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大東亜戦争の背景 _ 日本陸軍が共産革命を起こさない様に、八百長戦争をして米軍に日本を占領してもらった。
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/08/11/003541
太平洋戦争で実は485機ものB-29が失われていた!3,041名の搭乗員が犠牲に。
タイムトラベラー 2025/07/13
太平洋戦争で実は485機ものB-29が失われていた!3,041名の搭乗員が犠牲に。
「無敵」と呼ばれたB-29爆撃機の知られざる真実に迫る衝撃の歴史ドキュメンタリー。太平洋戦争中、実は485機ものB-29が喪失され、3,041名の搭乗員が犠牲となっていた事実をご存知ですか?
教科書では語られない、日本軍の予想外の健闘と、命がけで祖国を守った先人たちの勇気に満ちた戦いの記録。
八幡製鉄所初空襲から東京大空襲まで、米軍公式記録と日本側証言で明かされる驚愕の真実をお伝えします。
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神風特攻を描いた映画 山崎貴『永遠の0』(東宝 2013年)
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/09/112815
《永遠的0》-永遠の0 最後一段
【永遠の0】最後に主人公が笑った理由【岡田斗司夫 切り抜き】
【目次】
00:00 映画版「永遠の0」
00:36 飛行技術説明
01:25 ゾクゾクしたシーン
02:23 主人公の覚悟
02:51 山崎監督の撮影技法
03:42 東洋の”縁”に近い人生観
04:41 ラストの主人公が笑う理由
05:33 男として
05:55 百田さんの原作では描けない理由
【すごい日本人】零戦・神風特別攻撃隊【永遠の0】宮部久蔵のモデル、富安俊助の見事な最期!遺書に認められた決意とは!
映画『永遠の0』のラストシーン。零戦を操るパイロット・宮部久蔵は特攻隊として出撃します。これは実在した零戦搭乗員がモデルとなっていると言われています。その男の名は富安俊助。富安中尉は、日本軍を苦しめた米空母エンタープライズをたった一人で大破炎上させました。今回はその栄誉ある活躍を紹介したいと思います。
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映画 山崎貴『ゴジラ-1.0』(東宝 2023)
https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/09/140730
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日本の軍歌は世界で断然 NO.1、日本人には軍人が一番似合っている
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同期の桜 作詞 西條八十 作曲:大村能章 リリース 昭和14年(1939年)
鶴田浩二『同期の桜』 台詞入り 大空に散った英霊へ
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟
みごと散りましょ 国のため
貴様と俺とは 同期の桜
同じ兵学校の 庭に咲く
血肉分けたる 仲ではないが
なぜか気が合うて 別れられぬ
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
仰いだ夕焼け 南の空に
未だ還らぬ 一番機
貴様と俺とは 同期の桜
同じ航空隊の 庭に咲く
あれほど誓った その日も待たず
なぜに死んだか 散ったのか
貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう
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【東京大空襲】わかりやすく解説!残虐な無差別爆撃はなぜ起きた?アメリカの驚愕の言い訳とは?
2021/03/20
75年前、東京は一面焼け野原になりました。
なぜここまで徹底的に爆撃を受けたのか?
民間人への無差別爆撃はなぜ起こってしまったのか?
驚愕のアメリカの言い訳とは?
東京大空襲が分かれば、戦争の悲惨さが見えてくる!
禁じられた撮影…B29捉えた新映像をAIでカラー化“日本人が見た”太田大空襲【報道ステーション】(2024年8月16日)
2024/08/17
79年前の1945年は、アメリカ軍による日本への本土空襲が本格化した年です。当時の空襲を撮影した映像が、去年、群馬県で見つかりました。そこには映っていたのは“当時の日本人が見たリアルな空襲の光景”でした。
■終戦期…B29捉えた新映像
街に落とされる無数の爆弾。無差別に行われる機銃掃射。戦争末期、空襲は本格化していきました。私たちがこれまで目にしてきた空襲の映像は、アメリカ軍が上空から撮影したものがほとんど。当時、日本の上空を飛ぶ飛行機は軍事機密とされ、撮影は許されていなかったからです。
しかし去年、日本側から撮影された1本の貴重なフィルムが群馬県で見つかりました。収められていたのは、海軍が極秘裏に開発していた航空機の姿でした。
群馬県にあった中島飛行機。その工場で作られていた“幻の攻撃機”『連山』。中島飛行機の写真班が撮影した初飛行の記録でした。約6分半で映像は終わります。しかし、映像には続きがありました。
「B29 群馬地区来襲 昭和20年2月10日」
フィルムの残り1分30秒に映っていた映像。黒い画面の右から左に動くいくつもの小さな白い機影。B29です。世に言う『太田大空襲』。84機ものB29の襲来でした。
■地上から見た“空襲のリアル”
空襲を経験した、茂木晃さん(87)。映像を見て当時の光景を思い出しました。
茂木晃さん
「こんな感じですね」
この時、B29は太田市の遥か上空を飛行。地上からは“小さな白い影”として見えていました。
茂木晃さん
「オルガンのいくつかの鍵を一緒に弾いたような、ガンガンガン…。そういう音がだんだん来て。B29が来て本当はおっかないんですよ。だけど『どういうものなんだ』って防空壕から首を出して。怒られながらね、見たんですよ」
当時、太田市の人々が見たリアル。上空からの映像では分からなかった、地上から見た空の光景だったのです。
映像には続きがあります。少し大きく映るのは迎え撃つ日本軍機。そして、落ちていくB29とみられる姿も映っていました。さらに、逃げる人々の姿も残されていました。防空頭巾をかぶり、同じ方向に向かい歩く人々。
■「命がけで逃げた」空襲の恐怖
中庭和夫さん(95)
「全然、余裕がない。命懸けだもん」
当時、中島飛行機で働いていた、中庭和夫さん。
中庭和夫さん
「空襲を受けて夕方家に帰る時のね。血だらけになってる人に、亡くなっちゃってる人にね。声は出さなかったけど、泣きながら出てきた。ひどかった」
太田市では、初めての空襲で160人以上が犠牲になりました。
しかし、なぜ禁じられていたはずの映像は撮影されたのか。日本近代史が専門の、土田教授はこう推察します。
聖心女子大学 土田宏成教授
「記録をしておかなければいけないんだっていうことを、使命感をもって撮ったんだろうと。警戒警報が出ていて空襲がくるということを、ある程度予測して、そのためにカメラ等の準備もしていたのでは」
■“記憶の寿命を延ばす”AI技術でカラー化
映像が記録していた“戦争の記憶”。近年、重要性が再び注目されています。
東京大学大学院の渡邉教授らは、モノクロ写真のカラー化に取り組んでいます。
東京大学大学院 渡邉英徳教授
「実際にカラーにしてみると、急に僕らが普段見ている日常の風景と変わらないなかに、戦争が起きていたんだっていうことが感じやすくなる」
これまでにも沖縄戦や広島・長崎の原爆の写真などをカラー化してきた渡邉教授。今回見つかった映像のカラー化をお願いしました。
AIで色付けしたものに、史料や証言から得た情報を反映させ、補正を行っていきます。蘇った“抜けるような青空”。これは空襲の日の空を「視界良好」としたアメリカ軍の記録と一致します。
戦後79年。“戦争記録の継承”が課題となる今、最新技術の活用がカギになると、渡邉教授は考えています。
東京大学大学院 渡邉英徳教授
「様々な新しい再活用の方法が登場してくるはず。どんどん貪欲に取り入れて、未来を生きる人たちのために、新しい形で表現し直すっていうことが大事かもしれない。写真や映像に込められている記憶を、技術で寿命を延ばすことはできる」
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東京大空襲成功の影の功労者
1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……
東京大空襲 昭和20年3月10日 史上最大の虐殺
米軍は次のような計画をたて無差別虐殺を実行したのです。
① ドイツの空爆で実績を上げたカーチス・ルメイ少将を東京空襲の責任者に任命。
② 日本の家屋が木と紙でできていることに注目して、日本本土空襲専用の焼夷弾を開発。
③ テキサスの砂漠に日本の家屋を建ててその焼夷弾の効果を 確認。
④ 江戸時代の大火が春先の強風が吹く時期に集中しているというデータに基づき大空襲決行日を陸軍記念日の3月10日にした。
⑤ 最初に空爆目標地の外周隅田川や荒川の堤防沿いに焼夷弾を落として炎の壁を作り人々の退路を絶つ
⑥ そして300機以上のB29で地上を嘗め尽くすように焼夷弾を落とす。(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)
⑦ 焼夷弾の命中精度を上げるため低空飛行を行う(暗闇の攻撃だったため、まさかB29が低空飛行で来るとは気付かず日 本軍の高射砲はB29のはるか上で炸裂したのでした)
犠牲者
縁者が引き取った遺体 約20,000人
無縁仏・行方不明者 約88,000人
10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。
すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?
1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……
米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。
そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。参謀としては、状況がはっきりしないうちに、しかも深夜に空襲警報を発令すれば、天皇陛下は地下の防空壕に非難しなければならなくなるし、社会の機能はその間に麻痺することになるだろうとの、配慮があったのだと思う。
そのうち敵機が下町に焼夷弾を投下したとの情報が入ってきた。この時、始めて空襲警報が発令された。3月10日の空襲警報が、空襲が始まってから発令されたのはこのような経緯があったからである。
当時、東部軍司令部所属、陸軍中尉藤井恒男さんの証言だ。(78年3月9日放送「NHK特集 東京大空襲」より)
「屋上から肉眼監視が刻々と状況を伝えてきますけど、とにかく、火の海であると。それで、僕は上へ上がってみました。そしたら、それはとてつもない火でしたね。すぐ下へ降りてきて、一戸という参謀に〝参謀、屋上からいちどご覧になってください〟そうしたら参謀も〝そうか、藤井、そんなに酷いか〟と、それで屋上に上がって、燃え盛る火の海を見て戻ってくると、一戸参謀は、机の上に両手で頭を抱えてうつ伏して涙を流しておられましたね。そりゃ想像はつきます、現場に行かなくても。どういう惨状があそこで起きているかということを」
1945年3月11日「東京大空襲」のあの日、日本の大元帥もお休みになられていた……
10万人もの都民が米軍(中国でもソ連でもない)によって焼き殺されたあの晩。なぜか、空襲警報は、その日に限って「空爆開始後」に出された。
すでに被害が甚大となった午前0時15分にやっと警報が発令されたのだ。昭和20年3月10日の東部軍司令部で何が起きていたのか?
米国戦略爆撃調査団が戦後おこなった調査によれば、東京の消火体制は、第1弾投下後30分を経ずして壊滅していた……。さらに空襲は、その後も続き、最後のB29が立ち去ったのは、その1時間後の2時32分であった。
そのうち情報板の赤い豆ランプは、あちこちで点滅をしだし、次第に状況判断が不可能になりだした。私は参謀に「空襲警報を発令すべきだ」と進言したが、参謀は空襲警報を発令しなかった。
天皇が休まれておられるのを起こすのはできなかった……。そして、臣民に「空襲警報」は発令されず、被害は甚大となった。
カーチス・ルメイ将軍が、戦略爆撃という軍事思想を作った人物で、自ら、対ドイツ爆撃(ドレスデン爆撃その他)や、日本各都市の大空襲の戦略を組んで、実行した人だ。敵国を、民間人(非戦闘員)もろもとも焼き殺して火の海にして、焼け野が原にした。
このルメイの焦土化作戦は、東京大空襲をはじめ大成功をおさめた。日本側は都市の軍需工場、民間住宅問わず、全てまとめて徹底的に焼き払われ壊滅的な打撃を受ける。焦土化作戦は東京・大阪等の大都市を焼き払った後は、地方の中小都市までが対象となった。これらの空襲は日本国民を震え上がらせ、日本側から「鬼畜ルメイ」と渾名された。
カーチス・E・ルメイ将軍は、グアム島在米爆撃隊司令として、広島・長崎に投下された原子爆弾にも深く係っていた。 広島、長崎の原爆投下もルメイ戦略である.
それに対して天皇は、「勲一等旭日章受勲」で報いた.
参議院議員で元航空幕僚長の源田実(ミッドウェイでアメリカを勝たせる為の戦略を立て,日本海軍を崩壊させるのに大きな貢献をしたそうです)もルメイの東京大空襲の大成功を非常に高く評価し,勲章授与に尽力した.
http://anarchist.seesaa.net/article/35751184.html
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故鬼塚英昭 氏 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
2017/07/18
戦争はすべて八百長(00:38:51)
熊毛郡田布施町 (00:00:21)
大室寅之佑 (00:03:48)
明治天皇の秘密 (00:03:55)
殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。(00:13:26)
秦郁彦(いくひこ)(00:13:40)
仕組まれた戦争 (00:15:35)
皇室スキャンダル (00:18:21)
大正天皇には、子種がない(00:18:39)
西園寺八郎 (00:19:26)
昭和天皇の秘密 (00:21:34)
昭和天皇の父親は、西園寺八郎 (00:22:01)
死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた (00:22:23)
住友と天皇家は、血族 (00:23:04)
秩父宮は、東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)の子供 (00:23:29)
天皇のための戦争(00:25:02)
戦争というものは、必ずどこかで企みがあるものなんです (00:25:04)
昭和天皇だけが、日本のストーリを全部知っていた (0:26:01)
真珠湾攻撃も大事なところで手をぬく (00:26:28)
海軍は、2年分しか石油をもってない(00:27:24)
パナマ国籍の船ならば、攻撃できない (00:28:34)
天皇が内通していた(00:31:38)
スターリンに発したい情報をつたえる (00:32:45)
天皇一族は、ゾルゲを野放しにする (00:33:15)
終戦工作と白州次郎 (00:33:39)
ヨハンセングループ (00:34:17)
日本の最高機密が、翌日には電報で全部流れていく (00:35:16)
日本は戦争をするように仕組まれていたと考えると全て矛盾がなく納得ができるんです。 (00:35:30)
弟の公一に機密情報を流してソビエトに渡せと、ソビエトを安心させて南方政策を取る訳です。 (00:35:45)
火事場泥棒なんです。(00:36:15)
こじつけ無罪論(00:36:19)
明治天皇作とされる歌の真意 (00:37:05)
第二次世界大戦の総括をやっている(00:38:21)
戦争はすべて八百長(00:38:51)
戦争は継続しなければいけない (00:40:48)
天皇が被爆に加担した(00:42:23)
白洲次郎の秘密(00:44:17)
吉田茂の秘密(00:46:20)
こころの痛みを感じない者が日本のリーダーになる これを正さなければ未来はない(00:49:21)
キッシンジャーと中曽根(00:57:00)
使い捨て人形(コンプラドール)からの反乱(01:08:35)
鬼塚英昭 日本の真相 天皇のための戦争・天皇は内通していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/761.ht
明治維新と太平洋戦争の真相
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/390.html
みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660
ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
原爆投下が日本を救った_ ユダヤ人とトルーマンと昭和天皇に感謝
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/327.html
昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=NQhVOTS0j7A
昭和天皇の戦争犯罪問題が再燃すると困るから天皇一族は靖国神社に参拝できなくなった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/128.html
【昭和天皇】太平洋戦争との関わりは?意外なエピソード?その功績と罪を紐解く
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14150098
ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html
明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として 動いてきた。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058621
漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198
君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html
昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html
戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016765
太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737
昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html
鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501
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東京大空襲で10万人の死者、「3・10」を忘れるな
佐藤 けんいち 2020/03/10
自然災害か人災かにかかわらず、大事件を発生した月日の数字で表すことがある。2001年の米国の同時多発テロ事件「9・11」や、2011年の東日本大震災と原発事故の「3・11」がその代表であろう。
まもなく、また「3・11」を迎えることになる。東日本大震災と福島原発事故からまもなく9年になるのである。月日がたつのは早いものだ。猛威を振るっている新型コロナウイルス関連の記事や番組があふれている現在どうしても隠れがちだが、福島の復興の状況が気になるところだ。
だが、本日3月10日にも大量に死者がでた大事件があったことにも注目してほしい。ここでは「3・10」と名付けておくが、「3・11」だけでなく、「3・10」についても考えてほしいと思うのである。いや、この2つの出来事は一緒に考えるべきものかもしれない。日本の弱みや問題点が集約的にあらわれているからだ。
狙われた東京下町、2時間の空襲で死者10万人
3・10とは、東京大空襲のことである。1945年(昭和20年)3月10日、大東亜戦争末期の帝都東京に対して行われた、米軍の大規模空爆による大被害のことである。夜間の超低空から実行された、焼夷弾による都市攻撃である。攻撃を行ったのはマリアナ基地から発進したB29であった。
死者はなんと10万人超、負傷者は4万~11万人、被災者全体で100万人超となった。しかも空襲が行われたのは、3月10日の午前0時8分から、空襲警報が解除された午前2時37分までの約2時間たらずのことだった。まったくの深夜のことであった。
空襲が集中したのは東京の下町である。山の手ではない。米軍は、最初から意図的に東京下町の住宅密集地帯を狙って実行したのである。
焼夷弾は破壊を目的としていないので爆発はしないが、充填されているナパームなどの焼夷剤が燃焼して攻撃対象を焼き払うことを目的としている。木造建築が圧倒的であった当時の民家に焼夷弾が被弾すると、一気に火が拡がって投下された地帯が焼け野原になってしまったのである。
逃げ遅れて焼け焦げになって転がる死体、逃げた先の河川で山のように積み重なった死体。大空襲後の東京下町がどんな状態であったかは、自身が12歳の時に大空襲を体験した被災者であり、大空襲の語り部である作家・早乙女勝元氏の編著による『写真版 東京大空襲の記録』(新潮文庫、1987)をみてほしい。あまりにも悲惨な光景に、目を背けたくなるのではないだろうか。モノクロ写真だから耐えられるが、これがカラーだったらどうだろうか。直接体験した人たちにとってトラウマとなったであろうことは、容易に想像できる。
3月10日未明、空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出所:日本写真公社・深尾晃三 - 早乙女勝元監修『決定版 東京空襲写真集 アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録』勉誠出版)© JBpress 提供 3月10日未明、空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(出所:日本写真公社・深尾晃三 - 早乙女勝元監修『決定版 東京空襲写真集 アメリカ軍の無差別爆撃による被害記録』勉誠出版)
東京に対する空襲は130回に及んでいるが、そのうち9割の被害が3月10日の大空襲に集中している。しかも、わすか2時間の空襲で死者10万人の大被害となったのである。
その理由について、上掲書で早乙女氏は4つ指摘している。第1に、下町が住宅密集地帯であっただけでなく、多数の河川や水路があることが避難の妨げになったのである。橋が焼かれてしまうと移動できなくなるのだ。
第2に当日の気象状況の影響があるという。風速7.9~12.7メートルの強風が、火災の被害を大きくしたのである。強風にあおられた大火災が火炎旋風となって町を焼き尽くしたのだ。関東大震災や阪神大震災とおなじような状況となっていたのである。
第3に住民の防空観念として、逃げずに消火しなくてはいけないという意識があったことが指摘されている。しかも、当時の「防空法」第8条には、自宅から無断で退去することも避難することも禁止されていたのである。違反すると1年以下の懲役または罰金刑が規定されていた。恐るべきことではないか。
そして第4に防衛当局のミスにより、空襲警報が発令されたのは空襲開始の午前0時8分から7分遅れた0時15分だった。この7分差が多くの人の生死を分けた決定的な時間となった。被災地の生存者で、空襲警報発令を記憶している人は、ほとんど皆無だったという。
さらに問題なのは、なぜ空襲警報発令をためらったかというと、B29の襲来が真夜中のことであり、防空当局は軍を守ることしか念頭になく、真夜中に天皇陛下を防空壕に避難させることを避けたかったからだという参謀の証言もあるそうだ。
国民がまったく視野になかったという点に関しては、敗戦による満洲崩壊時の棄民状態とまったく同じである。この期に及んでも、国民の生命を犠牲にしながら戦争を止めようとしなかったのだ。
原爆に匹敵する空襲の被害
広島や長崎の原爆投下については、日本国内だけでなく国際的に注目されている。昨年2019年11月には、ローマ教皇フランシスコ1世が訪問したばかりだ(参考:「いよいよローマ教皇来日、フランシスコはどんな人?」)。だが、東京大空襲は、そのほか地方都市に対して行われた空襲も含めて、日本国内でもあまり取り上げられることはない。東京大空襲だけについても、被災地となった下町と、おなじ東京であっても山の手では認識に大きな違いがあるようだ。
5年前のことになるが、英国のThe Economist誌の記事で知った事実は、その意味ではショッキングなものがあった。それは "Japan and the past: Undigested history" (2015年3月7日)という記事だ(日本語タイトル:「日本とその消化されざる過去の歴史」)。
先にも名前を出した早乙女勝元氏のインタビューから書き起こされたこの記事によれば、東京以外の地方都市の被害も含めると、大東亜戦争での日本の犠牲者は空襲による死者だけで30万人を超える。さらに広島の原爆投下で14万人、長崎の原爆投下で7.4万人が犠牲者となっている。記事に掲載された図表(下記参照)をみると、日本の被った空爆の被害が、群を抜いて異常なまでに大きなものであったことがわかる。
「第2次世界大戦における主要な空爆作戦」(selected bombing campaign of WW2)(「The Economist」より)© JBpress 提供「第2次世界大戦における主要な空爆作戦」(selected bombing campaign of WW2)(「The Economist」より)
いまだに非人道的であったと反発の声があがるのが、米英連合軍によってドイツに対して実行された「ドレスデン大爆撃」(1945年2月13~15日)である。だが、それですら死者は1.8万人なのである。「バトル・オブ・ブリテン」(1940年9月~1941年5月)におけるドイツ空軍による数回にわたるロンドン空爆と同規模である。ロンドン空爆による民間人の死者は約2万人だ。
東京大空襲は、ドレスデン大爆撃の5倍以上の死者を出しているのだ! にもかかわらず、東京大空襲が日本国内では大きな話題になることはなく、そのための公式の慰霊碑すらないという事実に The Economist誌は注意を喚起している。この事実は日本人としては重く受け止める必要があるのではないか。
しかも、東京大空襲を含めた空襲による日本人の被害は総計30万人であり、広島と長崎の原爆被害のそれぞれより多いだけでなく、広島と長崎をあわせた原爆死者(約21.4万人)よりも多いのだ。
もちろん、原子爆弾と焼夷弾とでは被害の性格が異なる。原爆の場合は被爆による後遺症のため、戦後しばらくたってからも亡くなる方も少なくないという大きな違いもある。だが、空襲による犠牲者の圧倒的多数が非戦闘員のシビリアン、すなわち民間人であったことに変わりはない。戦闘員と非戦闘員の区別なく犠牲となったという点において「無差別殺戮」であったといって過言ではない。この事実をしっかりと認識することが重要だ。この認識があってはじめて、現在なおシリアなどで続いている空爆の非人道性を認識することができるのである。
国民のことを考えていた軍人もいた
バトル・オブ・ブリテンのロンドン空爆から学んだ教訓が、日本の防空に一部なりとも活かされた事実があったことを記しておくべきだろう。
軍を守ることが防空の中心だったと記したが、例外があったのだ。それは「学童疎開」である。日本の将来を担う若者たちを空襲被害から守るため、学童を都会から地方に疎開させたことは、戦後復興期の日本にとっては不幸中の幸いであった。
学童疎開の計画立案と実行にあたったのは、辰巳栄一陸軍中将である。新憲法策定にも関与した民間経済人の白洲次郎とともに、吉田茂にとって懐刀であった「影の参謀」だ。『歴史に消えた参謀-吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』(湯浅博、産経新聞出版、2011)でその生涯をたどることができる。
辰巳中将は、駐在武官としてロンドンに3回滞在している異例のキャリアの持ち主であった。3度目のロンドン駐在で体験した「バトル・オブ・ブリテン」の経験が、日英開戦にともなう交換船で1942年7月に日本帰国後、東部軍参謀長として本土空襲防衛と学童疎開を推進する役割を演じることになったのであった。先見の明の持ち主であったといえよう。陸軍にもこんな人物がいたことは、記憶しておかねばならない。
非情なまでに組織的かつ徹底的だった米国
攻撃される側から見た「空襲」は、攻撃する側から見たら「空爆」となる。空爆した米国側から見た「東京大空襲」について考えてみることも必要だろう。
米国は、組織的かつ徹底的に空爆を計画し、実行したのである。この事実を抑えておく必要がある。日本の戦意をくじくため、民間人に対する違法な爆撃作戦を遂行したのである。原爆だけではなく、空爆においても徹底的に研究を行っていた。
米軍が上空から撮影した「東京大空襲」直後の東京(出所:Wikipedia)© JBpress 提供米軍が上空から撮影した「東京大空襲」直後の東京(出所:Wikipedia)
効果的かつ効率的な成果をあげるために採用したのが焼夷弾であった。これは当時の日本家屋の特性を踏まえたものである。民間人の一般住宅は、火がつけば、あっという間に炎上してしまう木造平屋建てが大半を占めていたのである。東京下町の住宅密集地帯を狙ったのは意図的で、米軍はそのためのシミュレーションと訓練を念入りに行っていた。
米軍の戦略爆撃の成果を示した報告書より。濃い部分が東京下町(出所:Wikipedia)© JBpress 提供米軍の戦略爆撃の成果を示した報告書より。濃い部分が東京下町(出所:Wikipedia)
焼夷弾攻撃の実験が行われたのは、アリゾナ州の砂漠にある米軍の実験場においてであった。木造で燃えやすい日本家屋の実物大の模型を作製し、焼夷弾実験を繰り返して、詳細なデータを収集し解析を行っていたという。その成果を踏まえて実行されたのがB29による東京空襲作戦なのである。ちなみに原爆実験が行われていたのはニューメキシコ州である。
そしてその日本家屋の模型建設にかかわっていたのが、戦前と戦後の日本で洋風建築普及に大きな貢献をしたアントニン・レーモンドという、チェコ出身で米国に帰化した建築家であった。
帝国ホテルを設計した建築家フランク・ロイド・ライトの弟子として初来日したレーモンドは、米国の軍籍をもつインテリジェンス・エージェントでもあったのだ。この事実は、『ワシントン・ハイツ-GHQが東京に刻んだ戦後-』(秋尾沙戸子、新潮文庫、2011)で明らかにされている。
米国は総力をあげて戦争に取り組んでいたのである。モノ・カネといった物量だけが日本に勝っていたのではない。ヒトもまた総動員されて徹底的に活用され、もてる知力の限りを尽くして戦争遂行に貢献していたのである。ベトナム戦争を指導したマクナマラ国防長官は、第2次世界大戦では陸軍航空部隊の統計管理局に所属し、戦略爆撃を効果的かつ効率的に行うための解析作業を行い、B29の大量投入を実現させている。
非情なまでに組織的かつ徹底的な米国に対して、やることなすことすべてが場当たり的な日本。第2次世界大戦で顕在化したこの対比は、現在またふたたび繰り返されている。中国の武漢で発生した新型コロナウイルスの対応にも、まったくおなじ構図を見いだしてしまうのは、私だけではないと思う。
敗戦国に生まれた日本人として、私もまた米国に対しては複雑な感情を抱く者であるが、有事の際に顕在化する日米の大きな違いについては、ため息をつきながらも認めざるを得ないのである。
3・10について知らなかった大学生
3・10については、意外と知られていないのが実情だろう。何を隠そう、いまこのコラムを書いている私も、恥ずかしながら大学3年生になるまで知らなかったのだ。現在の大学生を無知だといって、責める気にはならないのである。
個人的な回想を語らせていただくことにしよう。いまからもう35年前のことになる。当時は体育会合気道部で主将を務めていたのだが、昇段試験も兼ねた春合宿でのことだ。夕食の席で、合気道九段の師範先生から話題が振られたのである。「きょうは3月10日だが、何の日か知っているか?」、と。
私は答えられなかった。単純に知らなかったからだ。東京大空襲については、なんとなくは知っていた。小学校5年生の始めまで東京都にいたので、担任の先生(女性)から、東京大空襲についていろいろ話は聞いていた。担任の先生は子ども時代に空襲を体験している世代だったので、防空壕などの話はリアリティがあった。だが、それが頭の中で3月10日という具体的な日付とは結びついていなかったのだ。
ついでに書いておけば、私の父親は神戸生まれの神戸育ちであり、神戸大空襲を体験している世代なので、空襲の話は子ども時代に何度も聞かされてきた。隣の家に焼夷弾が落ちて全焼、その残り火でコメを炊いたこともあるという、妙にシュールなエピソードを聞いたこともある。電気炊飯器などなかった時代の話である。
神戸の空襲に関しては、神戸出身の著名人が回想をもとにした小説を執筆していることで、比較的よく知られていると思う。野坂昭如の短編小説『火垂るの墓』はジブリでアニメ映画化されているし、妹尾河童の自伝小説『少年H』は、私の父親の同世代の神戸人のあいだでは大評判になっていたようだ。
東京や神戸だけでなく、日本各地の地方都市の空襲については、直接体験した人から話を聞く機会はもうないかもしれない。だが、文学作品や映像作品などをつうじて、ぜひ追体験してほしいと思う。
語り伝えが不可能なら学校で教えるべき
東京大空襲は1945年3月10日のことであり、すでに75年もたっている。いくら「人生100年時代」といっても、実際に100歳まで生きる人はそう多くはない。空襲にまつわる話を、体験した人から直接聞くような機会は、もうなくなってしまうのだろう。
とはいっても、教育現場で取り上げられることも、あまりないようだ。日本の歴史教育では現代史が軽視されているからだ。歴史の授業が時間切れで現代に入る前に終わってしまうことは、多くの人が経験していることだろう。
現代史に関しては、政治上の左右対立が激しくて、冷静な立場での歴史記述が難しいという状況もある。歴史的事実は事実としても、解釈が異なると、まるで違う歴史となってしまうためだ。拙著『ビジネスパーソンのための近現代史』(ディスカヴァー・トエンティワン、2017)を執筆する際に苦労したのはその点だ。バランスのとれた記述は難しい課題である。
参考のために、比較対象としてドイツを中心とした欧州の歴史教育について記しておこう。長年にわたってドイツで日本語学校の校長を務めてきた岡裕人氏の著書『忘却に抵抗するドイツ-歴史教育から「記憶の文化」へ』(大月書店、2012)によれば、日本と違ってドイツでは、歴史教育の現場では現代史のウェイトがきわめて大きいようだ。
背景には1990年代以降の欧州では、「記憶の文化」がメインストリームとなっていることがある。「記憶」が歴史をつくり、「記憶」はつねに更新され、活性化されねばならないという姿勢である。個人をベースにした欧州社会ならではの智恵なのかもしれない。語り部が消えていく時代には、ドイツなど欧州を参考にして、学校の授業で積極的に教えるべきだろう。
東京大空襲に関しては、少なくとも当事者である東京都がもっとチカラをいれて取り組むべきだろう。そのためには、先に紹介したThe Economist誌が指摘しているように、記憶を形にした公式の慰霊碑など、なんらかの形のモニュメントが必要ではないか。広島も長崎も原爆ドームや原爆資料館があるからこそ、世界中から訪問者が絶えないのである。
「記憶」は文字として固定化されることによって「記録」となる。そしてまた建造物や博物館の展示もまた、「記憶」を想起するための「記録」となる。こうした取り組みが必要不可欠なのは、記憶はきわめて曖昧であり、容易に変容されやすく、また捏造されやすいからだ。
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2020.03.11
東京大空襲、原爆投下、朝鮮戦争、ケネディ大統領暗殺、勲一等旭日大綬章
ドイツのドレスデンを空爆した翌月、アメリカ軍は1945年3月9日から10日にかけて、東京の下町、深川、城東、浅草などを焼夷弾で焼き尽くした。この爆撃で7万5000人から20万人の非戦闘員が殺されたと言われている。
投下された焼夷弾の中には38個の小爆弾が収納されていて、高度610メートル付近で子爆弾はバラバラに飛び散り、建造物や地面に到達すると数秒後に焼夷剤のゲル化ガソリンが燃え上がる仕組みになっている。
東京空襲を指揮したのはアメリカ空軍のカーチス・ルメイ。この軍人は原爆を投下する都市の選定にも加わっていた。朝鮮戦争における空爆の責任者でもある。
ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官を務め、50年6月に始められた朝鮮戦争で朝鮮半島北部の78都市と数千の村を破壊して多くの市民を殺害。ルメイ自身、3年間に朝鮮半島の人口の20%にあたる人を殺したと認めている。
朝鮮戦争が休戦になった翌年の1954年にルメイを含むアメリカ軍の好戦派はソ連を核攻撃する作戦を立てた。アメリカに存在した核爆弾の数は無視したもので、600から750発の核爆弾をソ連へ投下、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すことになっていた。
その2年後にSACは核攻撃計画に関する報告書をまとめている。それによると、ソ連、中国、東ヨーロッパの最重要目標には水爆が使われ、ソ連圏の大都市、つまり人口密集地帯に原爆を投下するとされている。軍事目標を核兵器で攻撃しても周辺に住む多くの人びとが犠牲になるわけだ。この当時もSACの司令官はルメイ。
この計画ではソ連の主要都市だけでなく、ポーランドのワルシャワ、東ドイツの東ベルリン、チェコスロバキアのプラハ、ルーマニアのブカレスト、ブルガリアのソフィア、中国の北京が含まれていた。
日本列島が中国に対する攻撃の拠点として想定されていた可能性は高い。1953年4月に沖縄では布令109号「土地収用令」が公布/施行されて基地化が強引に進められた。土地の強制接収は暴力的なもので、「銃剣とブルドーザー」で行われたと表現されている。沖縄の基地化はアメリカの先制核攻撃計画と密接に結びついていたと考えるべきだろう。
本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦はドイツ軍の主力がスターリングラードの戦いで破れた1943年初めの時点で事実上、終わっている。
ドイツ軍は1941年6月にソ連に向かって進撃を開始した。バルバロッサ作戦だ。このソ連侵略でアドルフ・ヒトラーは西の守りを無視して約300万人を投入した。西部戦線に残ったドイツ軍は約90万人。ドイツ軍の首脳は西部方面を防衛するために東へ向かう部隊に匹敵する数の将兵を配備するべきだと主張したが、ヒトラーに退けられたとされている。(David M. Glantz, The Soviet-German War 1941-1945,” Strom Thurmond Institute of Government and Public Affairs, Clemson University, October 11, 2001)
ドイツ軍は1942年8月にスターリングラードの市内へ突入するが、11月になるとソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲されてしまった。生き残ったドイツ軍の将兵9万人余りは1943年1月に降伏する。東部戦線での敗北は戦争自体の敗北も意味していた。
ドイツ軍がソ連侵略に失敗したのを見てイギリスやアメリカは慌てて動き始める。その年の5月に両国はワシントンDCで会談、ドイツに対する軍事作戦を作成した。7月に両国軍はマフィアの協力を得てシチリア島へ上陸している。ハリウッド映画の宣伝で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月のことだ。
ドイツ軍がソ連軍との戦いに敗れると、ナチス親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探りはじめ、実業家のマックス・エゴン・フォン・ホヘンローヘをスイスにいたアレン・ダレスの下へ派遣している。ダレスは当時、戦時情報機関OSSの幹部だったが、ドイツの巨大資本と連携していたウォール街の弁護士という側面も持っていた。
1944年になるとダレスたちはフランクリン・ルーズベルト大統領に無断でドイツ軍の情報将校だったラインハルト・ゲーレン准将らと接触しはじめたが、その仲介役はダレスの部下でウォール街の弁護士でもあったフランク・ウィズナー。大戦後に極秘の破壊工作機関OPCを指揮することになる人物だ。
その後、ウォール街の住人たちがナチス元高官らをラテン・アメリカへ逃がすラットラインを作り、国務省やCIAはそうした人びとやドイツの科学者を雇う。ブラッドストーン作戦とペーパークリップ作戦だ。フランクリン・ルーズベルト大統領が1945年4月に急死すると、こうしたウォール街の住人がホワイトハウスで主導権を握ることになる。
1945年5月にドイツが降伏すると、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はソ連へ軍事侵攻するための作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)にを命令、アンシンカブル作戦が提出された。その作戦によると、攻撃を始めるのは7月1日で、アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは参謀本部が計画を拒否したからだという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
この後、7月16日にニューメキシコ州のトリニティー・サイトで原子爆弾の爆破実験が行われて成功。8月6日には広島、8月9日には長崎に原爆が投下された。
トリニティ実験の10日後にチャーチルは下野するが、翌年の3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行って「冷戦」の幕開けを宣言、その翌年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。
ルメイたち好戦派が目論む計画の障害になる人物が1961年に登場する。ジョン・F・ケネディがアメリカ大統領に就任したのだ。ケネディは1963年6月、アメリカン大学の学位授与式(卒業式)でソ連との平和共存を訴えている。ケネディ大統領が暗殺されたのはその5カ月後のことだった。日本政府がルメイに「勲一等旭日大綬章」を授与したのは暗殺の翌年のことである。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202003100000/
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「効率よく焼き尽くせ」 空襲成功のため、日本家屋まで再現した米軍の「用意周到」【戦争と日本人(3)】2019年8月10日
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1
ダグウェイ実験場の日本村
アメリカ陸軍がダグウェイ実験場に建設した実験用住居の日本村。1943年(US ARMYhttps://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=1
この7月、米国人建築家フランク・ロイド・ライト(1867-1959)設計の8件の建築物が、世界文化遺産に登録されることが決定した。今回指定を受けたのはすべて米国にある建造物だが、ライト設計の建造物は日本にもいくつか残っている。中でも有名なのが、東京・日比谷にあった帝国ホテル(愛知・明治村に移築)だろう。そしてちょうど100年前の大正8(1919)年、ライトの弟子として共に来日した人物が、アントニン・レーモンドだった。
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アントニン・レーモンド(出典:(株)新建築社発行、「新建築1956年4月号」1956
その後18年にわたり日本で暮らしたレーモンドが残した建造物は、ライトと比べてかなり多い。代表的なところでは東京女子大学、聖心女子学院、聖路加国際病院、米国やフランス、ソ連の大使館などがある。モダンな鉄筋コンクリートの自宅を米国大使館の近くに構え、日本の漆工芸家、木版画家、宗匠などと交流し、書や茶など日本の芸事(げいごと)も積極的に学んでいたという。
レーモンドが米国に戻ったのは1938(昭和13)年だった。友人と組み、ニューヨークで設計事務所を開いていた彼のもとに、「スタンダードオイル」社から仕事の依頼が入ったのは、43年初頭である。同社は「焼夷弾」の製造会社。第2次世界大戦が始まり、すでに1年あまりが経っていた。(以下、〈〉内引用は秋尾沙戸子氏『ワシントンハイツ─GHQが東京に刻んだ戦後─』より)。
正確な「日本家屋」を再現 畳、座布団も配置
砂漠の中のまるでモデルハウスのような家屋。1943年の5月以降、繰り返し焼夷弾を落とし、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった。日本村とドイツ村の航空写真、1943年(US ARMY[Public https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?photo=3
〈日本の労働者が住む家屋を設計してほしい。3×6の畳と障子を用い、さらに屋根は瓦にしてほしい〉
何とも奇妙な注文。が、それは空襲で使用する「焼夷弾」の燃焼実験のためだった。実際に日本の家屋を建築した上で焼夷弾を落とし、データを集め分析しようというのである。
日本に長く滞在していたレーモンドは、当然、日本の建築物について精通していた。依頼を承諾したレーモンドの指示のもと、ユタ州の砂漠にあるダグウェイ試験場において日本の木造長屋の街並みが再現されていった。3カ月後、2階建ての3棟の木造住宅を4列、12棟の長屋が2組完成する。
〈(砂漠の中のまるで)モデルハウスのような家屋に、(1943年の)5月以降、繰り返し焼夷弾が落とされた。そして、落下軌道、落下地点、発火範囲、火災の規模、燃焼能力、消火の可能性など、細かいデータをとっていった〉
それらの家屋は正確さが重視されていた。家屋の内部には畳が敷かれ、卓袱台(ちゃぶだい)、布団、座布団が配置されていた。箸や炭火鉢、洗い桶といった台所用品、さらには雨戸や物干し台も再現され、庇(ひさし)の下には欄干も取り付けられていた。爆撃実験は雨戸を開けた状態と閉めた状態(すなわち昼と夜の想定)の、その両方で行われた。
〈トタン屋根と瓦屋根の2種類を造り、建材もできるだけ日本のヒノキに近いものが使われた。(レーモンドの)自伝によるとそれは、ロッキー山脈の「シトカ産のスプルース」だという。また、漆喰の代用として壁材は南西アメリカで使われている「アドビ」という土壁を用いた〉
実験に使用するほど大量の畳を、米国国内で生産するのは不可能だった。そのため、米国海軍が出動し、ハワイに暮らす日系人の家庭から掻き集めている。
さらには〈日本と同じ装備の“消防団”までが組織され〉、鎮火実験も行っていたという。すぐに鎮火されたのでは、日本を火の海にできない。米国はこうした実験を繰り返すことによって、空襲の精度を上げていったのである。
レーモンドは後に自伝でこう記している。
〈私と妻にとって、日本を負かす意味をもつ道具をつくることは、容易な課題ではなかった。日本への私の愛情にもかかわらず、この戦争を最も早く終結させる方法は、ドイツと日本を可能な限り早く、しかも効率的に敗北させることだという結論に達した〉
占領期、米軍とその家族たちは日本人とどう接し、何を残していったのか? GHQは焦土と化した日本をどうデザインし、我々の生活に何を埋め込んでいったのか? 日米双方の新資料と貴重な証言から洗いなおした傑作ノンフィクション
レーモンドの「もうひとつ別の顔」
B29による空襲が本格化したのは、この翌年1944年11月からだった。終戦まで続いたこの無差別爆撃により、250以上の都市が被災。死亡者およそ33万人、負傷者43万人、被災戸数は233万戸と伝えられている。
さて、そのレーモンドだが、建築家以外にもうひとつ別の顔があったと秋尾氏は指摘している。米国立公文書館別館に保存されている「レーモンドファイル」。それによるとレーモンドは、かつて米陸軍の諜報部に所属していたという。諜報を担う部署G2(参謀2部)から情報調整局大佐に宛てられた報告書には、こうあった。1942年5月の日付である。
〈レーモンドは次のように申告している。そのためなら、戦時中は喜んでいまのビジネスの成功を投げうって軍に戻ると。
日本で、反国軍勢力軍との間に摩擦を大きくさせて内部崩壊を促すために、日本における彼のリベラルな知人たちとの接触を復活させる〉
つまりレーモンド自ら、日本で反対分子を煽動して、国家転覆を図ることを軍に提案していたのだ。しかも報告書によれば、レーモンドは来日以前、すでにスイスにおいて、ドイツとオーストリアに米国のスパイ組織を作る活動をしていた。日本に18年滞在していたことについては先に紹介したが、その際には〈軍に対抗する日本人グループに多く接触していた〉と、報告書には記されていた。
終戦から3年後の1948年、レーモンドは再び日本の地を踏んだ。灰燼に帰した東京で事務所を起こし、リーダーズダイジェスト東京支社のほか、離日までの25年間に教会や学校、個人宅など、ゆうに30を超える建築物の設計を精力的に行なった。
それらの建築群は、レーモンドにとっての鎮魂の墓標だったのだろうか。
デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/08100605/?all=1
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原爆を投下される迄 日本が頑張った訳
第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。
天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。
戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。
戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。
天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。
これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/
昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体
アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。
ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。
グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。
憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。
白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。
次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。
次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。
白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。
ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。
ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。
Wikipedia にはこうある。
1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。
1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。
よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。
鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。
鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。
その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。
白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html
日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。
なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。
こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している
攻撃の対象は日本の一般民であって、軍部ではなかった
制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。
アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。
昭和天皇にとっては「国体護持」だけが狙いで,アメリカが原爆を投下してくれた事にも感謝していた
天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。
この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。
当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。
昭和天皇は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。
アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。
プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。
これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。
日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm
1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。
「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)
原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。
ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042
・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511
・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521
・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。
天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。
そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。
間違いなく、原爆投下と交換条件である。
アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522
・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。
この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html
21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。
① 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。
②「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。
ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html
天皇の原爆しょうがない発言
昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。
この会見の場で、
「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」
と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html
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2020.02.10
カーク・ダグラスが死ぬ前に息絶えていたハリウッド
俳優のカーク・ダグラスが2月5日に103歳で死亡した。ジョン・フランケンハイマーが監督した「5月の7日間」は軍の好戦派によるクーデターがテーマの作戦だが、その映画で彼は主役を演じている。
この映画の原作はジャーナリストのフレッチャー・ネベルとチャールズ・ベイリーが1962年に書いた小説。1961年7月にアメリカ空軍の参謀総長に就任したカーティス・ルメイをインタビューしたことが小説を書くひとつの切っ掛けになったとされている。
言うまでもなく、ルメイは第2次世界大戦の終盤、東京を含む日本の都市を焼夷弾を使った空爆で焼き尽くし、多くの非戦闘員を殺した作戦の責任者であり、広島や長崎へ原子爆弾を投下する上で重要な役割を果たした。
1948年にはSAC(戦略空軍総司令部)の司令官就任、50年6月に勃発した朝鮮戦争でも日本に対する以上の空爆を実施、朝鮮の人口の20%を殺したと本人も認めているほどだ。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下したのは約16万トンだが、朝鮮戦争で投下された爆弾は約63万5000トンに達する。
ネベルとベイリーがインタビューした当時、ルメイはライマン・レムニッツァー統合参謀本部議長と同じようにソ連への先制核攻撃計画に参加、その準備としてキューバへアメリカ軍を侵攻させようとしていた。
このふたりを含む好戦派の計画を阻止したのが1961年1月に大統領となったジョン・F・ケネディで、1962年9月にはレムニッツァーの再任を拒否している。
その前にはCIAの長官と副長官が解任されている。1961年11月には長官だったアレン・ダレスを、62年1月には副長官だったチャールズ・キャベルを大統領はCIAから追い出したのだ。ルメイをSACの司令官に留めたことがケネディにとって致命傷になったと考える人もいる。
ソ連に対する先制核攻撃の準備が進められる中、アメリカ国内ではファシズムに反対する人びとの粛清が始まる。映画界へもその波は押し寄せ、下院の非米活動特別委員会が1947年9月にハリウッドのシナリオ作家、監督、俳優ら19名に対して召喚状を送り、10月23日に出頭するように命じている。
そのうちのひとりはドイツから亡命していた著名な劇作家のベルトルト・ブレヒト。指定された日に実際、証言させられたのは11名だった。そのうちブレヒトを除く10名が「ハリウッド・テン」と呼ばれている。
そのうちのひとりが脚本や小説を書いていたドルトン・トランボで、自分の名前で仕事することができなくなった。トランボが自分の名前を取り戻したのはスタンリー・キューブリックが監督、カーク・ダグラスが主役を演じた1960年公開の「スパルタカス」。映画のクレジットにトランボの名前が明記されたのだ。
しかし、現在のハリウッドは支配層の利益に反する作品を作ることは不可能な状態になっている。表現の自由は失われた。エル・サルバドへアメリカの軍や情報機関が関与している実態を描いた1986年公開の「サルバドル」、ベトナム戦争を描いた86年公開の「プラトーン」、89年公開の「7月4日に生まれて」、93年公開の「天と地」、あるいは87年公開の「ウォール街」や91年公開の「JFK」を監督したオリバー・ストーンによると、冷戦が終わってから情況は悪くなり、今では軍を批判したりイラク戦争を取り上げることが困難になっているという。有力メディアと同じように、単なるプロパガンダ機関になったということだ。
以前にも書いたことだが、「5月の7日間」を映画化するようフランケンハイマーに頼んだのはケネディ大統領である。1962年にホワイトハウス報道官のピエール・サリンジャーを介して依頼したのだが、その大統領は映画が公開される3カ月前にテキサス州ダラスで暗殺された。当時、ダラスの市長はチャールズ・キャベルの弟だ。
映画の原作が書かれる切っ掛けになる話をしたルメイに対し、ケネディ大統領が暗殺された翌年に日本政府は「勲一等旭日大綬章」を授与している。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202002100000/
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「神風特攻の美談」の真実は
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=16829504
【神風特攻隊】悲惨な作戦はなぜ決行されたのか?真実に迫る!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149832
神風特攻隊~青年たち永遠の飛行
http://www.asyura2.com/13/warb11/msg/421.html
特攻隊員は「志願して死んでいった」のか
http://www.asyura2.com/17/ban7/msg/309.html
「私たちがいま生きているのは特攻隊のおかげ」とかいう妄想
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/799.html
神風特攻は太平洋戦争が八百長だと見破られない為に昭和天皇が命令してやらせた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/564.html
【神風特攻隊】悲惨な作戦はなぜ決行されたのか?真実に迫る!
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【原爆】隠されたアメリカの闇…日本人を使った人体実験だったのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14149837
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https://www.thutmosev.com/archives/72077992.html
都市の民間人を狙った米軍の空襲
日本は戦時中に連合軍(アメリカ軍)から都市への無差別爆撃を受け、原爆を含めて41万人以上がなくなったとされている
犠牲者数についての正確な統計は無く、それぞれの被害地域で数を数えて合計したのが41万人と考えられる
戦後の調査は推定値として70万人から100万人という数字も出されている
空襲で負傷した人はその数倍の数百万人いたので、戦後は負傷者や障害者がとても多かった
分かっている犠牲者41万人のうち約10万人が東京大空襲、広島原爆14万人、長崎原爆7万人、他は大阪・兵庫・愛知が多かった
連合軍の第一の目標は民間人が多く居住している都市で、第二目標が港湾や飛行場、軍需工場などだった。
最初から民間人だけを標的にして、なるべく多くの犠牲者を出すのを目的にしていました
1942年(昭和17年)4月18日に空母ホーネットから離艦した16機のB25が、デモンストレーションのように各地を空襲した
1944年(昭和19年)6月16日、中国から離陸した新型爆撃機B29によって福岡県八幡製鐵所に空襲が実施され、200名以上がなくなった
B29は操縦性が悪く、目標に狙いを定める事ができないので、最初から特定の標的ではなく、都市全体を狙っていた
1944年10月からは占領したマリアナ諸島から連日B29が空襲に飛来するようになり、1945年8月15日以降も空襲は行われた
アメリカ軍は出撃する兵士に「ジャップを人間と思うな」と檄を飛ばし、米軍機のパイロットは意図的に民間人を狙いました
米軍が撮影した機内動画には、逃げ惑う農民などを執拗に狙い続ける様子が写っており、たまに動画サイトに掲載されている
疎開はじまる
ミッドウェー海戦を転機に日本海軍は太平洋の戦線で負け続け、1943年(昭和18年)4月18日には連合艦隊司令長官も撃墜され作戦指揮ができなくなります
太平洋の拠点は次々に玉砕し、B29が日本本土まで往復可能なサイパンを占領されて万事休すとなった
B29爆撃機は今の自衛隊の飛行艇程度の全長なのだが、当時はバケモノのように巨大だと考えられていた
最高速度は零式戦闘機と同等で、上昇高度はずっと高く、頑丈な装甲に守られていて、多数の機関銃も装備されていました
戦前の最高性能だったとされる四式戦闘機「疾風」でも、速度は十分なものの、機銃が命中しても撃墜は困難だったと言われています
日本各地には高射砲が設置されていたが、これがまったく当たらない上にB29は高度が高くて届かないので、天気予報(当たらない)と呼んでいた
B29の防止は不可能と判断した大本営は、連合軍が標的にしている都市住人を農村に避難させることにし、これが有名な「疎開」でした
疎開は都市住人だけではなく工場や生産力を維持するために移転させるのを含み、どちらかと言えば軍部はそれが主目的だった
B29の本土初空襲の2ヵ月後の1944年8月4日、初めての学童疎開が東京で実施され、以降40万人以上の児童が全国の都市から農村へ移動した
学童疎開は国が空襲から避難させる目的で実施したのが、受け入れ施設もないため、具体的には親戚の家に子供を預けた
農家は余計な子供を預かると負担になるので、親戚の子供だけを受け入れ、性格や健康に問題のある子供は疎開できませんでした
子供を疎開させるには受け入れ先の農家に対して毎月10円を支払い、食器や衣服など身の回りの物は持参する必要がありました
農家以外の寺院でも疎開児童を受け入れたが、やはり毎月の費用が掛かるのは同じだった
🖼️受け入れ先がない疎開児童は大きな寺などで集団生活をした
疎開の現実
昭和16年ごろの労働者の収入は月収100円と言われる事が多いので、子供1人を疎開させるには収入の1割を出さねばなりませんでした
ところが当時は富国強兵を奨励し子供の数が1世帯平均4人も居たので、全員疎開させると収入の4割も必要でした
当然お金を払えなくて疎開できない人も居て、そうした子供たちが東京大空襲で大勢なくなりました
めでたく疎開できた子供も農村では疎開者は厄介者で、農村の子供より食料が少なかったり、慣れない農家の作業を手伝っていました
疎開した子供は都会の親元に手紙を書く事になっていますが、心配を掛けないように「元気でやっています」と書くよう学校で指導していた
裕福な家庭の子供は自主的に農村へ移住し、農作業もなく食料も十分で、むしろ都会より良い生活だった
さてお金がある子供たちは農村に避難したが、親たちはどうしたのでしょうか
疎開できたのは子供だけで、大人の疎開は無かったが、裕福な人達はまたしても、自主的に農村に避難していました
都会に残った大人たちは軍需生産や様々な労働に借り出され、連合軍の本土上陸に備えて本土決戦の準備をしていました
最も空襲が集中したのは東京で、広島長崎は1回の被害が大きかったが空襲の頻度はそれほどでもなかった
後は大阪、名古屋、神戸、九州の工業地帯が1万人前後の被害者を出し、その他の都市は散発的な空襲だった
同じく空襲と言っても東京と田舎の地方都市では緊張感がまったく違い、大半の地域ではあまり大きな被害はなかった
空襲の少ない地方都市では戦時生産などが忙しかったものの、徴兵で農村の労働力が足りないほうが大問題だった
自然戦時中は食物が高騰し、規制されているにも関わらず、闇取引で儲ける農家が多く居ました
食料は配給制だったが「闇米」などを買わなくては十分ではなく、ここでも親の仕送りがある子供と無い子供には格差があった
だが都会に残った親たちは空襲によってなくなり、親が生きていた子供はそれでもマシな方なのだった