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ヨハネス・オケゲム Johannes Ockeghem(ベルギー エノー州サン=ギラン 1410年頃 - 1497)
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デュファイの次世代の超大物。デュファイの音楽を発展させたかのような新しさを響きから感じる。デュファイ同様に分かりやすくてすぐに気に入った。
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ヨハンネス・オケゲム (c.1410-1497)Johannes Ockeghem
- 生涯
1410年頃、ベルギー東フランドル付近で生まれたといわれる。 1443年から44年にかけてアントワープの大聖堂で活躍、その後40年にわたって シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世と歴代のフランス王に仕える。 1454年には首席礼拝堂司教、1465年には王室礼拝堂楽長の称号を受けた。 晩年にはトゥールのサン・マルタン修道院の財務官に任ぜられ、 1497年この地に没す。生前から「音楽の父」「オルフェウスの再来」と たたえられ、その死に際してはエラスムスやモリネたちも追悼詩を捧げている。
- 音楽史上の位置
ルネサンス時代を通してヨーロッパの音楽をリードし続けた フランドル楽派 の 最初期を飾る音楽家がオケゲムである。彼は生涯を通じて対位法的な書法を 徹底して追及し続け、ルネサンス版「フーガの技法」と呼ばれる 「ミサ・プロラツィオーヌム」など、非常に高度なポリフォニー技法を 持った曲を残している。各声部すべてが対等な扱いを受けるフランドル楽派 特有の対位法書法の基礎はまさにオケゲムによって確立されたといえる。
特定の声部が優先されることなく、それぞれの声部が独自の旋律とリズムを持ち、 それを絡ませながら歌い進めていくうちに全体のクライマックスへと導く オケゲムの手法には不思議な感動を禁じ得ない。オケゲムの手によって 音楽は各声部ごとに解体されてしまったかのような感すらある。
しかし、その後のルネサンス音楽そのものがオケゲムの方向に進んでいった わけではなかった。オケゲムが一度解体した音楽を、声部の対等性は 保ったまま再び一つにまとめ上げる 通模倣様式 と いう書法を ジョスカン・デ・プレ が 確立したからである。
この手法がその後のルネサンス音楽の主流となっていくわけであるが、 当然のことながらそれによってオケゲムの作品の価値が下がる訳では全くない。 今日でもオケゲムの作品は我々に独特の高揚感と感動を与え、 音楽の魅力の多様性をも教えてくれる。
(宮内)
http://www.mab.jpn.org/composer/ockeghem_j.html
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ヨハネス・オケゲム『ミサ・プロ・デフンクティス(死者のためのミサ曲) Missa pro defunctis』
オケゲムのミサ曲。今回は、レクイエム。デュファイもレクイエムを作曲したとされていますが、現存していません。そのため、現存する作曲者のわかっているミサ曲としては、最古のものとされています(グレゴリオ聖歌は別として)。
ただこのレクイエムは、Sanctus、Agnus Deiといった後半の部分が欠損しています。Mozartのレクイエムのように、未完成なのではないか、とも言われています。
もう一つ、考えなければいけないのは、当時の「死」「多声音楽」というのがどのようなものだったのか、ということでしょう。
死は、黒死病などの病気が流行すれば、常に隣り合わせな状態でした。症状が現れると、数日の間に死ぬ。今日元気でも、1週間後には死んでいるかもしれません。これは死生観に大きな影響があったはずです。
また多声のミサ曲は、現在でこそ「神聖」というイメージがありますが、実はそういうものとはみなされていなかったのかもしれません。その辺の俗謡やシャンソンをもとにしたミサ曲が多く作曲されたように、ある意味で遊びのような作品だった。そのため、その後の作曲家のように、死者のためにレクイエムを作曲するという動機がなかったのではないか。。むしろ、ジョスカンが作ったオケゲムを送る挽歌のように、独立したモテットの方が悲しみや弔いの意図が込められると考えられていたのではないか。。ということです。
ミサ・プロ・デフンクティス(死者のためのミサ曲) Missa pro defunctis
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15世紀の対位法を使った作品としては、最も優れた作品だとされています。
Ockeghem, Missa prolationum
Missa prolationum
The Hilliard Ensemble, Paul Hillier (bass/director)
Johannes Ockeghem - Missa Prolationum & Marian motets - The Hilliard Ensemble
Hilliard Ensemble/Paul Hillier/David James/John Potter/Mark Padmore/Gordon Jones
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☆カノンとは何ぞや?:♪ミサ・プロラツィオーヌム - ヨハネス・オケゲム
「カノン≒輪唱」だそうです...知らなかった(汗)。
ジャケットは、オケゲムの「死者のためのミサほか(2CD)」(2010年/録音:1984年、1988年)。演奏は、ポール・ヒリヤー指揮/ヒリヤード・アンサンブル。
まずはルネサンス期の作曲家ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, 1410年頃~1497年)について簡単に。彼はフランドル楽派初期の指導的な作曲家だそうで、現存する作品は少なくこのアルバムにも収められている「死者のためのミサ曲(Missa pro Defunctis)」、「ミサ・ミ・ミ(Missa Mi-mi[Presque transi])」「ミサ・プロラツィオーヌム:種々の比率のミサ曲(Missa Prolationum)」などは代表作として上げられるとのこと。
オケゲムは始めて聴く作曲家だったのでただひたすら聴いてみたのですがその中で何気に印象に残った作品が「ミサ・プロラツィオーヌム」。なので、その作品を調べていたら「比例カノンを用いた驚異的な作品...」とあって、実はそこで「カノンとは何ぞや?」となったわけですね。
以下「カノン」についてウィキペディアより抜粋。
「カノン(canon) は、複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する様式の曲を指す。ポリフォニーの一つの典型である。一般に輪唱と訳されるが、輪唱が全く同じ旋律を追唱するのに対し、カノンでは、異なる音で始まるものが含まれる。また、リズムが2倍になったり、上下または左右(時間の前後)が逆になったような特殊なものをも含む。」
「輪唱」と言えば私にはやはり「♬静かな湖畔の森の影から...」が懐かしいですが(笑)、この「ミサ・プロラツィオーヌム」は同じような旋律がわかってもなかなか「輪唱」を認識するのは難しい。やっぱり童謡の経験だけじゃ無理ですかね(汗)。とりあえず今回の音源には譜面が載っているようなので読める方は参考にしてみてください。
ちなみに「カノン」と言えば何といっても「パッヘルベルのカノン」が有名ですが、こちらは「3つの声部が全く同じ旋律を追唱し(ただし同時に終わるために最後がカットされる声部がある)それに伴奏が付けられたものである。」(ウィキペディアより)とあるように、何度か聴いて見ましたが何となく「輪唱」の雰囲気は伝わってきます。「ミサ・プロラツィオーヌム」よりは遙かにわかりやすいですね。
で、思ったのですが、この「カノン」という技法はその音楽に独特のハーモニーやある種のノリというかグルーブ感を生み出していて、その音楽を引き立てる効果があるんじゃないかなぁと。「パッヘルベルのカノン」が人気作となっているのも旋律の魅力だけではない何かがそこにあるのかもしれないですね。今回まったく初めて聴いたオケゲムの作品の中から「ミサ・プロラツィオーヌム」に魅力を感じたのももしかしたら「カノン」によるところが大きかったのかもしれません。
そんな「カノン」で作られている(らしい...汗)「ミサ・プロラツィオーヌム」、なかなか美しい作品なので一度トライしてみてくださいね!
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ヨハネス・オケゲム『ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni』
Johannes Ockeghem - Missa "Cuiusvis Toni" (excerpts - 1/4).
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https://frei-aber-einsam.hatenablog.jp/entry/2018/06/17/054944
ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, c1410 -1497)は、フランドルの作曲家。デュファイ(c1400-1474)からジョスカン(c1455-1521)の時代をまたぐ重要な作曲家である。その生涯は不明なところが多いが、c1410-1497というしばしば見かける生没年を信用すれば、常に死が隣り合わせにあった当時としては87年近くの長寿者であったということになるが、その根拠は薄い。
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ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem, 1410年頃 - 1497年2月6日)は、フランドル楽派初期の指導的な作曲家である。しばしば、デュファイとジョスカン・デ・プレの間の世代で最も重要な作曲家と看做されている。この時代の作曲家には典型的なことではあるのだが、デュファイやジョスカンなどと比べても生涯については不明な点が多く、大半の作品の作曲の背景、年代なども数曲を除いて未確認である。
生涯
オケゲムの出生地は最近の研究によって現在のベルギーのエノー州サン=ギラン(Saint-Ghislain)であることが明らかにされた。以前の伝記においては、オケゲムはブルゴーニュ公国の出身で、フランドル東部(現ベルギー領)のオケヘムかその隣町テルモンドの出身と言われてきた。幼年期については伝わっておらず、生没の日付は不明なので、ふつうは詩人クレタンCrétin が作曲家の最期に寄せたコメント(「けしからぬことだ、彼ほどの才能の作曲家が100歳にならずして世を去らねばならぬとは」)から割り出されてきた。当時の多くの作曲家のようにオケゲムも教会楽長を振り出しに音楽活動に入っており、オケゲムの名前の最初の記録は、アントウェルペンのノートルダム寺院に残されている(1443年~1444年採用)。1446年から1448年には、フランスのブルボン公シャルル1世にムーランで仕えた。1452年ごろにパリに移り、フランス宮廷楽長ならびにトゥールのサン・マルタン寺院の出納方に就任した。フランス宮廷での――シャルル7世とルイ11世への――仕官に加えて、ノートルダム寺院や聖ブノワ寺院にも職務を得た。1470年には、ギュイエンヌ公シャルル(ルイ11世の弟)からカスティーリャ王女イサベルへの求婚の意を託されて、イベリア半島を訪れた。ルイ11世が1483年に没してからは、オケゲムの所在は不明になるが、それでもブルッヘやトゥールを訪ねており、後者で遺言を残していることからすると、おそらくその地で没したのだろう。生前から「我等の良き父」と人々の尊敬と信頼を勝ち得ていたオケゲムの死は多くの人々を悲観させた。その証拠に当時の多くの著名な作曲家たちが、哀悼歌をオケゲムにささげている。
オケゲムはバンショワに師事したようだが、ブルゴーニュでの両者のつながりは、まさに取るに足りないものだった。アントワーヌ・ビュノワが1467年より前に、オケゲムを称えるモテットを作曲しているので、もしかするとこの両者に面識があったのかもしれない。オケゲムの作曲様式は、旧世代のそれとはかなりかけ離れているものの、作曲技法の根本を旧世代に負っているかもしれず、そうだとすればオケゲムは、ブルゴーニュ楽派と、次世代のネーデルランド楽派、例えばヤーコプ・オブレヒトやジョスカンとを直接に橋渡しした存在であると見なせよう。
作品
現存する作品はごくわずかで、14のミサ曲、レクィエム、9つのモテット、バンショワ追悼のシャンソン・モテット、21のシャンソンだけである。オケゲムのミサ曲のうち13曲は、15世紀後期の筆写譜集「キージ写本Chigi codex」によって伝承されている。《死者のためのミサ曲 Missa pro Defunctis》は、現存する最古のポリフォニックなレクィエムである。ごくわずかの現存する作品に加えて、いくつか偽作もまじっている。例えば、技巧を凝らした謎の力作、36声部のための《デオ・グラティアス(主に感謝せよ) Deo gratias 》は、他人による作品の見込みが極めて高いが、真相はやぶの中である。シャンソンやモテットのうち、原典においては作者が記名されていないものの、作曲様式の観点からオケゲム作といわれてきたものが数曲ある。
ジョスカン・デ・プレに強い影響を与えたように、オケゲムは表情豊かな音楽と作曲技法の熟練によって、ヨーロッパ全土で有名だった。その辣腕ぶりは、比例カノンを用いた驚異的な《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率のミサ曲)Missa Prolationum》においてとりわけ一目瞭然である。また、《ミサ・クィユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)Missa cuiusvis toni》はありとあらゆる旋法で演奏することができる。だがこれらの傑作を生み出させた作曲技法は、声域についての洞察力や、他の追随を許さない表現力に富んだ音楽言語を物語っているのである。オケゲム自身が著名なバス歌手だったことから、オケゲムのバスの旋律線は確かに込み入っている。これこそが、オケゲムが他のフランドル楽派の作曲家と一線を画する点であろう。
ジョスカン・デプレはジャン・モリネの詩「森の精霊たちよ Nimphes des bois」によって、《オケゲム追悼の哀歌 La déploration de la mort de Johannes Ockeghem》を作曲した。
ミサ曲/断章
- "Missa Au teavail suis" 《ミサ・オー・トラヴァイユ・シュイ(ミサ曲「私が悩んでいる事を」)》
- "Missa Caput" 《ミサ・カプト》
- "Missa cuiusvis toni 《ミサ・クユスヴィス・トニ(任意の旋法によるミサ曲)》
- "Missa De plus en plus" 《ミサ・ド・プリュ・ザン・プリュ(ミサ曲「だんだんと」)》
- "Missa Ecce ancilla Domini" 《ミサ・エッチェ・アンチルラ・ドミニ(ミサ曲「われは主のはしためなり」)》
- "Missa Fors seulement" 《ミサ・フォール・スルマン(ミサ曲「今はもう、ただ死を心待ちに」)》
- "Missa L'homme armé" 《ミサ・ロム・アルメ(ミサ曲「武装した人」)》
- "Missa Ma Maistresse" 《ミサ・マ・メストレス》
- "Missa Mi-mi"("Presque transi") 《ミサ・ミ・ミ》(プレスク・トランジ)
- "Missa prolationum" 《ミサ・プロラツィオーヌム(種々の比率によるミサ曲)》
- "Missa pro defunctis" 《ミサ・プロ・デフンクティス(死者のためのミサ曲)》
- "Missa quinti toni" 《ミサ・クインティ・トニ(第5旋法によるミサ曲)》
- "Missa sine nomine" I (a3) 《ミサ・シネ・ノミネ,第1番(3声)》
- "Missa sine nomine" II (a5) 《ミサ・シネ・ノミネ,第2番(5声)》
- "Credo sine nomine" ("De Village") 《クレド・シネ・ノミネ》(ド・ヴィレジ)
モテット
- "Alma Redemptoris mater"
- "Ave Maria"
- "Intemerata Dei mater"
- "Salve regina" I
- "Salve regina" II(偽作?)
- "Ut heremita solus"
世俗歌曲
- ロンドー "Aultre Vénus estes sans faille"
- ロンドー "Au travail suis"
- ロンドー "D'un aultre amer"
- ロンドー "Fors seulement I'acftente"
- ヴィルレー Ma bouche rit
- モテット "Mort tu as navré de ton dart"
- バッラータ "O rosa bella"
- ロンドー "Prenez sur moy vostre exemple amoureux"
- ヴィルレー "Presque transi"
- ロンドー "S'elle m'amera je ne sçay / Petite Camusette"
- ヴィルレー "Tant fuz gentement resjouy"
フランドル楽派は、15世紀後半から16世紀、フランドルを中心に活躍したルネサンス音楽を代表する作曲家達である。15世紀中頃にルネサンス音楽を開拓したブルゴーニュ楽派と合わせて、かつてはネーデルランド楽派と呼ばれていた。
15世紀のデュファイに始まるブルゴーニュ楽派を引き継ぎ、16世紀中期になるとフランドルだけでなくイタリアを始めヨーロッパ全体で支配的な地位を占めるようになった。つまり、フランドル楽派の様式は、ヨーロッパ全体に普遍的な様式となり、それが次のバロック音楽を準備した。ヨハネス・オケゲム(1430頃 - 1495)、ヤーコプ・オブレヒト(1450頃 - 1505)、ジョスカン・デ・プレ(1455頃 - 1521)、ハインリヒ・イザーク(1450頃 - 1517)、ピエール・ド・ラ=リュー(1460頃 - 1518)がフランドルを中心に活躍した。後期になると、ニコラ・ゴンベール(1495頃 - 1560)、クレメンス・ノン・パパ(1510頃 - 1556)、アドリアン・ヴィラールト(1480頃 - 1562)、ジャック・アルカデルト(1514頃 - 1562)、チプリアーノ・デ・ローレ(1516 - 1565)、オルランド・ディ・ラッソ(1532頃 - 1594)らが活躍した。フランドル生まれのアドリアン・ヴィラールトは、イタリアでヴェネツィア楽派を創立し、17世紀になってバロック音楽を開拓したモンテヴェルディにつながる。
その音楽技法は、それぞれの声部が対等の価値をもちお互いに旋律要素を模倣しあいながら展開していく通模倣様式が用いられた。和声では、デュファイらのブルゴーニュ楽派が3声での書法が中心だったが、フランドル楽派は4声のポリフォニーによる楽曲を作った。ミサ、モテット、シャンソンが主な作品であるが、とりわけオケゲム、ジョスカン・デ・プレ、ラッソによるミサ曲はこの時代を代表する音楽作品となっている。15世紀は厳格なカノン的書法が優勢だが、16世紀にはこの傾向は廃れて、自由な模倣形式へと進化した。
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バロック音楽名曲集
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