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【ギリシア】ポピュリズムが台頭する現代に警鐘!民主政治が崩壊する理由
世界史解体新書 2025/11/19
本日のテーマは「民主政治の崩壊」でした!
【ギリシア】なぜ衰退した?日本人が知らない問題だらけの歴史! 栄光の時代は古代だけ
世界史解体新書 2024/09/30
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【西洋史入門③】なぜヨーロッパの歴史は“端っこのギリシャ”から始まったのか?
元予備校講師の宇山チャンネル 2025/11/06
【西洋史入門④】ギリシャとアレクサンドロス大王の快進撃の裏側
元予備校講師の宇山チャンネル 2025/11/08
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【古代ギリシャ】2500年前の最強国の秘訣を現地からわかりやすく解説
大人の教養TV 2025/02/14
00:00 オープニング
00:58 ギリシャ概要
01:47 パルテノン神殿
05:33 医学の父「ヒポクラテス」
08:12 医療倫理
09:17 ヒポクラテスの誓い
10:16 歴史の父「ヘロドトス」
11:46 トゥキュディデス
13:33 「イリアス」「オデュッセイア」
15:29 哲学
17:39 ピタゴラス
18:46 原子
20:19 奴隷
24:22 スコレー
26:24 民主政
28:20 オリンピック
29:25 ヘラ神殿
30:50 古代オリンピック
32:30 パンクラチオン
34:03 エンディング
【古代ギリシャ】2500年の時の流れを肌で感じました
大人の教養TV 2nd 2025/02/14
【古代スパルタ】史上最もヤバい国を現地からわかりやすく解説
大人の教養TV 2025/02/21
00:00 オープニング
00:54 スパルティ概要
01:31 奴隷
03:59 スパルタ教育
05:45 産湯
08:18 学校
11:49 食事
12:44 盗み
14:30 成人の儀式
16:27 戦争
19:07 引退
20:37 母親
22:45 男女平等
27:16 結婚年齢
28:50 出産
30:45 エンディング
荒井が考える【スパルタ】 的真の平等とは…?
大人の教養TV 2nd 2025/02/21
雑記帳
2023年02月25日
橋場弦『古代ギリシアの民主政』
https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_25.html
https://amzn.asia/d/djiMQ5R
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2022年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は古代ギリシアの民主政を、後世に美化されたり誹謗されたりした図式ではなく、当時の文脈で読み解こうとします。対象となるのはおもにアテナイですが、広く古代ギリシア世界全体が取り上げられています。アテナイ以外にも民主政のポリスはあった、というわけです。また時間的には、アルカイック期(紀元前8~紀元前6世紀)と古典期(紀元前5~紀元前4世紀)だけではなく、ヘレニズム期(紀元前3~紀元前1世紀)とローマ期(紀元前1世紀以降)も取り上げられています。
古代ギリシアが多数のポリス(都市国家)から構成されていることは、現代日本社会でも有名だと思います。ギリシアではポリスが乱立しており、相互に争いながら平和と秩序を維持せねばならず、そうした課題を背景に民主政が成立していったわけですが、もちろん、現代日本社会でもよく知られているように、古代ギリシア世界の政体が民主政だけだったわけではなく、そうした課題への対応として、民主政以外の政体もあり得たわけです。本書は民主政を、古代ギリシア世界の必然でもアテナイのみの特異的例外でもなく、当時の文脈に位置づけようとします。
ポリスが最初から民主政だったわけではないことも、現代日本社会ではよく知られているでしょうが、ポリスはまず、門閥貴族が参政権を独占する貴族政から始まります。本書は、権威と平等の相克から民主政が形成されていった、との見通しを提示します。まず、すでに紀元前7世紀には貴族政が動揺し始めます。この頃、遠隔地交易が盛んになり、経済的格差が拡大し、一方で豊かになった平民は、紀元前7世紀に重装歩兵が戦力の中心になっていくと、国防の主力を担うようになり、参政権を独占する貴族に不満を抱くようになります。平民と貴族との対立の回避もしくは緩和策として、まず成文法の制定が個々見られます。それまで、裁判権を掌握する貴族が慣習法を都合よく解釈し、自己に有利な判決を下していました。最初期の成文法の多くはクレタ島で確認されています。ただ、成文法を制定したことで民主政への道が必然的に開かれるわけではなく、クレタ島では後世まで貴族政が続きました。
古代ギリシア世界において最初の民主政がいつどこで出現したのか、議論があり、アテナイに先行してキオスなどで成立した、との見解も提示されたものの、現在では否定的に考えられているそうです。本書は民主政の要件として、(1)参政権が広範囲の自由人に与えられていること、(2)1人1票の原則、(3)民会が最高意思決定機関であること、(4)役人の抽選制、(5)裁判権が市民団に与えられていること、を挙げます。その観点では、たとえばキオスでは民会がどの程度国家の意思決定に関わるのか、参政権を有する市民の範囲はどの程度なのか、などといったことが不明なので、アテナイ以前の民主政ポリスを証明できない、と本書は指摘します。
古代ギリシア世界において最初にアテナイで民主政が成立した理由として、本書はまずアテナイの広大な領域を挙げます。平均的なポリスの領域は25km²~100km²ですが、アテナイは2500km²でした。ミケーネ文化の崩壊後に大規模な住民移動などの激動を経なかったアテナイには、スパルタのような非征服民を軍国主義により支配する抑圧機構がなく、広い領土と多数の住民をいかに統合するのか、という難題を当初から抱えていました。アテナイでも、貴族と平民との対立にさいてして、紀元前6世紀初頭にまず成文法が制定されます。このソロンの改革で、負債が帳消しとなり、借財の抵当に市民の体を取ることが禁止されます。市民は農業収入に応じて4等級に区分され、出生ではなく財産により支配層が定義されました。経済力と参政権の不一致がある程度解消されたわけです。最下層の市民も民会に出席できるようになり、判決に不服な者は民会に上訴できるようになったので、民会で多数を占める下層市民は無視できない存在となりました。ただ本書は、ソロンの改革は支配層の再定義による貴族政の改良版にすぎなかった、とその限界も指摘します。
ソロンの改革により、新興貴族と旧来の貴族の対立が激化し、政治が混乱する中で、アテナイでは貴族の1人が民衆の支持を背景に政権担当者となり、この独裁政は僭主政と呼ばれます。すでにアテナイ以外では、紀元前7世紀後半から僭主が出現していました。アテナイの僭主として有名なペイシストラトスは比較的平穏な治世を実現しますが、後継者となったその息子のヒッピアスは恐怖政治を行なったため追放され、スパルタの介入もあって混乱する中、民衆は決起してスパルタ派を追放し、クレイステネスを指導者とします(紀元前507年)。クレイステネスの改革では、出自と貧富に関係なく全市民が平等に参政権を有するようになり、旧来の4部族制は廃止され、地域社会単位を基礎に人為的な10部族に再編され、旧来の貴族の地盤は切断されます。この地域社会単位である区で政治的経験を積むことにより、アテナイ市民は国政水準の政治に参加できた、と本書は評価します。民会は正式にポリスの意思決定機関となり、10部族により構成される軍は国家に直属しました。
クレイステネスの改革により貴族は政治指導者としての地位を失ったわけではありませんが、民衆はもはや貴族に従順ではなくなりました。本書はこれを、事実上のアテナイ民主政誕生と評価します。民衆はアテナイという「想像の共同体」に統合されて軍事力は高まり、近隣のポリスやペルシア帝国(ハカーマニシュ朝)との戦いで活かされます。ペルシア戦争において海戦では下層市民の貢献が大きく、ペリクレスが指導者だった時代にアテナイの民主政は国力とともにさらに充実していき、文化も栄えます。ただ、ペリクレスはアテナイの市民権の要件を父がアテナイ市民であることから、両親ともにアテナイ市民であることに改めており、その意図については長く議論され、まだ決着していないそうです。
国家意思を決定するアテナイ市民の民会は、紀元前4世紀後半には定例会だけで月に2~3回開催されており、定足数の規定は明確ではないものの、5000~6000人程度の参集で市民全体(最盛期で5万~6万人、少ない時では20000~25000人程度)の総意に等しいと考えられていたようです。民主政を実務面で支えたのは、年間250日ほど開催された評議会で、国家財政を一元的に管理するとともに、役人の監督指導や処罰、公共事業の基本計画案作成など、行政的な役割を担いしました。評議会の定員は500人で、1年で交替となり、生涯に2回までしか選ばれませんでした。有名な陶片追放については、有力者同士の対立の解決を民衆に委ね、どちらか一方を穏便に政界から退去させることで政争が内乱に激化するのを防ごうとした、との見解が現在では有力なようです。
ペロポネソス戦争はアテナイにとって大きな試練となり、民主政の中断もありました。ペロポネソス戦争中のアテナイの迷走を根拠に、アテナイの民主政を衆愚政と批判する歴史観は根強くあります。ただ本書は、ペリクレスの方針により城壁内にアテナイ市民が退避し、人口密度が異様に高まったことや、それによる疫病など、戦争中はアテナイ市民の心理状態に悪影響を及ぼす状況だったことを指摘します。つまり、一過性の情動により判断が迷走したのではないか、というわけです。また本書は、衆愚政史観の根拠とされてきたトゥキュディデスの『戦史』について、トゥキュディデスはペロポネソス戦争において将軍として遠征して失敗し、死刑判決を受けましたが、その時アテナイ政治の主導権を握っていたクレオンに恨みを抱き、ペリクレスとの対比でクレオンを「デマゴーグ」として悪し様に描いたのではないか、と指摘します。本書は、ペロポネソス戦争中とその後の寡頭派によるクーデタを乗り越えて再建されたアテナイの民主政の強靭さを指摘します。本書は、紀元前399年のソクラテスの処刑もアテナイの民主政再建の文脈で解釈しており、ソクラテスは寡頭派と近く、その弟子には民主政への敵対者が多かった、と指摘します。
ペロポネソス戦争後のギリシア世界では、ペルシアの援助を得ての諸国間の争いが絶えず、ペロポネソス戦争により覇権を掌握したかに見えたスパルタはテバイに敗れ、テバイの覇権も10年程で終わり、復興したアテナイはかつてのデロス同盟より緩やかな海上同盟を結成しますが、同盟国に離反され、海上での覇権を掌握することは二度とありませんでした。しかし、こうしたギリシア世界のポリス間の抗争による混乱はあったものの、アテナイの民主政は成熟し、民会の回数も以前より増え、市民の政治意欲は衰えませんでした。本書は、役職を市民としての名誉(ティメ)と考える価値観が民主政を支えており、すでに民主政か寡頭政かを問う選択は現実的ではなくなっていた、と評価します。
ギリシア世界全体でも、民主政の最盛期はペロポネソス戦争の後に訪れ、寡頭政や僭主政が大きな割合を占めるものの、ギリシア世界全体では1/3ほどのポリスが民主政だった、と本書は推測します。アテナイの次に有力だった民主政ポリスは、隣国のスパルタと宿敵の関係にあったアルゴスです。アルゴスは、紀元前494年のスパルタとの戦いに敗れて大打撃を受け、戦力補充のため農奴身分の住民に市民権を与え、紀元前460年代に民主政が成立しました。アルゴスもペロポネソス戦争中にスパルタに敗れて寡頭政となったこともありますが、半年で民主政に回帰しました。ペロポネソス戦争後のギリシア世界において民主政が最盛期を迎えたのは、寡頭政の代表的ポリスであるスパルタが衰退したことと関係しているようです。このように、アテナイ以外にもギリシア世界で民主政ポリスは多かったものの、アテナイの勢力圏外のシラクサで民主政が採用されたように、アテナイが民主政を押しつけたわけではありません。しかし本書は、アテナイの民主政を多くのポリスが主体的に選択していったことを強調し、アテナイがギリシア世界における民主政拡散の中心地だった、と指摘します。
ギリシア世界のポリスの自立性は、マケドニアの拡大により軍事や外交の決定権を奪われていきますが、それでもポリスは市民生活の基盤であり続け、ヘレニズム期にはむしろポリスの地理的範囲が大きく拡大した、と本書は評価します。アテナイは、アレクサンダー死後の紀元前323年に独立を求めて決起しますが、マケドニアに敗北し、民主政は廃止されます。しかし、民主政が定着していたアテナイでは、その後もたびたび独立と民主政回復を求めて決起し、ローマ軍に占領される紀元前1世紀前半まで、少なくとも4回民主政が復活しています。しかし、政治参加が富裕層に偏っていく傾向は否定できませんでした。本書は、アテナイの民主政の終焉年代の具体的な特定は困難と指摘します。
マケドニアの拡大以後も、民主政はアテナイだけではなく小アジア沿岸諸国などでも存続しました。しかし、紀元前2世紀後半までにはギリシア世界はおおむねローマの直接統治下に置かれ、民主政が急速に衰えていきます。紀元前86年、第一次ミトリダテス戦争でローマに対して反乱を起こしたアテナイはローマ軍に敗れ、過酷な戦後統治の中で民会は形骸化していきます。それでも、ローマの属州都市にすぎなくなったアテナイは、自らの政治体制を「デモクラティア」と呼び続け、民会は少なくとも紀元後220年まで続いたことが確認されています。アテナイで民会がいつ廃止されたのかは、不明です。
本書は最後に、古代ギリシア世界の民主政が後世にどのように語られたのか、検証します。古代ギリシア世界の民主政は普通の人々が積み重ねた経験であり、体系的な政治理論を残さなかったので、その記憶が急速に失われたのに対して、民主政を批判したプラトンやアリストテレスの論は、その後で長きにわたって権威ある古典として継承された、と本書は指摘します。歴史的現実としての民主政が忘れ去られるとともに、「衆愚政」との評価が残ったわけです。ローマ帝国を含めて、前近代の支配体制のほとんどは君主や貴族による垂直型の強権支配で、古代ギリシア世界の民主政のような市民同士の対等で自由な関係に基づく水平型の支配は稀な例外でした。ルネサンス期にギリシアの古典が賞賛されるようになっても、民主政には嫌悪感が抱かれました。古典を読み解けるような人々は当時の支配層なので、民主政は危険に思われたわけです。18世紀の啓蒙思想でさえ、古代ギリシア世界の民主政には冷淡でした。市民革命で理想とされたのも、ローマ共和政であってアテナイ民主政ではありませんでした。エドマンド・バーク(Edmund Burke)のようなフランス革命に否定的な論者も、アテナイ民主政を最悪の専制と評価しました。
19世紀になると、民主主義を古代ギリシア世界の民主政の評価と切り離す傾向が現れ、直接民主政は近代国家に不向きで、代表制による間接民主政が最善と論じられるようになります。奴隷制に立脚するとして古代ギリシア世界の民主政を批判する論調は、マルクス主義に始まりました。20世紀に出現した社会主義国や大衆社会を危険視する立場からは、アテナイ民主政が群集支配の典型として批判されました。本書は、フランス革命の「革命的民衆」もマスメディアに誘導される「孤独な群集」も古代ギリシア世界には存在しなかったのに、反革命論者はそれを古代アテナイの民主政に投影した、と指摘します。本書は、民主主義が普遍的な価値として体制の違いを超えて認められるようになったのは、「ファシズムと民主主義との戦い」に連合軍が勝利した第二次世界大戦後のことだった、と評価しています。本書は、近代民主主義と古代ギリシア世界の民主政の違いとして、前者の基本が「代表する」ことにあるのに対して、後者は「あずかる」若しくは「分かちあう」ことにある、と指摘します。
21世紀には、民主主義を最初に発明したのは古代ギリシア人ではない、という論調が強くなります。住民が集会での熟議により意思を決定する政治様式は、古代のエジプトやメソポタミアやインドや中国など世界各地に見られ、民主主義を古代ギリシア世界だけの遺産と考えるのは西欧中心主義的な偏見である、というわけです。しかし本書は、民主政とは単なる集団的意思決定だけではなく、市民団自らが権力者で、少なくとも理念上は王や両者のような上位権力があってはならず、これは他の古代世界にはないギリシアに固有の特徴だった、と評価します。本書は、現代人が民主主義について語るさいの、ギリシア人の経験に負っている重みを指摘します。
https://sicambre.seesaa.net/article/202302article_25.html
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プラトンのイデア論とは?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16863433
【伊藤貫の真剣な雑談】第9回「プラトン哲学と国家の独立」[桜R4/10/8]
【伊藤貫の真剣な雑談】「プラトン哲学と国家の独立」文字起こし
https://note.com/taizo7263/n/n431ca4e322a8
今日は、普段から喋ってることよりは、相当抽象的なことを喋りますので、半分、大学の講義みたいに、政治思想史とか、哲学史の講義みたいになるんですけれども、以前からこのことを喋るのは重要だと思っていたんですね。
哲学史とか政治史のことに関して喋りますと、皆さんに中々理解していただけない….と。理解していただけないっていうよりも、もう、あの、みんな嫌がる人が多いんですね。(笑)
めんどくさいこと言わないで….面倒くさい理屈を言わないでほしい。
という反応を示される方が多くて。
僕のYouTubeの講演っていうのは10~20万人くらい見ていただけるんですけれども、今回の講演は、多分、ほんの数万人?もしかしたら数千人ぐらいしか見ていただけないかもしれないと思うんです。
ワシントンから日本の外交政策と国内政治を観察していますと、ものすごい表面的な議論を繰り返してるんですね。
で、このまま表面的な議論をいくら繰り返しても、きちんとした、論理的に整合性があり、一貫性のある、政治、外交、国防はできないんではないかと思うんです。
なぜかと考えてみると、やっぱり哲学の点からこの問題を議論しないと、なぜ戦後の日本人が、もしくは大正デモクラシー以来ですね、ですから過去100年間か、110年間の日本が、表面的な議論ばかりして、長期的な展望と、きちんとした明瞭な価値判断に基づいた国内政治と外交政策を実行することに失敗してきたのかということが、なかなか説明できないと思うんですね。
ですから、今日の議論というのは、抽象的な、哲学とか宗教のレベルにまで踏み込んだ議論をします。
で、面白いと思われる方もおられると思いますけれども、つまんない屁理屈を喋ってるなと思われる方もおられると思いますが、最初にこの講演の前半で、過去2500年間の人類の価値判断がどういう風に変わってきたか?
特に、最近200年もしくは最近250年間の欧米人の価値観が、価値判断力が、どういう風に変わってきたのか。で、そのために日本人がどういう風に影響を受けたか。もっとはっきり言うと、価値判断がどんどん変わってきた。もしくは、価値判断力が衰退してきた欧米人に、日本人はかなりもてあそばれてきたところがあるんですね。
それは、もちろん19世紀の中頃まで日本人は外国人と直接議論するような場に立たされなかったわけで。そうすると、国を開いた途端に価値判断の能力がかなり乱れてきたヨーロッパ人、アメリカ人と付き合わなきゃいけなくなった。これは僕は、最近150年間の日本の悲劇だと思うんですね。
というのは、18世紀までの欧米人というのは、そう簡単にポンポン意見を変えたり、自分たちの価値判断力を、判断の基準を、変えたりする人たちではなかったんですけれども、最近200年ぐらいから欧米人が落ち着きを失って、その場その場で自分たちに都合のいいことを言い出して、それでアグレッシブに自分たちの価値判断を非白人諸国に押し付けてくるということを繰り返してきたわけですね。
日本人はそういう西洋文明、西洋諸国に押しまくられて、それに一生懸命対応して、キャッチアップしようとして、時には猿真似して、失敗したりして。
で、現在もそうなわけです。現在の日本政府も、例えばアメリカがウクライナで不必要なクーデターを起こして、それでウクライナという国をアメリカの純軍事同盟化して、ロシアがそれにたまりかねて、ウクライナの東部に侵入していったと。で、それを理由にアメリカは長期の対露戦争を戦って、ロシアを潰そうとしていると。
そのやり方に日本政府は、もう日本政府だけではなくて、マスコミの人はほとんど全員が引きずられた議論をするだけなんですね。要するにこれは最近150年間ずっと、欧米諸国にやることにずっと鼻づらを引きずり回されるようにくっついていった日本の悲劇がずっと繰り返されているわけです。
そのことを、哲学史とか政治思想史の面から分析すると、どういう風になるかということを今日は喋りたいと思います。
で、前半が最近2500年間に何が起きてきたか。哲学史とか政治同士の面からどういう風に変わってきたか。で、後半でプラトンの国家思想を説明して、それで、ソクラテスやプラトンによれば、国家の価値判断の独立と、それからもちろん国防政策の独立というのがどれぐらい大切なものかということを説明します。ですから後半部は プラトンの解説で、前半部は思想史の解説になります。
まず、いつも言ってることなんですけれども、ものを考えるには3つの段階があります。
3つのレベルで考えないとうまく整合性がとれない。要するに、きちんとした 安定性のある思考が成り立たない。その3つのレベルの思考というのは、
一番上に、「哲学や宗教レベル」の価値判断があって、
その下に政治学、それから国際政治学。それから政治思想史。それから経済学、軍事学の「パラダイムレベル」パラダイムというのは”学派”ですね。要するにケインズとかマルクスとかオーストリア学科とか。いろんな学派別のパラダイムがありまして、どのパラダイムを使用するかで議論が変わってくるわけです。2つ目がパラダイムレベルの議論。
3つ目の段階は誰にでもわかりやすい「ポリシーレベル」の議論ですね。目の前に起きたある問題を解決するにはどのポリシーを採用すれば最もコストが安くて最も成功する率が高いかという、目の前の問題に対処するポリシーレベルの問題ですね。
ですから、ものを考えるには「3つのP」フィロソフィカル(philosophical)なレベルの思考。パラダイムレベル(paradigm)の思考。それから3番目のポリシーレベル(policy)の思考があるわけです。
今の日本が一番困っているのは、一番上の哲学や宗教のレベルでの、ものの考え方をどうするかということだと思うんですね。
これは日本人にとって一番苦手なレベルの議論なんです。というのは、日本人はあんまり宗教に興味を持たなかったですよね。もちろん仏教には素晴らしい伝統がありますけれども。
でも、明治維新はいわゆる、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)というのをやって、仏教的な思考パターンっていうのをどんどん弱体化させていったわけですね。ごく一部の人がキリスト教となりましたけれども、彼らの影響力はほとんどなかったと。
では哲学はどうかっていうと、哲学も明治維新以降、 慌てて輸入してみたんですけれども、これもまたほとんどが、はっきり言って表面的な猿真似をしたに過ぎなかったということがありまして。日本人に根付いたものにはならなかったわけです。
ですから、ヘーゲルが流行ればみんなヘーゲルの真似をするし、カントが流行ればみんなカントの真似すると。それからショーペンハウアーが流行ればショーペンハウアーの真似をすると。で、20世紀になると現象学とか、論理実証主義とか。言語分析哲学とか実存主義とか。ポストモダンが流行るとみんなそれを真似すると。
だけども、日本人の、日本の国民のほとんどにはこういう大学の哲学科の教授たちが、「西洋のこれが一番新しいヨーロッパの流行ってる哲学です。」という風に真似してみせても、ほとんど何の影響も受けなかったわけですよね。
また、問題なのは、日本の先生が西洋哲学を紹介するとものすごく奇妙な日本語になるんですよ。日本の大学の先生が書いたヨーロッパ哲学の解説書を読んでもほとんど意味が通じないような文章を平気で書いているわけですよね。
で、しかも、ヨーロッパの哲学の流行が変わると、どんどん変わっていくと。そうすると結局、ほとんどの人たちは日本の哲学者なんていうのはヨーロッパの哲学の流行を借りてきてるだけで、真面目に学ぼうとしても大切なものは何も得られないと。これは事実だったと思うんですね。事実だと思うんですけれども、やっぱり人間にとって哲学と宗教っていうのは、実は一番大切なものなんですね。
で、なぜ一番大切かっていうと、人間が生きていくのに、僕は「2つのM」と呼んでいるんですけれども、2つのMというのは何かっていうと、ミーニングとミッション(meaning , mission)
要するに、人間には、何で自分は生きてるんだろう。 自分の生きてる意味は何だろう、とね。
生きてる意味がわかんなきゃ生きてても面白くないわけで。もしくは刹那的にね、その場その場で対応していくだけで、頭の中は混乱するし、気分も情緒的にも混乱するし、落ち着いた判断っていうのができないわけですね。
もう一つは、人間っていうのは、生まれて年を取って、子供を作って年をとって、死ぬと。そうすると単なる動物と同じだと。そうであるならば、自分が生きてる間に何らかの意味、もしくは意義を追求して実現しようという義務感なり使命感なり、それから任務というかね、やらなければいけないことというものが規定できないわけですね。
ですから2つのMというのは、ミーニングオブライフ、 生きる意味。人生の意味。それからミッションオブライフ、人生の任務、使命感ですね。
このミーニングオブライフとミッションオブライフというものを人間に与えてくれるのは、実は、哲学もしくは宗教だけなんですね。
政治学の本とか心理学の本とか社会学の本をいくら読んでも、生きる意味とか生きる任務が何かっていうことは絶対出てこないんです。
これはやっぱり哲学と宗教から得られるものでありまして、他のいわゆる社会科学とか人文科学とかいうものをいくら勉強してみても、そういう本をいくら読んでみても何も出てこないということなんですね。
宗教と哲学がはっきりしていない国民っていうのは、価値判断の基準とか、自分たちが大切にしている価値規範は何かという議論が曖昧なまま、目先の政策議論をすることになるわけで、そういう国民はいつも腰がグラグラしていて、自分たちの立脚点で自分たちが大切にしている価値判断にしっかり足を踏まえて長期的な政策を実行するという能力を持てないわけです。
ですから、生きる意味、生きる生き甲斐ですね。それから生きるミッションをきちんと方向性を明瞭にしてくれるのが哲学と宗教で、その後に経済学とか国際政治学とか軍事学とか核戦略理論とかそういう学問レベルのパラダイムで、どのパラダイムを採用するのが一番我々にとって良い方針であるかという議論が出てきて、その後に政策議論が出てくるわけです。
正直に申しまして、過去77年間の日本の左翼の護憲主義、平和主義、人権主義、平等主義というのは、何らかの哲学や宗教に基づいたものではなかったわけですね。なんとなくムード的に平和憲法万歳と。平和が一番いいんだと。人権を大切にしましょうと。それがヒューマニズムだと。
ヒューマニズムといっても、人間の行動には必ず価値観が伴いますから、どのような価値判断が我々にとって最も良きものであって、劣等な価値判断というのはどういうものかという、そういう議論は避けてきてるわけですね。
そういう日本の左翼が、本当の哲学とか宗教観に欠けた議論をしてきたと同時に、保守派も吉田茂以来、日米基軸主義というお題目のもとにアメリカに くっついていって、米軍にずっと占領してもらって、アメリカ文明の猿真似をして、アメリカがグローバリズムをやり出すと我々もグローバリズムをやり出すと。アメリカがネオリベラリズムをやると我々もやると。
で、アメリカは、企業は全て株主の利益のために存在すると。だから従業員の給料をバンバンガンガン下げて株主に対する配当を5倍も6倍も7倍も増やせばそれでいいんだと。 ごく一部の株主が儲かれば従業員の給料は全く上がらなくても、もしくはどんどん下げていっても構わないという株主優先主義の資本主義を日本に押し付けてくると、日本の橋本政権、小泉政権、安倍政権は全部それを実行するわけですね。
過去30年間それを実行してきてどうなったかっていうと、日本の勤労者はどんどん貧しくなって、日本の株式市場は、7割が外国勢、特にアメリカに支配されていると。
日本の株式市場を支配している外国の金融機関とかヘッジファンド業者は自分たちが金儲けすることだけ考えてますから、日本の勤労者の労働コストをどんどん減らせと。 驚いたことに日本政府は、はいわかりました、やりますやりますと言って、外国の金融機関と外国の株主と投資家に都合のいい政策をやってきて、それで日本社会をどんどんどんどん、少なくとも日本の人口の半分の人を貧困化させてきて、それで日本の20~40代の2割か3割の人が、貧しいから結婚できないという状態になってきたわけですね。
で、これも保守派の日米基軸主義、要するに日米基軸なんだから、アメリカの言ってくる経済学のパラダイムでも、核戦略のパラダイムでも、国際政治のパラダイムでも全部鵜呑みにして、全部アメリカの言うままやってればいいんだと。それが最近の小泉政権と安倍政権なわけで、日本の立場は経済的にも外交的にも軍事的にもどんどん悪くなってきたわけです。
でも、自民党だけじゃなくて、外務省も財務省も経産省も防衛省も自衛隊も自分たちの価値判断、それから自分たちの長期的な国益のために何をやればいいのかっていうことを考えるよりも、アメリカ様優先で、とにかくアメリカ様が命令してくることを全部やると。それが小泉政権と安倍政権だったわけで、日本の立場は どんどんどんどん劣化していく。
僕から見ると、やっぱりこれは日本人に、哲学、価値規範と価値判断力というものが欠けている。それから国際政治学、経済学、核戦略理論、軍事学、国際政治史で、どのようなパラダイムを我々は採用すべきかという判断力が欠けている。
だから過去25年間、ずっとアメリカの言いなりになってどんどん貧しくなって、日本の立場というのは、中国と北朝鮮がどんどんどんどん水爆弾頭を増やしてますから、どんどんどんどん悪くなっていくわけですね。
で、アメリカ政府は、アメリカの核の傘があるから大丈夫だって言ってるんですけれども、中国、ロシア、北朝鮮が、日本に核恫喝(ニュークリアブラックメール)をかけてきた場合、アメリカ政府は、中国、北朝鮮、ロシアに、日本を守るための核戦争なんかもちろんやらないわけです。やらないんですよこれは。
やらないことがわかっていて、日本の外務省、防衛省、自衛隊は真正面から反論するということが全くできないんです。 本当にできないんですよあの人たちは。
それはなぜかというと、先ほど言いましたように、哲学レベルの判断力、パラダイムレベルの判断力が全くなくて、とにかくアメリカにくっついていけば大丈夫だろうと、日米基軸だと言ってるから、それで済ませてるから日本の立場はどんどん悪くなって、過去30年間、アメリカにもてあそばれてきたわけです。
これは結局、3つのレベルでものを考えてないということをやってるからこういう羽目になってきてしまったわけです。
で、これからヨーロッパのことに移るんですけれども、僕はヨーロッパ文明が好きなんですけれども、過去200年間のヨーロッパ文明は、はっきり言ってダメになってきたなと。で、なぜかと言いますと、ヨーロッパ文明の基盤というのは2つありまして、1つは紀元前4~5世紀に発生した、特にソクラテスとプラトンとアリストテレスが始めたギリシャ哲学ですね。
ギリシャの科学精神で一般的にはソクラテスとプラトンが人類の哲学の基盤を作り、アリストテレスが人類の自然科学と世界社会科学の基礎を作ったと。だから我々が使っている、普段考えている科学的な思考力とか哲学的な思考力っていうのは紀元前4~5世紀にこの3人が始めたものがヨーロッパ文明の基礎になってきてるわけです。
それから約400年経ってからイエスキリストが出て、 新約聖書に載っているようなお説教をして、キリスト教文明というのを作ったわけですね。
だからヨーロッパ文明っていうのはその源流がギリシャ哲学とかギリシャの科学、それからローマ帝国に広がったキリスト教文明というものから来てるわけです。で、それが変わったのが18世紀の後半なんです。
18世紀の後半からギリシャ哲学とキリスト教文明、キリスト教の教義自体を批判する啓蒙思想というのが出てきて、それから最近2500年間はだいたいこの啓蒙思想が正しかったという風にヨーロッパ文明、それからアメリカ文明も動いてきたわけです。
だけど問題なのは、ギリシャ哲学にしてもそれからキリスト教文明にしても人間よりももっと大切な価値があると。それを彼らは トランセンデンタルバリューって呼ぶんですけれども、超越的な価値ですね、それは何かっていう と、究極の真・善・美。アルティメットですね。それから、神聖な価値ですね。英語で言うとディバインバリュー。もしくはディヴィニティー、神聖なるものと。
普通の人はそれを神と呼んでるんですけれどもね。で、とにかくギリシャ哲学にしても、キリスト教にしても、人間よりももっと大切な価値というものがあって、それに従って生きていくのが我々の人間の務めであるという風に思っていたんですけれども、18世紀後半以降の啓蒙思想というのは、良くく言えばエンライトメントと。要するに、光をね、人類に光を与えるという ことになってるんですけれども、良くも悪くも人間中心主義なんですね。 英語で言うとヒューマンセントリックと。
で、もっと言うと人間こそが世界の主人公であり、世界で一番偉いのは人間であると。人間の欲望、それから人間の要求する権利。これが我々にとって一番貴重なものであると。人間の欲望と人間の価値判断と人間の主張する権利ですね、これを尊重するのがいい生き方であると。
そうすると、価値判断の中心がギリシャ哲学とかキリスト教文明ではディヴィニティと神のごときもの、もしくはノーブルマインド。要するに高貴な人間の都合とか人間の好き嫌いよりももっとそれをトランセンド、超越したノビリティと。高貴なるものというものが、もしくは崇高なものというものがあるはずだという風な思考パターンから、人間様が一番偉いんだと。で、人間様こそ世界の主人公であり、人間様が、良いと思うことを政府はやればいいと。で、そういう人間中心主義に変わってきたわけです。
人間中心主義というのは一見素晴らしいように思えるわけですよ。ところがね…. 少なくともソクラテスなりプラトンなりアリストテレスなり、それからジーザスクライストは、人間っていうのはしばしば愚かなことをやるから自制しなければいけないと。セルフレストレイント(自粛)と。
自制心を発揮して、自分の欲望と自分の権利というものだけを主張して、それを通そうとすると、単にいざこざが増えるだけではなくて、社会全体もきちんと運営できなくなると。それから社会の価値規範自体も崩れていくということをプラトンにしてもアリストテレスにしても指摘してたんですけれども、そういうのを無くしてしまったわけですね。
それを真っ先に先頭に立ってやったのが、ディドロとかダランベール、それからルソー、特にルソーなんかがそういうことをやって、自然に帰れと。自然の人間は素晴らしいんだと。原始状態の人間が一番素晴らしかったから、社会の伝統とか因習とかしきたりなんかは全部すっ飛ばして、とにかく人間 の欲望と人間の夢を優先させればいいと。
そこら辺から人間は非常に実益というか自分にとって得になるもの、自分にとって役に立つもの。それから自分の都合を優先させればいいという態度がかなり露骨になってきたわけですね。
そういう一見素晴らしいように聞こえる18世紀の啓蒙主義を経た後の人間が何をやりだしたかっていうと、19世紀になってからの植民地の獲得競争と、それから帝国主義と、それから植民地の非白人に対する露骨な搾取ですね。でこれはもう人種主義です、人種差別主義。
それから、自分たちの民族は一番偉い民族なんだから、自分たち民族の利益をどんどん優先させればいいと。弱い民族は土足で踏みにじっても構わないという民族主義と国家主義と。
そうすると、最初は啓蒙主義で人間の欲望と人間の権利を前面に押し出してそれを尊重するのがいいのだという考えを押し進めた時は、彼らは理想主義的だったんですけれども、それを19世紀になって実践してみたら世界中で植民地獲得競争をやる帝国主義闘争になってしまったと。
それで、よく言われるように、マイトイズライトと。力は正義なりと。 力の強い奴が力の弱い国を踏み踏みにじってどこが悪い?という、そういう国際政治になってきたわけですね。
それが19世紀の帝国主義になって、20世紀の第一次世界大戦、第二次世界大戦につながっていったわけです。
で、我々日本人は、最初はそれに順応して勝者になったような気持ちになったんですけれども、1945年に叩きのめされて、それからはもう二度と独立できなくなったわけです。
これも過去200年間の政治思想史から見ると、それから外交史から見ると、こういうことが起きたのも最終的にはやっぱり西洋人の価値判断力と政治思想がどんどん変わってきたからだと。
僕は少なくとも過去250年間の欧米人の価値規範の変化っていうものをあまり好意的というか肯定的には見てないわけです。で、これはちょっと皆さんに受け入れていただけないかもしれないんですけれども、保守主義は、以前も申し上げましたけれども、何を保守するのか?と。
「What do you want to conserve ? 」保守主義というのはコンサバティズムでしょう?このサーブっていうのは保存するとか温存すると。そうすると、あなたは 一体何を保守したいんですか?ということになるわけですね。
で、現代の、少なくとも アメリカ人とか日本人の多くは、国益を擁護したいと。もしくは国家のパワーですね。国家の力を温存したいと。だからナショナリズムか、もしくは経済利益、軍事利益を保守することというのが保守主義であると。で、それに反対する左翼は嫌いだと。
ところが、保守主義にはそういう国益、コンサバティズム、もしくはナショナリズムコンサバティブと。ナショナリズムを表に出すコンサバティズムとは別に、クラシカルコンサバティズムというのというものがあるんですね。それは何かというと、古典的なバリュー、価値、価値観。それから古典的な文化、様式をなるべく温存したいと。
なぜならば、何百年も続いてきた古典的な文化というのはそれなりに何百年も続いてきたんですから、洗練されたものであって、良いものだけは残ってるんだから、そういうクラシカルなカルチャー、クラシカルなバリューというものをそう簡単に壊すと人間は逆に野蛮な状態に戻ってしまうと。
だからそういう人間の野蛮性を避けるためにクラシカルなバリュー、クラシカルなカルチャーを大切にしようっていうクラシカルコンサバティブの立場があるんですね。
僕は非常に非文化的な人間なんですけれども、それにも関わらず自分のことをクラシカルコンサバティブだと思っておりまして、人類のことを考えると、過去2500年間に、人類の文明でやっぱり質の高い、質の良い文明規範というものがあったと。もしくは質の良い考え方があったと。それが僕は4つあったと思うんですね。
それは、西洋世界ではギリシャ哲学、それからギリシャの科学。それからキリスト教文明。それから東洋世界では仏教と儒教と。この2つがアジアを代表する文明の規範だったと思うんですね。
ギリシャ文明圏というのがありましたよね。それからキリスト教文明圏というのがあって、仏教文明圏、儒教文明圏というのもあったんですけれども、それ以外の文明圏というのはやっぱり非常に小さなものだったし、それから永続性のあった文明規範というのは、ギリシャ哲学とキリスト教と、それから仏教と儒教だと思うんですね。
僕はこの4つの流れを、人類の文明の4つの源流という風に考えておりまして、この4つの源流は、多分、世間では笑いものにされると思うんですけれども、僕はギリシャ哲学とキリスト教の神学、要するに一番コアになる神学的な考え方。それから儒教と仏教のコアになっている、中核になっている思想というのは、21世紀になっても7割ぐらい正しいんじゃないかと。
もちろん3割はね、古臭い迷信に過ぎないとか、あんなのフィクションに過ぎないとかいう風に言って笑い飛ばせるんですけれども、やっぱり7割ぐらいは正しかったんではないかと。
儒教と仏教とギリシャ哲学ができたのは今から約2500年前でしょう? 先ほど申しましたように、18世紀後半の啓蒙思想の時代になってこういう古い思想を笑い飛ばして、人間の欲望を、人間の欲求、それから人間の権利を前面に押し出す啓蒙主義が一番正しいんだと。キリスト教、儒教、仏教なんていうのは古臭いと。
ソクラテスとプラトンも古臭いという風な考え方が出てきたわけですけれども、そういう風に人類文明の4つの源流をそう簡単に貶めるような態度というのは、僕は過去250年間の人類の思い上がりなのではないかという風に考えているんですね。
でなぜそういう風に思い上がるようになったかっていうと、やっぱり科学技術の発展なんですね。科学技術が進んで、もちろん経済生産性が上がるわけですが、それからすごく便利になりますよね。で、便利になって、それで生産性が上がると、人間は、自分たちの好きなように世界を変えられるという風に思い込んで、クラシカルなバリューシステムとかクラシカルなカルチャーよりもどんどん革新していけばいいと。どんどん変えていけばいいと 、変化を重んじるようになるわけですね。
そういう考えがわからないではないんですけれども、変化を重んじて、技術革新を重んじるたびに、人間の殺傷能力というのはどんどん増えてきまして、最近、アメリカとロシアが実質的に戦争を始めましたから、ワシントンに住んでいると、アメリカとロシアが核戦争する確率がどのぐらいあるかだとかね、核戦争するとしたらどういう風に始まるかとか、みんなそういうこと言ってるわけですよ。(笑)
僕には科学技術の進歩によって人間が振り回されているようにしか見えないし、一旦、米露が核戦争を始めれば、これは少なくとも数千万人。もしかしたら数億人死ぬわけですよね。
そういうことまでやるようになった人間っていうのがどれほど賢いものかと。しかもそういう事態になっても、もう一度言いますけれども、アメリカ政府の国務省とCIAは、もしかしたらまた核戦争が起きるかもしれないけれども、中国と北朝鮮とロシアの核ミサイルのターゲットになってる日本人にだけは核を持たせないと。こういう風に国務省とCIAとペンタゴンは決めてるわけですね。非常に不道徳なわけでしょう?
しかも、日本が核攻撃の犠牲となっても、アメリカがそれを理由に北朝鮮、中国、ロシアと核戦争するってことはあり得ないわけですよ。それにも関わらず、アメリカ政府は日本人にだけは核抑止力を持たせないと。
こういうグロテスクなまでに不道徳な政策を日本人に押し付けていて、アメリカ人は、少なくともアメリカ政府の官僚はケロッとしてるわけですよね。
こういうのを見てると、人間の道徳的な判断力というのがどれぐらい進歩したんでしょうかと。むしろ、17~18世紀の方がマシだったんじゃないかと。もっと言えば、プラトンとかアリストテレスが生きていた時代の方がもう少しまともだったんじゃないかとね、そういう風にも思うわけです(笑)
とにかく僕はそういう理由で、過去200年なり250年間の文明の、確かに科学技術は進歩したけれども、人間の価値判断能力がどれほど進歩してきたかどうかは疑問であると。
で、今からプラトン哲学の話に行きますね。
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プラトンは、古代ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師にあたる。
プラトンとか、ソクラテスもそうなんですけども、ソクラテスとプラトンの関係っていうのは非常に面白くて、ソクラテスはプラトンの先生だったわけですけれども、ソクラテスというのはとっても奇妙な人で、非常に立派な人なんですよ。
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ソクラテスは、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者。西洋哲学の基礎を築いた人物。
しかも、すごく、ちょっと滑稽なところのある人でね、あのね、 プラトンとアリストテレスってあんまりユーモアのセンスはないんですね。だけどソクラテスというのは非常にユーモアのセンスがある人で、やたらに勇気のある人で、もう体力がすごいんですよ。 体力強壮で、それでもう、戦争に行くとものすごく強いんですよ、ソクラテスっていうのは。要するに戦場ではまさに荒武者という感じでみんなを驚かすような戦闘ぶりを示すんですけども、非常に茶めっ気があって、 皮肉言ったりみんなを笑わせたりするんですね。
彼は変人で、物を書きたがらないんですね。議論にはものすごく強いし、喋るのも非常に表現力豊かなんですけれども、しかし、結局1冊も本を書かなかったんです。
で、ソクラテス先生の言ったことを色々思い出しながら、あのいわゆる「プラトンの対話集」を書いたのがプラトンなんですね。
弟子のプラトンはソクラテスの登場する対話集っていうのを25~28冊ぐらい書いてるんですね。もちろん後半のプラトンの対話集っていうのはソクラテスが出てきますけれども、その考えの7割か8割はプラトンの哲学感で、初期のものは逆に7割か8割がソクラテスの考えをそのまま述べたものなわけです。
「Internet Archive プラトン全集 : Free」
https://archive.org/details/githejomur_hu4ht_13/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3%E5%85%A8%E9%9B%86%E3%80%881%E3%80%89%E3%82%A8%E3%82%A6%E3%83%86%E3%83%A5%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%B3%20%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%BC%81%E6%98%8E%20%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%20%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3/
ソクラテスの弁明、国家、その他読めます。
僕がソクラテスとプラトンが非常に好きな理由は先ほど言いました2つのMとミーニングオブライフ。それからミッションオブライフ。
生きる意味と、それから生きる使命ですね、生きる任務。何をやらなければいけないかというのをこの2人は非常に素直に正直に喋ってくれるんですね。しかもレベルが高いんですよ。レベルが高いんだけれども、言葉遣いが 普通の言葉遣いで喋ってくれますから、とってもわかりやすいんですね。
で、 逆に19~20世紀の哲学者っていうのは、一見すごく知性溢れる世界の分析と、それから、文明の分析ということをやっているように見えても、そういう人たちの本を読んでも生きることの意味とか、生きることの任務とか、やらなければいけないこととかいうのは出てこないんですよ。
一番ひどいのが最近 50~60年流行ってきたポストモダンでポストモダンの本なんか読んでると、非常にシニカル(冷笑的)で無気力になって、現代世界をせせら笑うということをやるだけで。もっと単純に言っちゃいますとね、ソクラテスとプラトンは非常に 道徳的なんですけれども、それと同時に非常に男らしいんですよ。で、非常に強い責任感があって勇気があって男っぽいんですよね。
逆にポストモダンの連中っていうのは、なんというか、距離をとってせせら笑うような、冷笑するようなあの態度があって、彼らの議論をいくら読んでもミッションオブライフというようなあの感覚は出てこないんですね。
むしろ傍観者(onlooker)もしくバイスタンダー(bystander)という感じで、現代文明の無意味さを嘆いてみせるというポーズしか取れないわけですね。もしくは何か良心的な態度をみんなに切々と訴えるというような形で、哲学としての健全性って言うんですか、やっぱりあるんですよ。健全性を備えた哲学と、健全性の欠けた哲学と。
サルトルなんかはもう典型的で、もう健全性っていうのが全然ないわけですね。せせら笑って….もちろん彼は秀才ですから、秀才風の説明してみせるんですけれども、生きる意味とか生きがいとか、それから生きるミッションですね。生きることに対するミッションの感覚というのが出てこないわけです。
で、プラトンに戻りますけれども、プラトンとカントにはちょっと共通点がありまして。2人とも、目の前の現実は、もちろん目の前の現実だけれども、目の前の現実だけが現実ではないと。人間にはより根源的な現実があるという風に分けているんですね。
プラトンは、目の前の現実っていうのは洞窟の中に閉じ込められてるプリズナー(囚人)が、洞窟の壁に映っている影を見て、その影のことを指さしてこれが現実だと叫んでいるようなものであると。
要するに洞窟の中に焚き火を焚いて、そうすると、ゆらゆらした影が洞窟の壁に移りますよね。そういうゆらゆら動く影を見て、人間たちはこれが現実だと叫んでいるようなもので、本当の現実ではないと。
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有名な「洞窟の比喩」(プラトン対話集:国家)
カントはそれを別の言い方でフェノメノンとヌメノンという風に分けまして、目の前の我々が相手にしているような一般的な現実はフェノメノンであると。で、その目の前のフェノメノンを生じさせている根源的な現実。彼はそれを、日本語の哲学書では「物自体の世界」という風に書いてますけれども、とにかく最も根源的な目の前の現実のべースにある、一番大切な、全く変わらない現実なんですね。彼はそれをヌメノンと呼んでたわけです。
要するに目の前の現実以外にももっと大切な現実があるということを主張してたという意味において、プラトン哲学とカント哲学っていうのは似てるところがあるんですね。
2人とも目の前の現実を超えたところに親善美の価値観とか、それから神や仏のごとき、ディヴィニティ、ディバイン、要するに神聖なるものというものが存在すると。
ですから、プラトンとカントに共通するのは、目の前の現実っていうのは我々人間が毎日相手にしているような現実。新聞とかテレビのニュースに載るような現実。政治家とかジャーナリストが騒いでいる現実。
そういう 政治家とかジャーナリストが騒ぐような 現実っていうのは吹けば飛ぶようないい加減なものに過ぎないと。そんなものはいくらでも変わると。万物は流転すると。
ヘラクレトスっていうソクラテスの前に生まれた哲学者が万物は流転だと。全ては変わるから確かなものなんか何にもないと。彼らはもちろん目の前の フェノメノンのことそういう風に言ったわけですね。
プラトンとカントに共通するのは、目の前の現実を超えたところに、「もの」自体の世界、もしくは根源的な世界と。プラトンはその世界のことをイデアの世界とかフォーム、形式ですね、フォームの世界と言って、要するに抽象的な、論理的な世界があるんだという風に主張しまして、2人とも目の前の現実だけを分析することには賛成しなかったわけですね。
で、それが原因で2人とも、根源的な現実には神のごとき、もしくは神聖なる価値が存在すると。だから道徳規範とか価値規範っていうのは、全てその場の状況によって変わるような、エフェメラル、吹けば飛ぶようなものでは なくて、永遠性と普遍性を持つ価値判断っていうものが存在することは可能であると、もしくは必ず存在するのだと、そういう風にプラトンとカントは言ってたわけですね。それが原因で2人とも神の存在というものを認めてたわけです。
ところが、神というと普通は宗教だと思うでしょう?ところが、プラトンもカントも宗教は持ってないんですよ。彼らは宗教的な神っていうのには賛成しないんですね。
哲学的にずっと考え抜いてみると、目の前の現実をこういったところにもっと深い根源的な現実っていうのがあるはずで、人間の価値判断力、本当の価値判断力っていうのは、その根源的な現実、もしくはヌメノンから来るはずであると、来てるのだと、彼らはそういう風に言いまして、そこに神聖なる規範、もしくは究極の真善美の価値というものも存在するんだと。
彼ら2人は非宗教的な意味で神の存在というのを肯定してたわけです。そういう風な神の存在、非宗教的な神の存在っていうのを肯定してたのはソクラテスもそうですし、アリストテレスもそうだし、それから皆さんご存知のデカルトもそうなんですね。あとスピノザもそうだし、それから20世紀初頭の有名な哲学者で数学者のホワイトヘッド。それから誰でも知ってる物理学者のアインシュタインも根源的意味における神の存在というのを信じたわけですね。
だからデカルトとかアインシュタインっていうのは自然科学者ですから、そういう数学、自然科学に非常に優れた人たちも神の存在というものを非宗教的な意味で肯定してたわけです。
ということはどういうことかというと、崇高性を持つノビリティ、もしくは スプレマシー、というかシュープリームネス。要するに、非常に崇高なる価値規範っていうのは存在するのであって、我々人間はそれを目指して生きていくべきだと。
ただし、目の前の現実にはそれは存在しないわけですね。だからカントもプラトンもデカルトもスピノザもそれはきちんと分けて議論してるわけです。
で、そういう風な崇高性の存在ともしくは神のごとき価値の存在というものを認めた上で、プラトンは、人間はそのような崇高性を目指さなければいけないんだけれども、人間の性格には3つの欲望、もしくは3つの欲求によって動かされていると。
それは何かっていうと、彼に言わせれば、最も良いレベルでの欲求、もしくは欲望っていうのは、知性や知恵やそれから理性に対する欲求であると。
要するにインテレクチュアル(知的)な欲求ですね。それから2つ目が名誉とか勝利。それから人間のプライドというものを重んじる欲求ですね。
3つ目の欲求は何かっていうと、お金、それから食欲。美味しいもの食べたいとか、それから、女性もしくは男性。要するに性関係における欲望ですね。それから官能的な快感ね、プレジャー。 要するに快楽に対する欲望。それから、贅沢したいとか、見せびらかしたいとか、お金持ちであるとか社会的地位を見せびらかしたいとかね。そういう欲望ですね。これを彼は3番目の欲望と呼んでて、人間っていうのは必ずこの3つの欲求もしくは3つの欲望によって動かされていると。
で、1番目の、知恵とか理性とか知性に対する欲求が一番人間にとって好ましいものであって、2番目の、何でも いいから人に勝ちたいと、それから名誉を得たいと、名声を得たいと、自分のプライドを満足させたいというのは 彼は2番目の欲求であると。3番目の、お金持ちになりたいとか美味しいものいっぱい食べたいとか贅沢したいとか、それから女にモテたいとか男にモテたいとか、そういうのはかなり生物的、もしくは動物的な欲求なわけです。
1番目の欲求を優先する人たちを彼は鉄人タイプと。フィロソファータイプと。哲学者っていうよりも「哲人」ですね。悟りを追求するタイプですね。
2番目の人たちを彼は軍人タイプ。もしくは戦士。ウォーリアー。ファイタータイプ。 軍人タイプ。闘士タイプの人。
3番目の人たちを彼は商人タイプ。商売人タイプ。もしくは快楽主義者タイプの人と呼んだわけです。
この3つの生き方のどれを重んじるかによって彼は政治体制が変わってくると。これがプラトンの有名な「国家」っていう本があるんですけれども、そこで彼が述べているのは、
1番目の哲学的、もしくは鉄人的な欲求を重んじるのが鉄人統治と。
2番目の名誉とか勝利を望む、もしくはプライドの充足を重視するのを名誉体制、もしくは軍人体制ですね。 もしくはあの江戸時代の武士のあの階級ですよ。要するに武士のメンツが立たないとかね。武士の誇りにかけてなんたらかんたらとかね。(笑)そういう、武人統治ですね。
3番目が金儲けを欲求する、お金に対する要求を一番重視するのが富裕者統治。で、プラトンはこれをプルートクラシーと。(金持ちによる政治)と呼んだり、オリガーキー(寡頭体制)と呼んだりするんですけれども、要するに金儲けする人が一番威張ってる社会ですね。
4番目が民主体制なんですね。で、民主体制っていうのは一人一人の欲望、欲求には何らの上下もないと。全ての人の要求はもしくは欲求は全て平等に扱われるべきであると。だから人間の趣味とか、それから余暇の使い方とかお金の使い方全てに上下貴賤はないと。例えば、品のない映画だとかテレビ番組でも、どんなに品のない喜劇俳優であっても、それが大衆に受けてるんだったら、みんなに受けることを言ったやつが勝ちだと。 要するに数は力なりと。民主主義ってのはそうでしょう?
5番目が独裁政治、もしくは専制政治。で、彼はこの5つの政治体制を「国家」の中で議論していて、もう一度言いますと、 哲人統治。武人統治もしくは軍人統治。富裕者統治。民主主義。専制政治。
で、プラトンは(長くなりますから端折りますけれども)、哲人統治以外の軍人統治、富裕者統治、民主主義、それから先制政治は必ず堕落していくと。特に民主主義に関しては、民主主義をやっていると人々のその場の思いつきと、その場の要求だけを優先することになりますよね。
というのも、民主的な政治家っていうのは、とにかく数ヶ月後、もしくは来年か再来年の選挙に勝たなければいけないので、民衆の一番好むことをやりたがるわけです。で、民衆の好む事っていうのは、数か月もしくは数年ごとにどんどん変わっていくし、それから、民衆の、ものを考える能力っていうのはそれほど高くないですから、要するに、人気取りをする人がどんどんどんどん影響力を持つようになると。
それでプラトンは、まあ、くそ真面目な人なので、そういう人気取りばっかりやっているような政治家に国家を任せておくと結局、国家が衰退してしまうと。
で、もっと彼がはっきり書いているのは、本当の指導能力を持つ人というのは、プラトンに言わせれば、民主主義をやると本当の指導能力を持つ人が政治家になりたがらないと。なぜかというと、毎日民衆を相手に人気取りしなきゃいけない わけでしょう?
そうすると、本当に優秀で本当に指導者としての能力のある人は毎日朝から晩まで人気取りのジェスチャーばっかりやってるのが嫌なんですよね。で、選挙民の集会に毎週、もしくは毎日出て行って、ご機嫌取りしなきゃいけないということは嫌なわけです。
これは世界中に言えることで、アメリカでもね、見てますと、優秀な人っていうのはいるんですよ。指導力と人格の優れた人というのはいるんです。だけど、そういう人格が優れていて指導力のある人っていうのは政治家になりたがらない。
民主主義をやってると、もう本当に、優秀な人っていうのは出てこないんですよ。(笑)もうあんなの嫌だと。あんな人前でね、大声で口を声を張り上げて、人前で人と口喧嘩してみせるような、もうあれ、お芝居やってるわけでしょ。政治家っていうのはそういうね、あのバカバカしいお芝居をやるのは勘弁してくれっていうんで、どこの国でも、人間的にまともで人格的にまともできちんとした知性と、それから、価値判断能力を持つ人っていうのは政治には関わりたくないという風になるわけですね。だから民主主義は失敗するんだと。そういう風にプラトンが言ってるんですね。
それでプラトンにの国家論にいくと….実はソクラテスもそうなんですけれども、 ソクラテスも今日の一番重要な点なんですけどね。今から喋るのが今日の議論の一番大切なことなんですけれども、ソクラテスも プラトンも人間にとって、そして国家にとって最も大切なのは、質の高い価値規範を維持すること。
それから、徳のある人生を生きること。もしくは徳のある国家を作ること。要するに質の高い価値規範、それから徳ですね。英語で言うとバーチュー。 徳のある人間になること。徳のある国家を作ること。これが政治の目的であると。
ソクラテスもプラトンも、経済規模とか人口規模とか領土とかいうのはどうでもいいんだと。国家の人口が5万人であろうが500万人であろうが5000万人であろうが、そんなのは国家の偉大さとは何の関係もないと。
たとえ300万人の国民しかいないような 国でも10億人の国民がいる国よりもはるかに偉大であり得ると。 なぜならばその300万人が非常に高い規範を実行して、徳のある生活を、人生を送っているならば、そういう国の方がはるかに偉大であると。だから、軍事力とか経済規模っていうのは国家の偉大さとは何の関係もないんだと。
要するに、彼ら2人によれば、国家の最終的な目的っていうのは、質の高い 価値規範を維持することと、それから徳のある生活を国民が送ること。これが一番大切なのであって経済規模や軍事規模は無関係であると。
で、ソクラテスが言ってるのは、そういう国は独立を守らなければいけないと。なぜなら、独立を守らないのであったら、他の周りの国の価値判断力の低い国とか、それから徳のない国に蹂躙されてしまうからであると。
だからソクラテスはプラトンの著作の中で、他の国に従属するぐらいなら、もしくは他の国に隷属するぐらいだったら国民は全員戦って死んだ方がいいと。
もう一度言いますけれど、独立する目的は、高い価値規範。それから徳のある生活をすることなんですね。で、そういう、人間にとって一番大切な国家の状態、人間の状態を守るためには、もし他の国に蹂躙されるんだったら、国民がみんな 戦って死ぬようなことがあっても、それはもうね、そういうことをやる意味があるっていうか、要するに、とにかく他の国に従属するぐらいだったら、他の国の属国になるぐらいになったら戦って死んだ方がマシだと。そういう風にソクラテスがプラトンの本の中で言ってるわけです。
それぐらい彼らにとっては、独立した質の高い価値判断を守って、徳のある生活をするということが最も国家にとって一番重要なことであると。そのためには戦うのを恐れてはならないと。
そう、ここまで言うとお判りだと思いますけれども、日本は77年前に戦争に負けたからというので、アメリカ軍を未だに日本に進駐させておいて、どう見ても日本の外務省、防衛省、自衛隊には自主防衛しようというつもりは全然ないわけですね。周りの国がどんどんどんどん軍備を増やして、核ミサイルを増やしても、とにかくアメリカ にくっついてりゃなんとかなるだろうと。
で、アメリカの資本主義、株主優先の金持ちだけがどんどんどんどん利益を得ると。で、一般の労働者はどんどん貧しくなると。そういうアメリカの資本主義を押し付けられて、それを実行して、日本の国民の生活をどんどん苦しくしていると。国民の精神もすさんでくると。で、ご存知のように 皆さん、「今だけ金だけ自分だけ」という方向に追い込まれていくわけですね。
過去77年間の日本の政治家は、重光葵と石橋湛山を例外として、米軍を日本から追い出して、自主防衛するという当たり前のことをやろうとしなかったし、石橋湛山も重光葵も、人間にとって一番大切なのは徳のある生活をすることだと。高い価値判断を実践することだと。
そういうことをやって来ずに、全部、アメリカの属国として、アメリカの戦争とか経済政策に追従していくだけの生活を続けてきたわけですね。
そうすると、過去77年間の日本人のあり方というのは、ソクラテスとプラトンが描いたような国家のあり方とは全く逆の生き方をしてきたわけですよね。
彼らにとっては、目に見える軍事力、目に見える領土、それから目に見える経済規模よりも、精神的なノーブルマインドネス。ノビリティ。 要するに高貴さとか、精神的な崇高性と、それから、徳があるかないかということの方が、国家のあり方についてもっと重要だったわけですよ。
だから2人とも、目に見える利益よりも目に見えない利益。それから、目に見えない価値と価値判断ということを重視した人だったわけですね。で、それが彼らにとっては「哲学」するこということであったわけです。
「ソクラテスの弁明」という本を読めばソクラテスがそういう人であることは、もう100%解ります。
それで最初の話に戻りますけれども、日本の過去77年間というのは、哲学的なレベルでの判断っていうのがほとんど何もなかったと。パラダイムレベルの判断があったかどうかも怪しいと。で、目先の利益だけを考えてアメリカに従属してきたと。そういう生き方しかできなかったと。
僕は、だから、ソクラテスとかプラトンを読んでいると、これって過去77年間のね、日本人の生き方とは正反対の議論だなという風にいつも思うんですね。
今日はそのことについてお喋りしました。どうもありがとうございました。
https://note.com/taizo7263/n/na30957cae769
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ギリシャ・イタリアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/469.html
現代ギリシャ人の遺伝子は古代ギリシャ人と殆ど変わらなかった
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/10/04/160711
エーゲ海の民族の古代ゲノム研究
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14044235
ギリシア人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/275.html
アナトリア半島人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/294.html
古代遺跡ロマン トロイ・伝説の戦い
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/287.html
ミノア文明はヨーロッパ起源だった
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/626.html
1-14. ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-14.htm
ギリシャはヨーロッパなのか?? 地中海とバルカン半島の遺伝子は?
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/623.html
トルコ人とギリシャ人、ブルガリア人は医学的にほとんど同一人種
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/622.html
山賊・海賊によってつくられたギリシャ・ローマ
http://www.asyura2.com/13/ban6/msg/619.html
ギリシャ美術
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16833338
ギリシャ神話 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLeBS5noj71yhb8WVPGqvQllfOdG1xQx_1
橋場弦『古代ギリシアの民主政』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14090577
ギリシャの ホロコースト
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ギリシャの列車衝突事故、老朽化で手作業で信号やポイント切り替えしていた
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14092074
ギリシャの映画
ジーン・ネグレスコ 島の女 Boy on a Dolphin (1957年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/263.html
テオ・アンゲロプロス (Theo Angelopoulos、1935年4月27日 - 2012年1月24日)
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/216.html
天上の歌声 _ メリー・ホプキン
8. Theo Angelopoulos 1) Ο Θίασος(旅芸人の記録) : 1975
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/488.html
テオ・アンゲロプロス 『蜂の旅人』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/127.html
テオ・アンゲロプロス 『シテール島への船出』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/128.html
テオ・アンゲロプロス 『こうのとり、たちずさんで』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/126.html
テオ・アンゲロプロス 『ユリシーズの瞳』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/145.html
テオ・アンゲロプロス 『永遠と一日』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/124.html
テオ・アンゲロプロス 『エレニの旅』
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/125.html
エレニ・カラインドルー _ ギリシャの音楽は哀しい
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/31/060641
エレニ・カラインドルーの音楽が無ければテオ・アンゲロプロスの映画は二流
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003815
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テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録(1975ギリシャ)』
動画
https://ok.ru/video/3068089404070
映像作品に描かれたダメダメ家庭
04年11月12日
旅芸人の記録(75年カンヌ映画祭国際批評家賞)
監督 テオ・アンゲロプロス
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm
ギリシャの芸術家の名前って、皆様は、どれくらいご存知ですか?
「エッヘン!ワタシはこれでも世界史は得意だったのよ!」
と、おっしゃりたい方も多いでしょ?
「まあ、彫刻家や音楽家は名前が伝わっていないけど、文学関係なら、有名なホメロス、それに3大悲劇詩人のエウリピデス,ソフォクレス,アイスキュロス、喜劇のアリストファネス。別の方面?でも有名なレスボス島の女流詩人のサッフォーとか・・・」
まあ、出て来る名前って、こんなところでしょ?
逆にこれくらいは出てこないと、世界史を改めて勉強しないとね。
これらの名前は全員古代の人ですよね?それ以降のギリシャの芸術家の名前は?
こうなると途端に出てきませんよね?アレキサンダー大王以降のギリシャの芸術界は一体何やっていたの?2千年以上もサボっていたの?
ギリシャ人も、かつては、すばらしい芸術家を輩出したのに・・・遺伝子的にレヴェルが低いわけではないでしょう?だって、かつては立派だったんだし・・・
それに、16世紀のスペインの画家に、その名も「ギリシャ人」という名前のエル・グレコというギリシャ系の人もいます。ギリシャ人もギリシャ以外の国では活躍しているわけ。
どうして、ギリシャ国内では芸術家を生み出さなくなってしまったのでしょうか?
このように芸術家を産まない国や地域ってありますよね?
日本のお隣の朝鮮半島の芸術家の名前って、ご存知ですか?
中国の芸術家の名前なら、世界史でいやというほど覚えさせられましたよね?詩人だけでも李白、杜甫、白楽天、孟浩然・・・ああ!!思い出したくも無い、勉強ばかりのあの日々!?
しかし、朝鮮半島の芸術家の名前って、出てきませんでしたよね?
あるいは、イスラム圏の芸術家の名前って、出てきますか?
イスラムでは歌舞音曲を禁じているはず。絵画もダメなの?文学だって禁じているのかな?「テメエらは、コーラン読んでりゃ、ええんや!」なの?しかし、ペルシャにはイスラムとは異質なキャラクターの詩人のオマル・ハイヤームという人もいました。別に遺伝子的に芸術とは無縁の人というわけではないんですね。
どうしてイスラムの下では、芸術家が出なくなってしまったのでしょうか?
これらの国や地域の経済的な問題なの?しかし、どのみち、創造的な芸術家がその作品でお金儲けをできるわけもないことは歴史的な現実。芸術家というものは死んでから認められるものでしょ?芸術作品を制作すると言っても、文章を書くのは費用がかかるわけでもないので、「その気」になりさえすれば、できることでしょ?
芸術家の絶対数が少なく、多くの人が芸術家との接触することが少なかったから、芸術作品を作る意欲や発想が起こらなかったの?しかし、例えばギリシャなどは様々な芸術家が訪れていますよね?それにギリシャ人も外国に出てみればいいじゃないの?韓国人だってそう。中国に行けばいいだけ。その気になれば、様々な芸術家との接触は可能なんですね。
では、これらの国や地域が何故に、芸術家を生み出さなかったのでしょうか?
それはそれらの人々がダメダメだからですね。
「悪いのは全部アイツのせいだ!」そのような発想なので、自分自身を厳しく見つめることをしないわけ。自分自身から目をそらしているような人間が、芸術家になれるわけがありませんよ。
職業としての音楽家や物書きや絵描きにはなれるかもしれません。しかし、そんな自分自身から目をそらすような人間は、永遠に届くような作品を生みだす「芸術家」になれないわけです。別の言い方をすると、自分から逃避してしまっているので、仕事にはなっても、使命にはなっていないわけ。
今回の文章で取り上げる映画はギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロス監督の75年の作品である「旅芸人の記録」という映画です。
テオ・アンゲロプロス監督は現在における最も厳しい精神の「芸術作品」を作る監督です。まあ、映画の分野において、芸術性では3本指には確実に入るような大芸術家。
しかし、ギリシャという芸術不毛の地で、どうしてアンゲロプロスのような芸術的な映画監督が出現したの?また、彼は、どのようにして、芸術家不毛の地から芸術作品を生み出すような芸術家になったの?
アンゲロプロスは自分自身の「内なるギリシャ」、つまり自分の中の「内なるダメダメ」を厳しく見つめ、それを克服していったわけです。
今回取り上げる「旅芸人の記録」という作品は、ダメダメなギリシャ人の一員であるアンゲロプロスの心の中に巣食う「ダメダメな部分」を白日なところにさらしているわけ。
その過程があったがゆえに、近年のアンゲロプロス監督作品の「人間と人間のコミュニケーション」「人間の再生への希望」を語る豊穣な作品群が生み出されることになったわけです。
では、彼の作品「旅芸人の記録」の導きに従って、ギリシャ人のダメダメな面・・・これは呆れるほど韓国やイスラムにおけるダメダメな面と共通しています・・・を見てみることにいたしましょう。
ちなみに、この「旅芸人の記録」という作品は1939年から1952年のギリシャを舞台に、「羊飼いの少女ゴルフォ」というお芝居を上演している旅芸人の一座を描いた映画です。事件を時系列的に追った映画ではありません。一座がそのお芝居を上演しようとすると、当時のギリシャの様々な情勢によって、途中で上演がストップしてしまう・・・そんな映画です。
つまり「羊飼いの少女ゴルフォ」の上演という「まがりなりにも」芸術活動と言える活動がジャマされていくことについての映画といえるわけです。
「ギリシャにおいて何故に芸術が育たないのか?」そのような問題意識が反映しているわけですね。
この映画について、日本の3文映画ライターが「激動のギリシャ現代史を語る映画」などと解説したりしていますが、現代史ではないんですね。もし、現代史を語るつもりなら、登場人物の名前をもっと現代的にするでしょう。この「旅芸人の記録」という作品での登場人物の名前はエレクトラとかアガメムノンなど、昔のギリシャ人の名前です。そして起こっている事件も、昔から何回も繰り返されているような事件。
つまりそれだけアンゲロプロス監督は「いつまで経っても変わらない」ギリシャを描きたいわけです。それに現代史を描くつもりなら、事件の配置を時系列的にしますよ。歴史を描くつもりが無いから、事件の時系列を無視しているわけです。
まあ、それがわからないからこそ、「映画ライター」なんでしょうが・・・
さて、この映画に従って、ギリシャのダメダメやダメダメ家庭の問題というより、もっと一般的な意味でのダメダメ精神の事例を以下に列挙いたします。
1. 働かない・・・ギリシャ人は働かない。この4時間の映画で、働いている人はレストランのウェイターくらい。労働者が「資本家打倒!」と言うのはいいとして工場で働いているシーンはない。「労動者ならまずは労働しろよ!」と言いたいところ。
また、資本家も工場を経営したり、外国と貿易を行うというそぶりもない。とにかく働かない連中なんですね。さすがに韓国では働いているシーンは出てきますが、イスラム圏でも働いているシーンって出てこないでしょ?商店で働いている人は多少出てきますが・・・イスラム圏の工場って見たことありませんよね?やっぱり働かない連中なんですね。
2. 政治好き・・・経済的な面では意欲がない連中ですが、政治には熱心です。「悪いのは全部政治が悪いせいだ!」などと思っていたりするので、やたら政治には熱心なんですね。この映画でもデモ行進のシーンが多い。あるいは政治議論も活発です。
個々の人間が政治について確かな見解を持つことは必要でしょう。しかし、問題の全部を政治のせいにしてもねぇ・・・しかし、デモのシーンはイスラムでも韓国でもおなじみですよね?そして、この手の人は、政治論議が好きでも、実際に政治に携わって、現状を改善しようとはしないもの。ただ、「ダメな政治のせいで、うまく行かない。」という理屈がほしいだけ。
3. 会話がない・・・登場人物の皆さんは、とにかく人の話を聞かない。4時間にもわたる映画なのに、会話のシーンがない。どちらかが一方的に言っているだけ。人の話を聞くという習慣がなさそう。
4. 被害者意識・・・何かと被害者意識が出て来る。『イギリスには裏切られた!』『国王には裏切られた!』とか・・・「ああ、オレ達って、何てかわいそうなんだ?!」そして相手を恨むわけ。
5. 当事者意識がない・・・被害者意識があるのに、当事者意識がない。「じゃあ、アンタはギリシャという国をどうしたいの?」と言われても答えられない状態。ただ、相手を恨んでいるだけなんですね。イスラムや韓国でもこんな感じですよね?
6. 内部分裂・・・ギリシャ人の内輪もめは、それこそ紀元前のアテネとスパルタの戦争など、いつもやっているようです。「イギリス人はギリシャから出て行け!」と本気で思っているのなら、ギリシャ人が結集して、イギリス人を追い出せばいいじゃないの?ところがこの映画では内輪もめのシーンばかり。ギリシャ正規軍とイギリス軍が戦うシーンなどは全然なくて、いつもギリシャ人同士で戦っているんですね。同じようにイスラムだと宗派対立などが出てきますよね?韓国だと地域対立とか・・・彼らがまとまるのは「○○大嫌い!」それだけなんですね。
7. こびへつらい・・・この映画で出て来るギリシャ人は、強きにこびへつらい、弱い人には威張っている。そのような権威主義なのもダメダメの特色の一つですね。落ちたイヌだけを叩こうとするのがギリシャ人の特色のようです。まあ、これはイスラムや韓国も同じですが・・・
8. ユーモアがない・・・4時間にわたる映画なのに、笑えるシーンがない。まあ、それは監督のアンゲロプロスの個人的キャラクターの面も大きいでしょう。しかし、ダメダメな人間は「自分自身を笑う」心のゆとりって無いものなんですね。「オレってバカだなぁ・・・」なんて自分を笑わないのに、自分以外の人のことは高笑いするわけ。
ユーモアって、いつもとは別の見方で物事を見たりすると、出てきたりするものでしょ?ユーモアがないってことは、それだけ、ものの見方が画一的ということなんですね。
9. ホスピタリティーがない・・・この面は、むしろアンゲロプロス監督の別の作品で強調されています。どうもギリシャ人は外の世界から来た人を歓迎するという発想がない様子。外来者を、ヘタをすれば政治的な人質として利用したりするくらいの扱い。外の世界から来た人と会話して自分の知識を広め、相手に自分のことを知ってもらおうなんてこれっぽちも考えていない。
自分自身が被害者意識に凝り固まっているので、人をもてなす心の余裕がないわけ。このような面は韓国もイスラムの全く同じですよね。スポーツ大会などヒドイものでしょ?これでは味方ができませんよね?
10. 歴史自慢・・・この「旅芸人の記録」という作品では強調されていませんが、ギリシャは偉大な歴史がありますね。それはそれで結構なこと。しかし、ちょっと考えて見てください。「オレは小学校の時は優秀で、学級委員をやっていたんだ!」・・・そんなことを言う人間ってショボイオヤジでしょ?ちゃんとした人間はそんな昔の自慢話などはしないものでしょ?
歴史自慢しかするものがない連中って、それだけ今現在がダメダメということですよね?しかし、ダメダメな人間は歴史しか自慢するものがないので、歴史自慢をしたがる。そして「こんなに偉大な歴史を持つ我々なのに、今うまく行かないのはアイツのせいだ・・・」と被害者意識をますます膨らませるわけ。
このように、「悪いのは全部アイツのせいだ!」と思っていると、自分の気持ちとしてはラクですよね?だって、自分自身では何もしなくてもいいんですからね。ただ相手を恨んでいるだけでいい。
まあ、一般の人はそれでいいのかもしれませんが、そんな貧しい精神では芸術家は育たないでしょ?
真の芸術家になるためには、自分の内面にあるそのようなダメダメな面を自覚していく必要があるわけです。
ギリシャ人のアンゲロプロスは、このような自分に厳しい映画作品を作ることによって、自分自身を一歩前に進めたわけです。まあ、こんなメールマガジンを発行している私が言うんだから間違いありませんよ。
ちなみに、この「旅芸人の記録」という映画はギリシャ映画ですので、セリフはギリシャ語です。ということで字幕担当の人も「とある芥川賞受賞作家さん」がやっています。
その作家さんはギリシャ語が出来るので、アンゲロプロス監督作品の字幕だといつもこの人です。
この作家さんは、ギリシャに住んだり、最近ではイラクに行って「フセイン政権下ではイラク人はすべて幸せだった!アメリカ人は出て行け!」とかおっしゃっておられます。メールマガジンも発行されていて、私も読む時がありますが、実に「お・も・し・ろ・い」わけ。
自分自身の問題から目をそらし、グチばかり言う人間は、やっぱりそんな類の人間が多いところに行きたがるものなんですね。そうして、グチで盛り上がることになる。
「アンタたちは全然悪くないのよ!悪いのは全部アメリカなんだ!」
そう言われれば言われた方もラクでしょ?確かに同情してもらったイラクの人も幸福かもしれません。だって「自分自身は全然悪くない!」と思っていられるわけですからね。「悪くはない」んだから、自分自身では何もしなくてもいいわけ。
そのような精神的に怠惰な状況に、外国からのダメダメ人間が、まるで腐臭にハエやゴキブリが吸い寄せられるように喜んで出かけ、集まり、そしてグチで盛り上がる。
職業としての物書きや絵描きや音楽家は、そこそこのスキルがあればなれるものです。しかし、芸術家になって未来に残る作品を生み出すには「自分自身を厳しく見つめる」ことが必要不可欠なんですね。
ダメダメなギリシャの映画監督のアンゲロプロスが「旅芸人の記録」という、何より自分に厳しい作品を作って、自分自身を見つめ大芸術家になっていったのに対し、グチばかり言っていて、世界中のグチ人間を求めて自分から逃げ回っている人間が、芥川賞という新人賞止まりなのは、芸術的にみて必然なんですね。
この映画で描かれたギリシャの人々は、誰かを犯人認定して、対抗心ばかりを膨らませ、自分では何もする気もなく、しょーもない議論ばかりという、典型的なダメダメ人間の姿といえるでしょう。
これは何もギリシャの問題だけでなく、たとえば、インターネットの掲示板が、まさに絵に描いたようにこんな様相でしょ?
作り手のアンゲロプロスとしては、「激動のギリシャの歴史」を描いているのではなく、バカばかりやっているダメダメ人間の姿を描いているわけ。
彼は歴史学者ではなく、芸術家なんだから、普遍的な人間心理を描きますよ。
ダメダメというのは、時とか場所とかのテンポラリーな問題ではなく、人間の普遍的な心理の問題なんですね。だから、ちょっと見方を変えると、21世紀の日本での様相を理解するのにも役に立つわけ。
ちなみに、ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。
民主的政体は育たない。
それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。
しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。
だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?
それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。
「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。
民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。
ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。
(終了)
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発信後記
この「旅芸人の記録」という映画はDVDが出ています、注文すれば購入できます。
ヴィデオは・・・置いてあるレンタルショップは日本にそれほどないでしょうね。
10月に色々な映画を取り上げたので、11月はやめておこうかなと思っていたのですが、今回配信したのは
1. 現在のイラク情勢を考えるのに参考になる・・・イラク人が純粋に被害者なの?という疑問を持っておられる方も多いと思います。その材料になるのでは?
2. 今年のアテネオリンピックの「体たらく」ぶりについて考えて見たいと思っておられる方に材料になるのでは?
3. 11月20日から東京の渋谷の映画館でアンゲロプロス作品の集中上映があるそうなので、配信のタイミングもそれに合わせた。
そんなところです。
この文章自体は、ちょっと前から準備してあって、文章もほとんど上がっていたのですが、それに合せて?映画館で上映されるなんて・・・神の配剤ということなんでしょうねぇ。
ただこの手の「芸術的?」な映画は東京でしか見ることができないのが問題ですが・・・
R.10/11/16
https://kinoufuzenkazoku.hariko.com/04-11/04-11-12.htm
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ユリシーズの瞳、Ulysses' Gaze、Το Βλέμμα του Οδυσσέα(1995)
監督 テオ・アンゲロプロス
脚本 テオ・アンゲロプロス
撮影 ヨルゴス・アルヴァニティス 、 アンドレアス・シナノス
音楽 エレニ・カラインドルー
アメリカの映画監督A(ハーヴェイ・カイテル)が、故郷のギリシャでの回顧上映と、バルカン半島最初の映画作家マナキス兄弟についての映画を作るために帰国した。彼の作品はギリシャ正教正当派の勢力が強くなっている北部で物議をかもす。デモで騒然とする街で彼はかつての恋人らしき女(マヤ・モルゲンステルン)とすれ違う。彼はマナキス兄弟が未現像のまま遺したという幻の3巻のフィルムを探して旅に出る。
まずアルバニアに向かう彼はタクシーに、コリツァに住む妹に42年ぶりに会いに行くという老女(ドーラ・ヴォラキナ)を同乗させた。彼のタクシーはさらに旧ユーゴのマケドニアへ。その小都市モナスティルにはマナキス兄弟の博物館がある。彼はそこで職員らしい女(モルゲンステルン=二役)に、幻の3巻のフィルムのことを尋ねるが、女は答えない。首都スコピエに向かう列車の中で、彼は乗り合わせた彼女に憑かれたようにフィルムのことを語る。激しく求めあう二人。ブルガリア国境。検問を受け、下車した彼に第二次大戦中死刑になりかけたヤナキス兄弟の記憶がとりつく。二人はルーマニアの首都ブカレストに向かう。
夢うつつの彼はそこで、生まれ故郷のコスタンザからギリシャに移住するまでの辛酸を舐めた自身の少年時代の回想に入り込み、母や家族と束の間をすごす。コスタンザのホテルで夢から覚めた彼は、港で女に別れを告げる。巨大なレーニン像を乗せた艀でドナウ河を逆上り、彼の旅は続く。新ユーゴ(セルビア共和国)の首都ベオグラードでは旧友の記者ニコス(ヨルゴス・ミハラコプロス)が待っており、養老院にベオグラード映画博物館の元教授に会いに行く。教授は幻の3巻はサラエヴォのイヴォ・レヴィが現像法を研究していたが、戦争の勃発で音信不通になってしまったと語る。
サラエヴォの向かう旅で、再び彼は幻想の中に入り込む。彼は第一次大戦のさなか、ブルガリアの農婦(モルゲンステルン=三役)の小舟でエブロス川を下って彼女の家に赴く。戦争で家は焼け、女の夫は殺されていた。女は彼を全裸にして夫の服を着せると、彼と儀式のように交わる。彼は戦火のサラエヴォに着き、映画博物館の館長イヴォ・レヴィ(エルランド・ヨセフソン)に会う。戦争のため完成寸前でフィルムの現像を諦めたというレヴィに、彼は何があっても現像すべきだと言い張り、そのまま疲労で昏睡におちいる。
朝、彼はレヴィの娘ナオミ(モルゲンステルン=四役)と会う。レヴィは幻のフィルムの現像に着手、現像は成功した。二人はフィルムが乾く間、霧の日だけ戦闘がやみ、人々が束の間、思い思いに音楽や演劇を楽しむサラエヴォの街に散歩に出掛ける。公園で彼はナオミと踊り、ギリシャ語であたかも懐かしい恋人のように語り合う。
ところが川辺を散策中、先に行きすぎたレヴィの家族は兵士に捕えられる。深い霧の中、彼を残して駆けつけたレヴィともども、幼い子供たちまで射殺する銃声が響く。深い悲しみを胸に彼はひとり映画博物館の跡に戻り、レヴィが現像したフィルムを見はじめる。
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「ユリシーズの瞳」はギリシャ出身で現在アメリカに在住する映画監督という設定の主人公が、バルカン半島で最初に撮影されたと言うマナキス兄弟が撮影した「まぼろしのフィルム」を探す旅というあらすじを持つ作品です。
実は、この「ユリシーズの瞳」のDVDを見る前に、フランスの映画監督であるエリック・ロメール監督の59年の「獅子座」と言う作品のDVDを見ました。その「獅子座」のDVDにはオマケが付いていて、ロメールの司会による、ジャン・ルノアールとアンリ・ラングロアの対談が付いていました。
その対談のお題が、「人類最初の映画」と言えるルミエール兄弟による映像作品についてでした。ちなみに、ジャン・ルノアールは有名な画家のオーギュスト・ルノアールの次男であり、映画監督としてはルキノ・ヴィスコンティの師匠格に当たる人。それにロメールをはじめとしたヌーヴェル・ヴァーグの連中にも暖かい理解を示した、「大したオッサン」と言える人ですね。もちろん、映画監督としても超が付くくらいの一流。
そして、対談相手のアンリ・ラングロアは、ヌーヴェル・ヴァーグの関係者で、批評家。映像ライブラリーを設立し、映画の発展に尽力した・・・と言えるのかな?
重要なことは、アンリ・ラングロアが批評家で、ジャン・ルノアールが芸術家と言うか創作者という違いです。
そして、批評家のラングロアによる、ルミエール兄弟の映像作品への「まなざし」と、芸術家ルノアールによる、ルミエール兄弟作品への「まなざし」が全然違っているわけ。
ラングロアは、ルミエール作品を見ながら、芸術技法の発展とか、労働者などの一般人が登場するようになったとかの、いわば進歩史観。これはこの対談がなされた68年という時代が反映していると言えるでしょう。いかにも古き良きモダニズムですね。そして「さすが批評家!」と言いたくなるほど、政治的に捉えている。
それに対し、ルノアールは、全然違っているわけ。
ルノアールがこのルミエール兄弟の映像に「発見」した「まなざし」は、「純粋なる喜び」と言えるようなもの。撮影する人間が、「これって、面白いなぁ!」とウキウキして撮影している。そんな心の弾むような瞬間が映像から発見できる・・・ルノアールの主張は、こんなところです。
絵画や戯曲などの個別の表現技法が、ある種、弁証法的に「統合」されて、ルミエールの時代に映画作品として結実したと言うより、「作り手」の純粋な喜びが反映されて、これらのルミエール兄弟の映像作品になっているんだ!そんな調子です。
無垢なんて言葉が出てきたりしますが、それは無邪気とは違うわけ。純粋なる喜びなんですね。
アングロアの言うような、政治的な側面なり、表現における技法的な進歩も、ある面ではあるでしょうし、その面からの説明は、往々にして、多くの人に受け入れられやすい。だって、多くの人はルノアールが語る「純粋な喜び」なんて言われてもピンと来ませんよ。労働者階級云々とか、表現技術の発展と言った文言の方に反応するものでしょ?
だから、芸術家が、「心が弾む」ような「純粋な喜び」を元に、作品を作っても、政治的に解説されちゃったりするわけ。それにやっぱり表現技法の発展という側面は否定しがたい。以前に同じような表現があったら、同じことはしたくはないでしょ?
人と違ったことをしたい、新たな技法にチャレンジしたい・・・
その気持ちはいいとして、それが「純粋な喜び」に基づいていないと、単なる技法の問題に堕してしまうわけ。
まずは「これって面白いなぁ!」と思ったりしたのか?
そのような発見なり「まなざし」が、芸術作品の出発点なんですね。
この対談で司会をしているエリック・ロメールが、批評家ラングロアと、創作者ルノアールの「違い」を際立たせることによって、自分自身の内部で会話を行い、「自分とはどんな存在なのか?」考えているわけ。言うまでもなくロメールなどのヌーヴェル・ヴァーグの連中は、批評家から出発して、創作に向かった人たち。
この対談で言うと、ラングロアのような立場から、ルノアールへのような立場へと自分たちの「立ち位置」を移動させて行ったわけ。そして創作者ロメールの作品が、「これって面白いなぁ!」と言った新鮮な視点に満ちたものであることは、ご存知の方も多いでしょう。創作者ロメールは、むしろルミエール兄弟の精神に忠実と言えるわけです。「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と言うより、原点回帰・・・映画の始原への回帰なんですね。
ロメール司会によるこの対談が頭に入っていると、アンゲロプロス監督の「ユリシーズの瞳」と言う作品を理解するのに、実に役に立つわけ。というか、これ以上の「解説」はありえないほどですよ。
「最初の映画」という共通する題材。そして失われた「まなざし」という問題意識。そして創作の原点。
「純粋な喜び」を持って、物事を、事物を見ることが出来る人だけが、神の恩寵に預かれるわけ。面白いもので、いわゆる無神論者でも神の恩寵がこめられた文章を書くこともありますし、宗教関係者の書いたものでも、まったく神の恩寵のない文章も、多く存在するわけ。
虚心で物事を見ることができるか?
幼児のように心を虚しくできるものだけが天国に入ることができる。
そう言うことなんですね。しかし、多くの人は、虚心で物事を見ることはできない。と言うか、しようとしない。大体が「政治的なメッセージ」を受け取ろうとするわけ。あるいは、「倫理的なメッセージ」を受け取ろうとするもの。しかし、幼児が物事を政治的なり倫理的に見るでしょうか?
物事を倫理的に見るからこそ、神の恩寵から、そして天国から遠い・・・そんなものじゃないの?
虚心で見るからこそ、子供たちの楽園に入ることができるわけ。
さて、やっと、「ユリシーズの瞳」に入って行きましょう。
ここではクラシック音楽が使われているわけではありませんが、「いかにも」使いそうな「引き」があったりします。
舞台は戦火のサラエボ。濃い霧が起こって、ターゲットとなる人間が見えないので狙撃手が仕事にならない。狙撃されないので、人々は安心して外に出てくる。そうして人々が集まって音楽を演奏している・・・
セルビア人も、モスリムも、ユダヤ人も・・・
さあ!このようなシチュエーションが語られたら、次には、どんな音楽が演奏されると思いますか?たぶん、100人中、80人以上の人が考えるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ですよね?「人類よ!皆で手をつなげ!!」平和のメッセージとしては、この上ないくらいにフィットします。
もうちょっとヒネルと、何かのレクイエムとか・・・たくさんの方々がお亡くなりになったことを追悼する・・・そんな音楽だって成立するでしょう。戦火のボスニアに一時的に訪れた平和・・・それを音楽で表現するのなら、平和を歌い上げるような音楽だったり、亡くなった人を追悼するような音楽ですよね?それこそが心より平和を望む人々の心情を表現するものでしょ?
まさに「ドナ・ノビス・パーチェム」と、心から思いますよ。ただ、宗教曲だと、宗派の問題があるので、この選択は、ファースト・チョイスではない。特にボスニアでは、難しいでしょう。
戦火のボスニアを舞台にした映画はその他にもあります。
マイケル・ウィンターボトム監督の97年の「ウェルカム・トゥ・サラエボ」です。あの映画では最後にチェロの独奏があります。私はその映画を見たのですが、最後にチェロ独奏のシーンがあることを、実は忘れていました。だって、あまりにも「当たり前」ですからね。人から尋ねられたので、そう言えばそんなシーンもあったのかな?と思った程度。
そのチェロ独奏の曲目が何なのか?クラシック音楽に多少なじんでいる人なら、100人中100人が同じ選曲をするでしょう。その選曲自体は、心がこもったすばらしいものです。「カタルーニャの鳥はピース!ピース!と鳴いているんですよ!!」ですからね。
その心情は、すばらしいとしても、映画表現としては、事前に予想できてしまう。
戦争の悲惨さと、平和への願いをテーマとした映画なら、その選曲がベストでしょう。逆に言うと、そのようなオーソドックスな選曲をしなかったら、戦争とか平和と言う問題は、主なテーマでないと言えますよね?
戦火のサラエボで、濃い霧によって訪れた一時的な平和。
その時に「人類よ!皆、手をつなげ!」と言う音楽が演奏されれば、これ以上ない「平和へのメッセージ」になるでしょ?実際、このシーンでは、楽器を持った演奏者だけでなく、コーラスまで居る。
しかし、映画において演奏されるのは、ベートーヴェンの第9交響曲ではなく、エレニ・カラインドルーによるオリジナル音楽。
どうしてベートーヴェンを使わないの?
まさか第9交響曲を知らなかったの?そんなわけないでしょ?ベートーヴェンの第9交響曲なんてあまりに有名ですしね。百歩譲って監督のアンゲロプロスや脚本のトニーノ・グエッラが思いつかなくても、音楽を担当しているカランドルーだったら思いつきますよ。この「ユリシーズの瞳」という映画では、リルケの詩が引用されます。リルケを引用するくらいなんだから、ベートーヴェンだって引用できますよ。
著作権の関係なの?
しかし、ベートーヴェンの作品は著作権は切れているでしょ?
まあ、その点についてはカザルスの「鳥の歌」よりも、ラクですよ。
むしろ、様々な民族が一緒になって、演奏している。
なんてミエミエの「引き」で、観客を引っ張っておいて、カラインドルーのオリジナルですからね。
観客としては「あれっ?」と思うわけです。
戦火のボスニアにおいて、一時的に訪れた平和・・・その平和なり戦火が主なテーマではないというわけ。戦争なり平和がテーマだったら、ベートーヴェンの第9交響曲を使いますよ。
あるいは、それこそ「鳥の歌」でもいいわけ。その「鳥の歌」だったら、平和への希求という思いが強く打ち出せるでしょ?「鳥の歌」に、それらしい歌詞を乗っけて演奏してもいいのでは?平和を希求する歌詞を乗せれば、より平和への思いが表現できるでしょ?
しかし、あえてベートーヴェンを使わない・・・そして、映画において実際に引用されているのは、リルケの詩。
ここで引用されているリルケの詩は、リルケの若書きの詩。実は、最初にこの映画を劇場で見たときは、この詩が突然出てきたのには、ビックリしました。日本のマンガ家の竹宮恵子氏のマンガでも引用されていた詩なんですね。
この映画にも出てきたのかぁ・・・アンタ!よく会うねぇ・・・なんですが、結局、発想が似ている人同士は、似たり寄ったりのことをするんでしょうね。竹宮恵子さんの芸術家意識が強い人ですからね。
そのリルケの若書きの詩は、リルケの芸術家意識が横溢したもの。
終わりなき探求・・・それが芸術家の使命だ!そんな感じの詩。
つまり、この「ユリシーズの瞳」という映画は、戦争や平和をテーマとしたわけではなく、芸術家のあり方、そして、その終わりなき自己探求がテーマであるわけです。
芸術家そのもの、そして芸術作品が、本来持っている、「まなざし」。
それがどうして喪失したのか?
最初の映画である、マナキス兄弟にはあったのでは?そのような映像作品の原点を見直すことで、自分自身も見直したい。
いわば芸術家としての原点を求める旅、まさにユリシーズ(オデッセウス)の旅と同じ。これは主人公の旅であるだけでなく、ギリシャの旅であるわけ。
ギリシャは、古代のソクラテス、プラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ソフォクレス、アイスキュロス、エウリピデスなどの劇作家が活躍した古代以降は芸術家が出ていませんよね?約2000年の間いったい何をやっているの?
どうしてこうなっちゃったのでしょうか?
スペインに渡ったギリシャ人は、まさにエル・グレコという名前で歴史に名前を残しているのに?あるいは、20世紀では、アメリカにおいては映画監督のカサヴェデスや、ギリシャの血を引くマリア・カラスなんて大芸術家も誕生しています。
この「ユリシーズの瞳」では、ハーヴェイ・カイテル演じる主人公の映画監督はカサヴェデスを意識していて、当初はカサヴェデスに主演を頼もうとしたことはご存知の方も多いでしょう。外国のギリシャ人は、それなりに活躍しているわけ。
どうしてギリシャの地にいるギリシャ人は、全然ダメになっちゃったの?
これらの問題意識が、アンゲロプロスの初期の作品では主要なテーマでした。
あの有名な1975年の「旅芸人の日記」と言う作品でも、「羊飼いの娘ゴルフォ」という戯曲の上演という「芸術作品の成立」が、いつもいつも阻まれるというスタイルでしたよね?
どうして芸術が育たないのか?
そのような問題意識が反映しているわけ。
あの「旅芸人の日記」を、激動のギリシャ現代史を描く!なんてオバカな解説があったりしますが、現代史を描くのなら、もっと時系列に沿って描きますし、登場人物の名前だって現代風にしますよ。現代史ではなく、2000年に渡るギリシャの芸術不毛の歴史を描くことが主眼だったわけ。
じゃあ、どうして、かつては立派だったギリシャが、どうしようもないほどに芸術不毛の地になってしまったの?
その答えは、まさにこの映画「ユリシーズの瞳」の冒頭に引用されているプラトンの言葉が示しているでしょ?
「魂でさえも、自らを知るためには、魂を覗き込む。」
自分自身の魂を覗き込まない人が、永遠に残るような作品を生み出せるわけがないでしょ?
現在のギリシャって、そんな気概がなくなっていますよね?
「悪いのは全部○○のせいだ!」なんて、被害者意識に浸っているだけで、自分自身に厳しく接することをしない。
そんな地域では芸術なんて生まれませんよ。そんな地域って他にもあるでしょ?
たとえばイスラムとか韓国とか・・・
その手の地域って、やたら政治的なデモが盛んで、誰かを糾弾することだけに熱心。
「じゃあ、アンタはいったいどうしたいの?」なんて言われると逆上するだけ。
「自分がかわいそうな被害者だ!」と常に思いたいがために、何事も政治的に捉えてしまう。
「自分たちはダメな政治による被害者なんだ!」そう言うための理屈がほしいわけ。
しかし、それでは芸術作品なんて生まれませんよ。ギリシャやイスラムや韓国に芸術作品が生まれないのは当然なんですね。
しかし、自分の魂を覗き込むこと自体は、政治は関係ないでしょ?
それこそ最低の政治状況にあったショスタコーヴィッチだってできたわけですからね。
ただ、多くの人は、どんな作品も政治的に捉えてしまうわけ。しかし、政治なんて洞窟に映った影のようなもの。逆に言うと、移ろい行くものだからこそ、多くの人は関心を持ってしまう。まさに目移りするわけ。そして、その影が、この線のどちら側なのか?なんてツマンナイことばかりに関心を持つ。
右翼とか左翼とか、正しいとか間違っているとか・・・
しかし、所詮は影ですよ。
この「ユリシーズの瞳」の字幕を担当されている某芥川賞作家さんが、以前に「アンゲロプロスの作品は、国境の問題を身を持って体験したものでないとわからない。」なんて書いていたことがありました。いささか失笑してしまいます。そんなことを言うから芥川賞止まりなんですよ。国境も、政治体制も、人の、人の魂が作りし影のようなもの。影ではなく、人の魂そのものに真実があるわけでしょ?
たとえば、前回取り上げたショスタコーヴィッチですが、よく「スターリン体制云々」なんて言われたりしますよね?
しかし、創作者にとって重要なものはスターリンの問題よりも、そんな体制を「求めて」しまう人間たちの魂の問題。そのような精神は、たとえスターリンの問題が終了しても、次に同じようなものを求めてしまうわけ。
「悪いのは○○のせいだ!」という人は、その次には「悪いのは△△のせいだ!」と言いだして、その次には「悪いのは☆☆のせいだ!」なんて言ったりするものでしょ?
結局は、発想そのものは全然変わっていないものなんですね。
それこそ、日本でも第2次大戦前に「悪いのはアメリカやイギリスなんだ!」と大騒ぎしていた人が、後になって「悪いのは、日本の軍国主義のせいだ!」と、大騒ぎする。この2つの主張は、政治的には大きな違いがありますが、精神的には全く同じでしょ?
そして、洞察力のある芸術家が見つめるのは、変わらない精神的な面の方なんですね。
魂の真実なんて、時代によって変わるものではありませんよ。しかし、変わらないからこそ、多くの人には見えないわけ。
多くの人は洞窟に映った影しか見えないし、見ようとしない。ショスタコーヴィッチだって、スターリン云々を直接描いたわけではないんですね。スターリンのような人を「求めてしまう」多くの人々の魂を覗き込んでいるわけ。そして、「求めてしまう」魂は、いつの時代でも変わらない。
魂に真実があり、魂を覗き込む行為、見続ける精神に真実があるわけでしょ?
人類最初の映画であるルミエール兄弟の映像作品に、ルノアールが、純粋な喜びをみて、芸術創作の原点を見たように、アンゲロプロスも、バルカン半島最初の映画であるマナキス兄弟の作品を捜し求めるという行為を描くことによって、芸術創作の原点を捜し求めたわけ。それはプラトンの言う、「魂を覗き込む」行為そのものでしょ?
この「ユリシーズの瞳」においては、アンゲロプロス個人としての芸術家の原点を探求する旅という側面があり、初期の作品群で扱われたギリシャにおける芸術不毛の探求という側面もあるわけ。だから、まさに彼のその時点における集大成的な作品であって、過去に自分の映画に登場した俳優を再び登場させているわけです。
激動のバルカン半島を描くと言った、時事ネタを扱った作品ではないんですね。時事ネタや政治ネタが中心のテーマの作品だったら、ベートーヴェンの第9交響曲とか「鳥の歌」を使いますよ。
むしろ、2千年以上変わらずに続く、芸術家の自己探求がテーマとなっているわけ。「いかにも」な曲が使われていない・・・そこから見えてくる作者の意図もあるわけです。
真の芸術家は、洞窟に映った影などは、その作品のテーマにはしないもの。
事物を、「純粋な喜び」を持って見つめること。
魂を覗き込む終わりなき旅。
それこそが、芸術作品の始源となる。
それらが芸術家の原点でしょ?
そして、とりあえずの終着点とも言えるのかな?
たどり着き、また旅立つ。
純粋な矛盾も、純粋な喜びも、自分自身の魂も、薔薇の花びらのように幾重にも重なった円環の中にあり、それを求める旅は、永遠に終わることはない。それを求め続ける使命を背負っているのが、アーティストというものだ。
アンゲロプロスも、そう考えているのでは?
http://movie.geocities.jp/capelladelcardinale/new/07-08/07-08-02.htm
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極右ファシストが貧困層から支持される「フェイクファシズム」の時代
ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になった。
民主主義って本当に大丈夫なの?
【国際社会】民主主義の壊し方!ヒトラーとナチスはいかにして独裁を完成されたのか
世界史解体新書 2024/11/21
ナチスドイツの経済政策【ヒトラーはドイツ経済を救った?】~しくじり財政破綻~
ゆっくり経済史ちゃんねる 2021/02/06
ヒトラーの戦争はドイツを滅ぼしたが、経済政策はドイツを復興させた。
そう説明されることも最近、増えましたが本当でしょうか??
解説します。
ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。
彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。
ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。
彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。
当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html
ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。
ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、
ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。
ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。
そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。
ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。
そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。
こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。
その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html
【日本語字幕】ヒトラー首相就任演説 - Hitler Speech "Proclamation to the German Nation"
アドルフ・ヒトラーとナチ党はドイツの今までの内閣や大統領、君主達が得ることのできなかった大きな権力を表面上合法的に手中にした。この権力掌握の過程は大きく分けて二つの時期に分類される。ナチ党が国内有数の政党になってから、1933年1月30日にヒトラー内閣が成立するまでの期間と、政権についたヒトラーとナチ党が国内外の政敵をほぼ一掃し、立法権・行政権・司法権の三権を含むドイツ国内の権力を、党・国家そしてヒトラーが支配するまでの期間である。後者の過程は政権獲得からほぼ2年以内の短期間であった。
00:00 ゲッベルスによる前座
08:16 会場実況
12:00 ヒトラー演説
14:48 第一次世界大戦におけるドイツ国民の罪
15:22 政治の現状
17:35 マルクス主義について
19:36 ワイマール政府によるドイツの現状
24:31 ドイツ文化の衰退
25:36 ドイツの歴史教育
26:49 ワイマール政府によるドイツの経済状況
29:20 地方の財政状況
31:31 ドイツ国民への約束
33:27 自由と幸福は突然と空から降ってはこない
33:58 国民自身が国民を向上させるのだ
34:55 人生の法則と基盤
36:36 ドイツ民族復活のあり方
37:00 ドイツ国民に対する決意
38:53 偉大な帝国
39:45 ゲッベルス閉会宣言
ヒトラーのカラー写真(4K第二次世界大戦ドキュメンタリー)| ドキュメンタリー全編
オリジナルのカラー映像のみを使用したドキュメンタリーは、アドルフ・ヒトラーの権力の座から1945年のベルリン陥落までの12年間を描いています。目撃者の証言を交え、ドイツがナチス国家へと劇的に変貌する過程をたどり、ヒトラーと恋人のエヴァ・ブラウンの関係を検証し、ナチスの集会、ポーランド侵攻、ヒトラーとロイド・ジョージの会談、ブーヘンヴァルト強制収容所の惨劇、ワルシャワのユダヤ人ゲットー、イギリス空襲、ベルリン陥落など、重要な出来事を再現しています。
監督: デビッド・バティ
出演: ブライアン・コックス、アドルフ・ヒトラー、ルッツ・リーベルト
00:00 ドキュメンタリー全編
01:54 アドルフ・ヒトラーの台頭と、その統治初期のドイツに対する彼のリーダーシップの影響。
09:50 親密な瞬間や秘密の関係を通して明らかになるヒトラーの私生活と政治的野心。
16:20 ヒトラーの権力の台頭、オーストリア併合、チェコスロバキアへの侵略が第二次世界大戦へとつながる。
24:46 アドルフ・ヒトラーのポーランドへの容赦ない侵攻が第二次世界大戦の始まりのきっかけとなる。
32:23 第二次世界大戦におけるヒトラーのポーランド、フランス、イギリスへの容赦ない攻撃が、バトル・フォー・ブリテンで頂点に達する。
40:25 第二次世界大戦中のヒトラーの残忍な政権と戦略、ソ連侵攻を含む。
48:17 ヒトラー軍の容赦ない進撃が激しい抵抗に遭遇し、壊滅的なスターリングラード攻防戦で頂点に達する。
55:23 第二次世界大戦中のヒトラーの健康状態と精神状態の悪化が、必死の手段と最終的な敗北につながる。
1:03:27 ヒトラーの統治と第二次世界大戦がヨーロッパに与えた壊滅的な影響。最終的にはヒトラーの自殺と戦争の終結に至りました。
ドイツ軍の将軍たちは何故無能で覚醒剤中毒だったヒトラーを排除できなかったのか?
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/09/13/114156
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参政党ら極右の台頭/オーガニックとファシズムの歴史/参院選 「排外」報じぬ大手メディア(内田樹×尾形聡彦)【7/10(木) 19:30~ プレミア配信】
「ニュース解説ショート動画 7月15日発売『フェイクファシズム』 著者の金子勝慶大名誉教授が語る」
日刊ゲンダイ 2025/07/14
「金子勝慶大名誉教授の著書『フェイクファシズム』が7月15日に発売。SNSの短文投稿やショート動画で大量のフェイク情報を流して大衆を扇動するトランプ大統領。同じような手法は既に日本でも取られている。兵庫県知事選や財務省解体デモがそれだ。気鋭の経済学者が世界秩序の大転換を予言する」
「フェイクファシズム」【金子勝】2025年7月11日(金)【紳士交遊録】
フェイクファシズム 飲み込まれていく日本 – 2025/7/15
金子 勝 (著)
https://amzn.asia/d/ePHN8eG
経済学者・金子勝が緊急提言!
「いま、まさに50年、100年周期の大転換が来ている」
かつてヒトラーとゲッベルスは巧みなアジテーションで人々を洗脳したが、現代では人々の関心をSNSで操作する「フェイクファシズム」が台頭。
「山ほど嘘をついて陰謀論を振りまき、敵を作る」というトランプ政治の常套手段は「フェイクファシズム」そのもの。XやFacebookなどの各種SNSはファクトチェックを蔑ろにし、巨大IT産業が暴政に加担している。
「ザイム真理教」「兵庫県知事選挙」「石丸ブーム」……。翻って日本でもSNSを駆使しての大衆扇動が拡大しているが、これはトランプ政治の輸入ではない。
トランプ大統領の元側近スティーブンバノン氏が「安倍晋三はトランプ以前のトランプ(Trump before Trump)」と表現したように、安倍政策を下敷きに米国で発展したトランプ的手法を「逆輸入」したものなのだ。
これから続くフェイクファシズムの時代に、日本はどんな未来を描けばよいのか――。
アベノミクスの完全な失敗を認め、総括せよ!
第1章 トランプは世界をどう変えるのかー分断とフェイクファシズムを乗り越えてカタストロフの時代を生きるには
第2章 アベノミクスをどう終わらせるかー政治腐敗、経済破綻、フェイクの嵐を解毒する処方箋
第3章 マイナ保険証の失敗の本質ー世界に後れを取るIT産業への真の救済策とは
第4章 エネルギー転換はなぜ必要かー間違いだらけの原発政策の呪縛を解く
第5章 崩壊する農業と農村を立て直す道ー食料・農業・農村基本法の見直しは「農村破壊法」だ
日本を創りかえるための基礎政策教室が、いま開講!
「現実に絶望を感じている方々も、読んでいただければ、絶望から希望は生まれてくるのだということに気づくはずです」(本書より)
世界は極右ファシストが貧困層から支持される「フェイクファシズム」の時代に入った
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/07/12/015825