルゴイ)が住んでいる。ヒュパニス河畔に住むギリシア人はこれをボリュステネイタイ(ボリュステネス市民)と呼ぶが、彼ら自身はオルビオポリタイ(オルビア市民)と称す。
遊牧スキタイ
農民スキタイの居住地から東へ向かい、パンティカペス河を渡れば、遊牧スキタイ(スキタイ・ノマデス)が住んでいる。彼らは純粋な遊牧民であり、彼らの住む地域は木が一本も生えていない草原地帯である。この遊牧スキタイはパンティカペス河からゲッロス河に至る東西14日間の範囲にわたって住んでいる。 [32]
王族スキタイ
ゲッロス河以遠はコラクサイスを始祖とする王族パララタイ氏の領する王族スキタイ(スキタイ・バシレイオス)の領土であり、彼らはスキタイの中で最も勇敢で数が多く、他のスキタイを自分の隷属民とみなしている。国家的な意味で「スキタイ」と呼ぶときはこの王族スキタイを指す。彼らの領土は南はタウロイの国(タウリケ)に達し、東は盲目の奴隷の子らが開墾した掘割に至り、マイオティス湖(現:アゾフ海)畔の通商地クレムノイに及んでいる。また一部はタナイス河(現:ドン川)にも接している。[33]
1世紀のポンポニウス・メラは『世界地理』で、「バシリダイ族の始祖はヘーラクレースとエキドナの子で、習俗は王族風、武器は弓矢だけである。」と記す。[34]
別種スキタイ
テュッサゲタイとイユルカイの国を越えてさらに東方に進めば、別種のスキタイが住んでいる。これは王族スキタイに背き、その果てにこの地に到来したものである。 [35]
エナレス
これは種族名ではなく、いわゆる「おんな病」にかかった者たちを言う。スキタイがアジアに侵入した際、スキタイはエジプトを目指して南下すると、エジプト王の泣き落とし戦術に遭い、エジプト侵入をあきらめて引き返した。その途上、シリアのアスカロンという町にさしかかったとき、大部分のスキタイがその町を通過したのに、一部の者が残って「アプロディテ・ウラニア」の神殿を荒らした。のちにこの者たちとその子孫は「おんな病」にかかったため、神殿を荒らした祟りとされている。ヘロドトスもこの者たちの意訳として「おんな男、おとこ女」と記している。「おんな病」については詳しくわからないが、性病、男色、陰萎など諸説あり、確定していない [36]。
習俗
政治
スキタイの王国は3人の王によって分割統治される。これは第2代の王であるコラクサイスに始まるものであり、コラクサイスは広大なスキュティアの国土を3つの王国に分け、自分の息子たちに所領として分け与えた。そのうちの一国は特に大きくして黄金の器物を保管し、宗主国としての役割をもたせた。 [37]
宗教
スキタイが祀る神として最も重んずるのがヘスティアー(かまどの女神)で、ついでゼウスとゲー(大地の女神)で、スキタイはゲーをゼウスの妻としている。さらにアポローン、ウーラニアー・アプロディーテー(天上のアプロディーテー)、ヘーラクレース、アレースがある。これらはスキタイ全民族が祀る神であるが、王族スキタイはさらにポセイドーン(海の神)にも犠牲を供える。これは王族スキタイがアゾフ海沿岸に住んでいるためだと思われる。以上の神々はギリシア風に訳したものであり、スキタイ語にすれば以下のようになる。
基本的にスキタイでは神像や祭壇や社は造らないが、アレースだけには神像や祭壇を設ける。
- 犠牲式
どの犠牲式でもその祭式の作法は同じで、犠牲獣が前足を縛られて立つと、犠牲を執行する者が獣の背後に立って綱の端を引いて獣を転がす。獣が倒れると、犠牲をささげる神の名を唱えた後、獣の首に紐を巻き付け、それに棒をはさんでぐるぐると回して絞め殺す。その際、火も燃やさず、お祓いもせず、灌奠(かんてん:獣の頭から酒をかける)も行わない。獣を絞殺した後は皮を剥いで煮て、肉が煮上がると犠牲の執行人はその一部を初穂として取り、前方へ投げる。犠牲獣はさまざまであるが馬が多い。また、アレスに対する犠牲式は次のように行われる。スキタイの諸王国内の各地区には、それぞれアレスの聖所が設けられている。アレスの聖所は縦横3スタディオン、高さは3スタディオンいかないくらいで薪の束が積み重ねられ、その上に四角の台が設けてあり、三方は切り立って一方だけが登れるようになっている。そこへアレスの御神体として古い鉄製の短剣がのせてあり、毎年スキタイがこの御神体に家畜を生贄として捧げるのである。また、戦争で生け捕った捕虜の中から100人に1人の割合で生贄を選び、その者の頭に酒をかけてから喉を切り裂いて血を器に注ぎ、その血を御神体である短剣にかける。一方で、殺された男たちの右腕を肩から切り落として空中に投げ、儀式が終わるとその場を立ち去り、右腕と胴体は別々の場所に放置される。 [38]
料理
スキタイは極度に木材の乏しい国なので、彼らは肉を煮るのに次のような手段を用いる。犠牲獣の皮を剥ぎ終わると、肉を骨からそぎ落とし、鍋の用意があるときはスキュティア特有の鍋に入れて煮る。そのとき先ほど肉をそぎ落とした骨を薪代わりに使って燃やす。鍋がない時は犠牲獣の胃の中へ肉を入れて水を加え、骨の薪を燃やして煮る。
家畜
スキタイでは馬を始め、数々の家畜を飼育しているが、豚だけは飼育しておらず、生贄にも使わない。 [40]
戦争
スキタイは最初に倒した敵の血を飲む。また、戦闘で殺した敵兵の首はことごとく王のもとへ持っていき、[41]その数に応じて褒美がもらえる。首は頭蓋骨から皮をきれいに剥ぎ取って手巾とし、馬勒にかけて勲章とする。またある者は敵兵の皮をつなぎ合わせて衣服にしたり、矢筒にしたりする。頭蓋骨は最も憎い敵に限り、髑髏杯として用いる。年に一度、戦争で手柄のあった者はその地区の長官から一杯から二杯の酒がもらえる。逆に手柄のないものは酒がもらえず、恥辱をしのんで離れた席に座る。 [42]
占い師
スキュティアには多数の占い師がおり、多数の柳の枝を使って占いをする。まず、占い師は棒をまとめた大きい束をもってくると、地上に置いて束を解き、一本一本並べながら呪文を唱える。そして呪文を唱え続けながら再び棒を束ね、一本ずつ並べてゆく。この卜占術はスキタイ伝統のものであるが、エナレスにおいては菩提樹の樹皮を3つに切り、それを指に巻きつけたりほどいたりして占う。 [43]
死刑
たいていの場合は斬首だが、誤った占いをした者は後ろ手に縛られ、足掛けと猿轡をされ薪の中に押し込まれ、その薪を満載した車を牛にひかせた上、火を放って牛を走らせる。牛は一緒に焼死するか、火傷を負って焼死を免れるものもある。死刑人の子供も容赦なく殺されるが、女子の場合は殺されない。 [44]
葬制
スキタイ王陵はゲッロイの国土内にある。スキタイの王が死ぬと、この土地に四角形の大きい穴を掘り、穴の用意ができると遺骸を取り上げる。遺体は腹を裂いて内臓を取り出し、つぶしたキュペロン(かやつり草)、香料、パセリの種子、アニスなどをいっぱいに詰めて縫い合わせ、全身に蝋が塗られる。取り上げられた遺骸は車で別の国へ運ばれ、その国で耳の一部を切り取り、頭髪を丸く剃り落とし、両腕に切り傷をつけ、額と鼻を掻きむしり、左手を矢で貫くといった作業をする。その後も遺体はスキタイのすべての属国をめぐり、最後に王陵のあるゲッロイの国に到着する。遺体を墓の中の畳の床に安置し、その両側に槍をつき立てて上に木をわたし、むしろをかぶせる。墓中の広く空いている部分には故王の妾を一人絞殺して陪葬し、酌小姓,料理番、馬丁、侍従、取次役、馬も陪葬し、副葬品として万般の品々から選び出した一部と、黄金の盃を一緒に埋める。その後は全員で巨大な塚を盛り上げるが、なるべく大きな塚にしようとわれがちに懸命になって築く。一年後、今度は故王の最も親しく仕えた者50人、最も優良な馬50頭を絞殺して内臓を取り除き、中にもみ殻を詰めて縫い合わせる。その死体たちを杭で固定して騎乗の状態にさせ、王墓の周りに配置する。以上が王の葬式である。一般人の葬式では遺体を車に乗せて知人の家を廻り、馳走を受けながら40日間これを繰り返して埋葬される。 [45]
儀式
スキタイ人の風習に女神に仕える去勢男性たちがおり、彼らはエナレスと呼ばれた。 また女性達の地位も高かったと言われ、男装した女性戦士も存在した。
歴代王
- 伝説上のスキタイ王
- 前7世紀のスキタイ王
- イシュパカー
- プロトテュエス(バルタトゥア[注釈 9])
- マデュエス…プロトテュエスの子
- 前7世紀 - 前6世紀のスキタイ王
- スパルガペイテス
- リュコス…スパルガペイテスの子
- グヌロス…リュコスの子
- サウリオス…グヌロスの子
- イダンテュルソス…サウリオスの子
- スコパシス
- タクサキス
- 前5世紀のスキタイ王
- アリアンタス
- アルゴタス
- アリアペイテス…イダンテュルソスの子
- スキュレス…アリアペイテスの長子
- オクタマサデス…アリアペイテスの次子
- オリコス…アリアペイテスの三子
- (エミナコス)
- (リュコス)
- 前4世紀のスキタイ王
- アテアス(アタイアス)
- アガロス
- 前2世紀 - 1世紀のスキタイ王
- スキルロス
- パラコス…スキルコスの子
- コダルゾス
考古学の成果
スキタイ美術
- 初期スキタイ美術(西部)
スキタイ文化を特徴づける共通要素として必ず取り上げられるのは、スキタイ風動物文様,馬具(鐙形銜と三孔・二孔銜留め具),武器(アキナケス型短剣と両翼・三翼鏃)の三要素である。19世紀末から20世紀初めにかけて北カフカスと黒海北岸でスキタイの古墳が多く発掘され、その中からいくつかの金銀製品が発見されたが、それらすべてがスキタイ固有の美術品というわけではない。その様式には西アジア(後期ヒッタイト、アッシリア、ウラルトゥ)の影響も見られる。
- 初期スキタイ美術(東部)
17世紀から18世紀にかけて、カザフステップにおけるスキタイ・サルマタイ時代の古墳がロシア人によって盗掘され、その副葬品である金銀製品のほとんどが散逸してしまった。1715年、ロシア皇帝のピョートル1世(在位:1682年 - 1725年)はその美術的価値に気づき、できる限りの金製品をかき集めて保護した。こうして集められた金製品は250点にのぼり、現在は「シベリア・コレクション」あるいは「ピョートル・コレクション」と呼ばれ、エルミタージュ美術館に所蔵されている。この「シベリア・コレクション」には初期スキタイ時代(紀元前8世紀 - 紀元前6世紀)のものからサルマタイ時代(紀元前5世紀 - 4世紀)のものまで含まれているが、初期スキタイに属するものとしては体を丸めた豹の飾板があり、これはアルジャン古墳,ケレルメス古墳,ウイガラク墓地のものと同じモチーフである。「体を丸めた動物」というのは初期スキタイの最大の特徴であり、他には「つま先立ちの動物」、「脚を折りたたんだ動物」などのモチーフがある。また、初期スキタイ美術の東部(カザフステップ以東)では西アジアの影響は見られず、スキタイ文化の元々の姿に近いと考えられている。
- 後期スキタイ美術
後期(紀元前4世紀後半 - 紀元前3世紀初め)西部(黒海北岸、北カフカス)のスキタイ美術ではギリシア文化の影響も見られる。特徴としては、パルメット(ナツメヤシの葉が広がったような文様)や唐草模様のような植物文様が施されたこと、動物表現がより写実的になったこと、人間や神々が表現されるようになったことが挙げられる。これらの作品は当時黒海北岸に住んでいたギリシア人職人がスキタイ王侯の注文に応じて作ったものと考えられている。
この時代の作例としては、1971年に発掘されたトヴスタ・モヒーラ(トルスタヤ・モギーラ)古墳で発見された女性の胸飾りが挙げられ、「体をひねった動物」という表現もこの時代の特徴である。 [49]
古墳
スキタイ文化の分布は広範囲にわたり、西はウクライナから東は中央アジアまで及んでいるが、それを示すものとして存在するのが古墳である。以下にはその有名なものを記す。
- 前期スキタイ時代
- アルジャン古墳群(トゥヴァ共和国)…全2基
- アルジャン1号墳…紀元前9世紀末 - 紀元前8世紀初のもの
- アルジャン2号墳…紀元前7世紀末のもの
- チリクタ古墳群(カザフスタン)…全51基
- チリクタ5号墳(黄金古墳)…紀元前7世紀のもの
- ベスシャトゥル古墳群(カザフスタン)…全14基
- クラースノエ・ズナーミャ古墳群(北カフカス)
- ケレルメス古墳群(北カフカス)
- ウルスキー・アウル古墳群(北カフカス)
- 後期スキタイ時代
ギャラリー
-
エルミタージュ博物館所蔵の黄金製の櫛
-
黄金製のスキタイ射手
-
トヴスタ・モヒーラ古墳で発見された女性の胸飾り
-
パジリク5号墳出土のフェルト製壁掛けに描かれた騎馬像
-
陶器に描かれたスキタイ戦士
-
秘儀の杯に描かれたスキタイ戦士(クル・オバ遺跡より)
-
スキタイの騎兵
子孫
遺伝子から
スキティアにおける古代スキタイ人は政治的には滅亡したものの、彼らは生物学的に絶滅したわけではなく、この地方とその周辺で彼らの血統は現代にも脈々と受け継がれている。現代ヨーロッパにおけるY染色体のハプログループR1a1はスキタイ時代のヨーロッパ東部から中央アジアにかけて広く住んでいたイラン系遊牧民の子孫を示している。ヨーロッパの各集団のうちスラヴ語派の各民族にはこのR1a1が非常に濃く含まれており、特に中央アジアとポーランドの全土、およびロシアの西部に集中している。
言語から
スキタイ人は言語的にはインド・イラン語派でありいわゆる「アーリア人」であったと推定される。彼らの言語と思われるものの痕跡はオセット語やスラヴ語に残っている。スラヴ語で「神」を意味するボーグ(bog)は明らかにイラン語群の古代言語を起源としている。スキタイ国家の一部のスキタイ人は東部辺境で現在のオセチアに侵入して土着の人々を少数支配し、地域全体としてオセット人を形成したと考えられるものの、オセット人の圧倒的大多数のY染色体ハプログループはG-L293+であり、これはスキタイ由来ではない。
現代
スキュティア地方に広く住んでいた大部分のスキタイ人はゲルマン人と混血してスラヴ人を形成していった。スキタイ人はその国家がサルマチア人の手によって滅亡すると、ヘロドトスが農耕スキタイと呼んでいた農耕民の社会に次々と同化吸収されていったのである。サルマチア人もまたヨーロッパの中世初期にフン族の侵入により政治的に瓦解し、当地の農耕民の社会に吸収同化されていった。
プリンストン高等研究所のパトリック・ゲーリー教授(歴史学)はその著書『The Myth of Nations』(2002年)において「スラヴ人は、古代の人々がスキタイ人、サルマチア人、ゲルマン人と呼んでいた人々が混じり合うことにより形作られた」と説明している。
2002年全ロシア国勢調査において、ロストフ=ナ=ドヌに居住する30人が民族の欄にスキタイ人と記入した例がある。
▲△▽▼
▲△▽▼
白人の金髪や青い目、白い肌は氷河時代にバイカル湖周辺に住んでいた古代北ユーラシア人が起源だった
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/29/180844
コーカソイドによる民族浄化の歴史
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/29/211424
アーリア人、ゲルマン人の歴史
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/10/24/104514
ヨーロッパ人の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007381
ヤムナ文化の起源
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16894437
フン族=匈奴なのか?DNAが示す彼らのつながりとは?
https://a111111.hatenablog.com/entry/2026/01/13/050036
氷河時代以降、殆どの劣等民族は皆殺しにされ絶滅した。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14008921
コーカソイドは人格障害者集団 中川隆
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/380.html
白人はなぜ白人か _ 白人が人間性を失っていった過程
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/390.html
アングロサクソンの文化
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14007474
▲△▽▼
RK: 彼らのやり方は、少数によって大多数の人々を管理して富を独占する。
そのやり口を見ていると、まるで人間を家畜と考えていて、
ある意味非常に効率的に管理支配していますね。
BEN:ここが農耕民族である日本人には理解しにくいところで、
彼らの発想は非常に遊牧民的というか、非常に残酷なのです。
それはユダヤ人の割礼なんかもそうですが、
乳牛でもちょっとでも乳の出が悪いとすぐ殺処分するし、
主人の言うことを聞かない暴れるオスだと、すぐに断種して
睾丸を抜いてしまうんです。
だけどこれが農耕民族だと、牛や馬は家族扱いにして大切にする。
彼ら動物は田畑を耕したり、荷物を運んだりする使役動物だから、
日本の昭和初期頃までは家の中で大切に飼って、
潰して食用にすることもあまりなかった。それだけ感覚がまったく違うわけです。
事実、遊牧民たちは農耕民族のことを、草を食べる
あるいは穀物と言い換えてもいいのですが、
羊人(Sheeple シープル)と呼んでいます。
その羊人である農耕民族を管理するために「羊飼い」としての一神教
(キリスト教やユダヤ教)があり、その神を動かすことで
全体を支配するという考えです。
これまでもその発想でずっと世界を支配してきたのです。
ですから支配者たちから見ればその他大勢の庶民は同じ人間ではなく、
「羊人」という家畜にすぎません。
だから増えて管理が面倒になれば「間引こう」となるし、
劣等な種族は断種して子孫を作らせないようにする。
家畜を使って利益を得れば、当然のように牧場主がすべてを奪い取る。
文句を言えば餌を減らし、ムチで叩いて大人しくさせる。
このようにして食料と軍事力で世界を管理・コントロールしている連中が
存在しているのです。
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-a3d1.html
【国際社会】ナチスによる人種差別の根拠「アーリヤ人」とは何か!本来は民族ではなく言語上の区分でした
世界史解体新書 2025/12/05




