音楽を聴くなら女性ヴォーカルに限る _ マレーネ・ディートリヒ『また恋してしまったの    Ich Bin Von Kopf Bis Fuss Auf Liebe Eingestellt』

マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich、1901年12月27日 - 1992年5月6日

 

マレーネ・ディートリッヒ - "百万ドルの脚線美" 伝説のスーパースター ー 20世紀・シネマ・パラダイス

https://cinepara.iinaa.net/Marlene_Dietrich.html

 

 

マレーネ・ディートリヒ『また恋してしまったの    Ich Bin Von Kopf Bis Fuss Auf Liebe Eingestellt』 

 

映画   マレーネ・ディートリヒ『嘆きの天使  Der blaue Engel』1930年 

https://a111111.hatenablog.com/entry/2025/05/25/201638 

 

Marlene Dietrich in "Der blaue Engel" - The Blue Angel

 

 

主題歌

【ドイツ語】嘆きの天使 (Ich bin von Kopf bis Fuß auf Liebe eingestellt) (日本語字幕)


1930年のドイツ映画『嘆きの天使(Der blaue Engel)』で、主人公の堅物な独り者の中年教師ラート(エミール・ヤニングス)が不良学生たちを戒めるために街のキャバレーを訪れた時、歌姫のローラ(マレーネ・ディートリヒ、1901-1992)がステージで歌っているのを見、彼女の魅力に溺れてしまう場面の歌。「Falling in Love Again」というタイトルで英語版も出されています。ディートリヒの1960年の録音より。

独語歌詞:
Ich bin von Kopf bis Fuß auf Liebe eingestellt

Ich bin von Kopf bis Fuß
Auf Liebe eingestellt
Denn das ist meine Welt
Und sonst gar nichts
Das ist, was soll ich machen
Meine Natur
Ich kann halt lieben nur
Und sonst gar nichts

Männer umschwirr'n mich
Wie Motten um das Licht
Und wenn sie verbrennen
Ja dafür kann ich nicht

Ich bin von Kopf bis Fuß
Auf Liebe eingestellt
Ich kann halt lieben nur
Und sonst gar nichts

 

MARLENE DIETRICH. "ICH BIN VON KOPF BIS FUSS AUF LIEBE EINGESTELLT" 1930 Der Blaue Engel 1/2.


Marlene Dietrich (1901-1992) enregistrée en 1930.
B.O. de "L'Ange bleu".

 

 

Marlene Dietrich (マレーネ・ディートリッヒ)♪Falling In Love Again♪ (また恋したのよ)

1930年 ドイツ 映画「嘆きの天使」より 78rpm record


英国製 HMV style 6 蓄音機 

 

Ich Bin Von Kopf Bis Fuss Auf Liebe Eingestellt - YouTube

https://www.youtube.com/results?search_query=%C2%A0Ich+Bin+Von+Kopf+Bis+Fuss+Auf+Liebe+Eingestellt

 

Falling in Love Again - YouTube

https://www.youtube.com/playlist?list=OLAK5uy_k7wkiqqAM0LMcatFbgIKBmRhhDqsg4D_k

 

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 ◆ マレー ネ・ディートリッヒの出世作    嘆きの天使  Der Blaue Engel
https://cinepara.iinaa.net/Der_Blaue_Engel.html

     監督:ジョセフ・フォン・ス タンバーグ
     (1930年/ドイツ)

 

 ギムナジウム中高一貫校)で英語を教え ている堅物の中年男ラート教授。

 ある日の授業中、学生がいかがわしいブロマイドを持ち込んでいたことから、不良学生たちが 街のキャバレー「嘆きの天使」に入り浸っていることを知った。

 不良学生たちはその日の夜もキャバレーに訪れていた。

 そこへ、学生を取り締まるためにラートが乗り込んで来た。逃げる生徒を追い掛けているうち に、ラートはローラ・ローラの楽屋に入ってしまった。ロー ラは各地のキャバレーを巡業する歌劇団の看板歌手で、ブロマイドに写っていた女性だ。

 翌日。ラートは再びキャバレーを訪ねた。前夜、学生がどさくさ紛れにラートの上着にローラ の衣装を忍び込ませていたので、それを返すためだ。「先生は文句なしにハンサムよ」。ローラは堅物のラートを弄んだ。

 楽屋に酔客が乱入して来て、ローラにしつこく迫った。ラートは力ずくでその客を追い払い、 ローラと意気投合して乾杯した。

 不良学生たちが地下に隠れていたが、ラートは彼等を発見して店から追い出した。

 ラートは特別席に案内されてローラの歌を聞いた。


Youtube-logo
 ♪ 「 Falling in Love Again 」

O Anjo Azul - Falling In Love Again (Marlene Dietrich)


 ラートは酔い潰れ、ローラの楽屋で一夜を過ごしてしまった。朝食中に学校の始業ベルを聞 き、慌てて学校へ行くと、黒板にラートとローラの事を茶化す悪戯書きが描いてあった。

 学生たちが騒ぎ出し、校長が教室にやって来た。校長 「たかが女のた めに、一生を棒に振ってもいいのか」。ラート 「未来の妻のことを侮辱するな 」。ラートは学校をクビになった。

 歌劇団が次の巡業地へ移動する日。ラートはローラに指環を贈り、求婚した。2人は歌劇団の 団員たちに祝福され、結婚した。

 ローラの鞄からブロマイドを見つけたラートは、「私の蓄えがある間は写真は売るな」 と息巻いた…。しかし、月日が流れ、客席にはローラのブロマイドを売り歩くラートの姿があった。蓄えの尽きたラートは、ローラのヒモ同然だった。

 5年後。ラートは道化に扮し、手品師である座長の助手を務めていた。次の巡業地はラートの 故郷、あのキャバレー「嘆きの天使」だと告げられ、嫌がるラートであったが、ローラに養われている身であり、どうしようもなかった。

 「嘆きの天使」での公演当日。かつての同僚や教え子たちが来店し、店は超満員。

 ラートは土壇場で出演を嫌がったが、ローラに一喝され、茫然自失の状態で舞台に立った。

 舞台の袖でローラが同業者の男に言い寄られ、抱かれていた。それを目撃したラートは半狂乱 となった。

 ローラに襲い掛かったラートは、取り抑えられ、 拘束着を着せられて楽屋に放置された。

 舞台では、ローラが「Falling in Love Again」を歌っ ている。座長から拘束着を解かれたラートは店から抜け出し、ある場所へ向かった …。

 

 ・ドイツ映画初のトーキー作品。映画製作者のエリッヒ・ポマーが監督として白羽の矢を立てたのが、ハリウッドで活躍していたジョセフ・フォン・スタンバーグ

 ・ドイツへ渡ったスタンバーグは、ベルリンの舞台に出演していた当時はほとんど無名だった マレーネ・ディートリッヒをローラ役に抜擢。
 ディートリッヒに決定する前は、グロリア・スワンソン、『メトロポリス』のブリギッテ・ヘルムなどが候補だったと言われている。


スクリーンテストを受けるマレーネ・ディートリッヒ

MOI, JE M;ENNUIE - MARLENE DIETRICH


SET TO MARLENE DIETRICH SCREEN TEST


・映画が進むにつれ、ラート教授が醜く老けてゆくのと対照的に、美しさを増していくローラ役のマレーネ・ディートリッヒ(当 時29歳)。「百万ドルの脚線美」と言われたおみ足も披露し、「Falling in Love Again 」は彼女の代表曲となった。
 本作により一躍その名を轟かせたディートリッヒ。スタンバーグ監督と蜜月関係になり、ハリウッドで一時代を築くことになった。
https://cinepara.iinaa.net/Der_Blaue_Engel.html

 

 

 アフター・シュトラウス 1930年 マレーネ・ディートリヒ 映画「嘆きの天使」~「また恋に落ちて 」

http://scherzo111.blog122.fc2.com/blog-entry-476.html

1930年 マレーネ・ディートリヒ 映画「嘆きの天使 」
主題歌 「また恋に落ちて」 Ich Bin Von Kopf Bis Fuss Auf Liebe Eingestellt
(フリードリヒ・ホレンダー作曲 )

ディートリヒとホレンダー(左 )1948年 映画「A Foreign Affair 」から Marlene Dietrich_Ich Bin Von Kopf Fuszlig; Auf Liebe Eingestellt(CRCL-8897 )
▲ ホレンダーとマレーネ・ディートリヒ(1948年 映画「A Foreign Affair 」から )
 
 独語原題を直訳すると「私は頭から爪先まで 全身で愛を感じます 」という意味だそうですが、今日では むしろ米訳の 「フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン」 Falling In Love Again というタイトルによって 知られる“三拍子”の名曲です。

 作曲者フリードリヒ・ホレンダー Friedrich Holländer(1896 – 1976 )は、ドイツ国民劇場(Deutsches Theater )でマックス•ラインハルトと共に評論を手がけていた作家フェリックス・ホレンダーの甥にあたり、若い頃から地元の映画館で無声映画の伴奏ピアニストを務めていた縁で 1930年マレーネ・ディートリヒ Marlene Dietrich(1901 – 1992 )の出世作となったジョセフ・フォン・スタンバーグ監督による ドイツ初のトーキー映画「嘆きの天使 Der Blaue Engel 」の音楽を担当したことによって大きな成功を収めました。
 その後、ディートリヒやスタンバーグと同時期に渡米、大戦終了後までアメリカで仕事を続け、ビング・クロスビーやオードリー・ヘプバーン(「麗しのサブリナ 」 )など 100本以上の映画作品の音楽を手がけました。戦後1956年にドイツに戻り、1976年にミュンヘンで亡くなりました。

マレーネ・ディートリヒの音盤 スケルツォ倶楽部
 マレーネ・ディートリヒが 主に自身の出演映画で歌ったホレンダー作品には、「ボーイズ・イン・ザ・バックルーム See What the Boys in the Back Room Will Have(1939年 ) 」 、「アイ`ヴ・ビーン・イン・ラヴ・ビフォー I've Been in Love Before(1940年 )、「ブラック・マーケット Black Market(1948年 ) 」、「イリュージョン Illusions(1948年 ) 」、「廃墟のベルリンThe Ruins of Berlin(1948年 ) 」などがあります。

 私 "スケルツォ倶楽部" 発起人 の ディートリヒへの敬慕の念については また必ず別の場を設けて 改めて語らせて頂きたいと考えておりますが、この「また恋に落ちて 」以外でワルツのリズムで知られる 彼女の有名なレパートリーには この他にも
「モロッコ 」でアミー・ジョリーを演じるマレーネ・ディートリヒ
 ・・・渡米して最初のハリウッド映画出演作となった「モロッコ(1930年 ) 」で 男装のアミー・ジョリーとしてステージで歌う「恋が終わるとき Quand L'amour Meurt 」(これは名曲 ! )、ビリー・ワイルダー監督による映画「情婦(検察側の証人 )1956年 」で 容疑者の妻クリスティーネに扮して歌った「故郷には帰らない I May Never Go Home Anymore 」 - どちらも 秀逸な節回しを持った感傷的なワルツ - 特に 後者のワルツのタイトルは、マレーネ・ディートリヒの半生を考えたら 何と象徴的な表題であったことでしょう。 ・・・ またいつか あらためて!

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映画   マレーネ・ディートリヒゲイリー・クーパー『モロッコ   Morocco』1930年

 

監督 ジョセフ・フォン・スタンバーグ
脚本 ジュールス・ファースマン
原作 ベノ・ヴィグニー(英語版)
音楽 カール・ハヨス(英語版)
撮影 リー・ガームス(英語版)
製作会社 パラマウント映画
公開 1930年12月6日

 

Flash-back: Mon Dimanche ~ Marlene Dietrich (Morocco, 1930)

 

英語動画

https://archive.org/details/morocco-30-1538596735589

 

ロッコ
Morocco
ポスター(1930)

 

『モロッコ』(英語Morocco北アフリカの国名)は、1930年昭和5年)製作・公開、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督のアメリカ映画トーキーである。ベノ・ヴィグニー英語版の舞台劇『Amy Jolly』が原作。日本では、初めて日本語字幕が付されたトーキー作品としても知られている。

1930年(昭和5年)、パラマウント映画が製作し、撮影は同年7月15日クランクイン、同年8月18日にクランクアップした。

ストーリー

外人部隊に属するトム・ブラウン(ゲイリー・クーパー)は女たらしで有名である。次々に女を変えていたトムだが、ある日駐在しているモロッコの酒場で、アミー・ジョリー(マレーネ・ディートリヒ)という名の歌手に出会い、恋に落ちる。

しかし、セザール副官(ウルリヒ・ハウプト)が妻(イヴ・サザーン)とトムの関係を知ったことから懲罰の意味でトムは最前線に送られることになる。別れを告げるためにアミーの前に現れたトムだったが、金持ちのベシエール(アドルフ・マンジュー)が彼女に求婚していることを知り、彼女の幸せのためにとその場を後にする。

ベシエールと婚約することになったアミーだったが、トムが負傷したと聞くと、ベシエールにせがんで急いでトムが入院している病院に向かう。しかし、トムは怪我をしたふりをしていただけだった。アミーはトムと再会するが、トムは再び戦地に赴くことになっていた。

アミーはトムの部隊を見送る。しかし、部隊に付き従って行く女たちの姿を見たアミーはベシエールに別れを告げ、自分もその女たちとともにトムを追いかける。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%B3_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

 

◆ スタンバーグ&ディートリッヒ 黄金コンビの最高傑作 モロッコ Morocco
https://cinepara.iinaa.net/Morocco.html

監督:ジョセフ・フォン・ス タンバーグ
1930年/アメリカ
 
  北アフリカ フランス領のモロッコ
 出征中だった外人部隊が町に帰還した。その中には、女たらしとして評判で、上官にも目をつけられている兵士トム・ブラウンの姿もあった。

  モロッコへ向かう客船上
 モロッコの上流社会で有名な大富豪ベシェールの横を、どこか物憂げな女性が通り過ぎた。ベシェールは女性が落とした荷物と一緒に名刺を差し出した。その場を立ち去った女性は、名刺を海へ破り捨てた…。


 ベシェールは女性の事を船長に尋ねた。
 船長 「舞台芸人でしょう…。あの手のタイプは自殺志願者、片道切符の女と呼ばれています …」。

  モロッコのナイトクラブ  
 ベシェールは軍の副官セザール夫妻と同席した。トムが店に入って来ると、セザール夫人が夫の 目を盗んでトムと手を振り合った。トムは副官夫人の愛人でもあった。
 楽屋では、あの船上の女性がモロッコでの初ステージの準備中だった。クラブの支配人 「後援者を見つけろ。外人部隊の将校がいい。 兵士は貧乏人のクズばかりだ 」。


  クラブ歌手アミー・ジョリーのステー ジ
 アミーが舞台に登場すると野次を飛ばす酔客がいたが、トムが黙らせた。舞台上のアミーは、 そんなトムの行動に気づいていた。
 アミーは、♫「Quand l'amour meurt」(愛が終わる時)を歌った。

 衣装を着替えて、♫「What Am I Bid for my Apple?」(私のリンゴを買ってくれない?)を歌うアミー。


特等席の客にリンゴを売りにいったアミーは、ベシェールと再会 し、誘いを受けたが辞退した。

 アミーが舞台下の客席へ行こうとすると、支配人が引き留めた。「下 の客は金が無いから時間の無駄だ」 。アミーは忠告を無視してトムの席へ向かった。 Mor

 トムは兵士仲間から借金をしてリンゴを買った。アミーがお釣りを手渡したが、その手の中に は彼女の部屋の鍵が入っていた。


アミーの部屋

 夜遅く、アミーの部屋へ向かうトムの前にセザール夫人が現れた。 トムは夫人を上手くかわして、アミーの部屋へ向かった。

 トム 「なぜこんな国に流れて来たんだ?」。アミー 「なぜ外人部隊に入ったか聞かれたことがある?」。トム 「そうだな。俺もそんなことには答えない。過去の話はもうや めよう」。アミー 「女にも外人部隊があるのよ 」。

 アミー 「もう一度男を信じさせてくれるの?」。トム 「俺には無理だ。適役じゃない。俺を信じる者はバカをみる」。アミー 「もう帰って。あなたを好きになりそう」。ト ム 「10年早く会いたかったよ」。

 トムが外へ出ると、セザール夫人が待っていた。そこへ、思い直してトムの後を追ってきたア ミーが現れた。

 トムとアミーが部屋へ戻るのを見て、嫉妬したセザール夫人が2人組のモロッコ人にトムの殺 害を依頼した。トムは2人を撃退したが、1人を刺し殺してしまった。この一部始終を、セザール副官が物陰から目撃していた。

  セザール副官の部屋
 トムは乱闘の件で査問されることとなった。セザール副官の部屋には、ベシャールや、証人として呼び出されたアミーもいた。

 トムは処分が決まるまで営倉に入れられた。

  アミーの楽屋
 トムは軍法会議を免れたが、最激戦地であるサハラ砂漠のアマルファ峠へ送られることとなった。アミーはベシェールからプロポーズ された。

 楽屋の外では、トムが2人の会話を立ち聞きしていた。トムが楽屋へ入ると、ベシェールは席 を外した。

 トム 「今度は前線から戻ってこれそうもな い。君が一緒なら、脱走してヨーロッパへでも行こうと思う …」。アミー 「行くわ」。開幕ベルが鳴り、ステージへ 向かうアミー 「戻るまで待っててね」。


  ルージュの伝言

 楽屋に残ったトムは、ベシェールがアミーに贈ったブレスレットを 見ているうちに身を引くことを決意し、口紅で鏡に別れの言葉を書いた。「I Changed my mind. Good Luck ! 」 (気が変わった。達者でな ! )

  トムの出征
 翌朝。アミーとベシェールが出征する外人部隊を見送りに来た。アミーは、町の女たちに取り囲まれたトム を見つけ、歩み寄った。

 アミー 「昨夜はなぜ帰ってしまったの?」 。トム 「ヤボ用があってね 」 。

 出征する兵士たちの後に、荷物を抱えた女たちが続いて行く。ベ シェール 「ついて行っても男が死ぬ場合も多い」。アミー 「正気の沙汰じゃないわ」。ベ シェール 「どうかな…、愛しているからだろう」。アミーは、去っていく部隊と女たちをいつまでも見つめていた。

  その後の2人
 トムが出征してからの3週間、アミーは酒浸りの生活を送ってい た。ベシェール 「もう忘れることだ 」。アミーは手にしていたグラスの酒を、トムの伝言が書かれた鏡に投げつけた。

  一方、戦地のトムは、隙あらば彼を殺そうと企んでいるセザール副官に危険な任務を命じられたが、敵兵の弾に当たって命を落としたのはセザール副官の方だっ た。

  婚約の晩餐会

 アミーはベシェールと婚約し、その祝いの宴の夜。ベシェールから トムの部隊が帰還すると知らされたアミーは、「気にしないで」と言って、客が待つ会場へ向かった。

 晩餐会の最中、外人部隊の行進曲が聞こえて来た。アミーは思わず立ち上がり、一心不乱に外 へ飛び出した。夢中でトムの姿を探したが、彼は負傷してアマルファに残ったと知らされた。

 アミーがアマルファへ発つと告げると、ベシェールは同行を申し出た。


  アマルファの酒場

 アマルファに着いたアミーとベシェールは病院へ直行したが、トム の姿は見当たらなかった。

 トムは、アミーのいる町へ戻りたくないので、負傷したと偽り、別の部隊に配属されていた。酒場でやけ酒をあおりながら、テーブ ルにアミーの名前を刻んでいると、そこへアミーが現れた。

 アミー 「なぜ部隊と戻らなかったの」。 トム 「…あの金持ちとは 結婚しないのか…。幸せになってくれ」。兵舎に戻れとの命令でトムは立ち去った。アミーはテーブルに刻まれた自分の名前を見つけ、 トムの本心を知った…。


  トムの出征

 翌朝。前線へ出征するトムを見送りに来たアミーとベシェール。ア ミーとトムが別れの言葉を交わして間もなく、集合ラッパが鳴り響 いた。



 別れの挨拶を送り合うトムとアミー。楽隊の行進曲が鳴り始め、砂漠の中を出征していく外人部隊…。


youtube 『モロッコ』 予告編




 ・ジョセフ・ フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒの黄金コンビがハリウッドで撮った最初の作品。
 アカデミー賞では、主演女優賞、監督賞、撮影賞、室内装置賞の4部門でノミネートされたが受賞には至らなかった。

 ・日本では、初の字幕スーパー作品として公開され、キネマ旬報社のベストテンで第1位(1931年度)に選出された。

 ・マレーネ・ディートリッヒの男装は本人のアイデアだった。ディートリッヒが客席の女性に キスをするシーンはセンセーションとなったという。それにしても、男装の麗人ディートリッヒが煙草を吸う姿の何とも粋なこと。

・ゲーリー・クーパーは自ら売り込んで役を得た。
 女たらしの兵士を嫌味なく好演し、特に日本では、本国でのそれを上回る人気を獲得。
 当初は助演扱いだった映画のポスターに大和撫子たちから抗議が殺到し、慌てた映画会社がポスターを作り直したというエピソードも。

 ・ディートリッヒとクーパーは6年後に『真珠の頸飾』(監 督:フランク・ボー ゼージ)で再共演をした。
 2人は同じ1901年生まれ。クーパーが5月、ディートリッヒが12月生まれ。

 ・映画史に残る名ラストシーン。
 兵士集合のラッパが吹かれてからは、サイレント映画さながら台詞が一切なし。聞こえるのは楽隊が奏でる行進曲と砂漠に吹く風の音だけ。
 途中でハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で部隊の後を追うアミーの姿が砂漠の中に消えていくなか、行進曲の音色もフェードアウトしていき、最後は風の音だけ に。見事な演出。
https://cinepara.iinaa.net/Morocco.html

 

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マレーネ・ディートリヒ『リリー・マルレーン  Lili Marleen』  

 

マレーネ・ディートリヒ     リリー・マルレーン - YouTube

https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92+++++%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3

 

【ドイツ語】リリー・マルレーン (Lili Marleen) (日本語字幕)


出征した兵士が、かつて兵舎の外で毎夜逢っていたリリー・マルレーンという名の恋人を想う歌。元は1939年にドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)の詩にシュルツェ(N. Schultze)が曲をつけて作られたドイツの歌でしたが、連合軍北アフリカ戦線のイギリス軍兵士にも人気を博し、反ナチスの人としてドイツからアメリカへ渡った女優のマレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)による連合軍兵士の慰問でも歌われ、ディートリヒの代表曲の一つとなりました。

 

 

Marlene Dietrich(マレーネ・ディートリッヒ)♪Lilli Marlene♪(リリー・マルレーン)(ドイツ語盤)1951年 . 78rpm record.



マレーネ・ディートリッヒ 回顧 リリー・マルレーン

 

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歌詞

Vor der Kaserne vor dem großen Tor
Stand eine Laterne
Und steht sie noch davor
So wollen wir da uns wiedersehn
Bei der Laterne wollen wir stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen
Unsre beiden Schatten sahen wie einer aus;
Dass wir so lieb uns hatten
Das sah man gleich daraus
Und alle Leute sollen es sehen
Wenn wir bei der Laterne stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen
Schon rief der Posten: Sie bliesen Zapfenstreich;
Es kann drei Tage kosten
Kam'rad, ich komm ja gleich
Da sagten wir auf Wiedersehn
Wie gerne würd' ich mit dir gehn
Mit dir Lili Marleen Mit dir Lili Marleen
Deine Schritte kennt sie
Deinen schönen Gang
Aller Abend brennt sie Doch mich vergaß sie lang
Und sollte mir eine Leids geschehn
Wer wird bei der Laterne stehn
Mit dir Lili Marleen? Mit dir Lili Marleen?
Aus dem stillen Raume
Aus der Erde Grund
Hebt mich wie im Traume dein verliebter Mund
Wenn sich die späten Nebel drehen
Werd' ich bei der Laterne stehen
Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen

略訳

兵営の前、門の向かいに
街灯が立っていたね
今もあるのなら、そこで会おう
また街灯のそばで会おうよ
昔みたいに リリー・マルレーン
俺たち2人の影が、1つになってた
俺たち本当に愛しあっていた
ひと目見ればわかるほど
また会えたなら、あの頃みたいに
リリー・マルレーン
もう門限の時間がやってきた
「ラッパが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
「わかりました、すぐ行きます」
だから俺たちお別れを言った
君と一緒にいるべきだったのか
リリー・マルレーン
もう長いあいだ見ていない
毎晩聞いていた、君の靴の音
やってくる君の姿
俺にツキがなく、もしものことがあったなら
あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
誰が君と一緒にいるんだろう
たまの静かな時には 
君の口元を思い出すんだ
夜霧が渦を巻く晩には
あの街灯の下に立っているから
昔みたいに リリー・マルレーン


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リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツ歌謡曲。ドイツの歌手・女優、ララ・アンデルセン1939年2月に録音したバージョンがヨーロッパ全体でヒットした。

1915年ロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプHans Leip)が、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集『Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht』(邦題・港の小さな手風琴)に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェNorbert Schultze)が曲をつけた。

大戦下での流行

1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た[1]。もしくは、ベオグラード放送局の職員が、リリー・マルレーンを気に入っていた友人のために放送したとも言われる。

 

第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線イギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。

 

アンデルセンは慰問で人気者になったが、長くは続かなかった。1942年夏、アンデルセンと親しい関係にあったロルフ・リーバーマンユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンは歌手活動が禁止され、アンデルセン盤の原盤が廃棄される事態となる。ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により「リリー・マルレーン」のタイトルとメロディ自体は残され、別バージョンが作られた。

 

カバー

歌の主語は明らかに男性兵士だが、何故か女性歌手によって歌われることが多い。日本でのカバーについては後述する。

ベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌としても知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカ市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問し、この歌を歌った。そのため、ディートリヒはドイツで敵側の人間(反逆者)と見なされ、ドイツでは戦後も不人気となった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%B3

 

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マレーネディートリッヒの歌15選!人気曲ランキング【動画付き・最新版】

https://celeby-media.net/I0001547

 

マレーネディートリッヒの人気曲ランキング

1位  また恋してしまったの~映画「嘆きの天使」より
2位  花はどこへ行った
3位  裏部屋の男たち~映画「砂塵」より
4位  リリー・マルレーン
5位  愛の嵐

 

 

マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)は、今は亡きドイツ出身の女優・歌手です。ここでは、マレーネ・ディートリヒの人気の歌をランキングで紹介しています。

 

マレーネディートリッヒの歌人気ランキング 15位〜11位

 

15位 ハーモニカで聞いた歌

15位 ハーモニカで聞いた歌

境の車窓からで紹介され、話題となった歌です。マレーネの魅力がたっぷりと堪能できる一曲です。

Hildegard Knef - Für mich, soll's rote Rosen regnen - YouTube
Für mich soll's rote Rosen regnen Hildegard Knef Mit sechzehn sagte ich still, ich will, will groß sein, will siegen, will froh sein, nie lügen, mit sechzehn...

出典:Hildegard Knef - Für mich, soll's rote Rosen regnen - YouTube

 

 

14位 お母さん私を許せますか

14位 お母さん私を許せますか

ドイツ生まれのマレーネ・ディートリッヒ。妖艶な魅力で人を引き付けたマレーネこ魅力が詰まっています。

Marlene Dietrich
Marlene Dietrich (1901-1992) enregistrée le 11 mars 1931 dans une chanson de Friedrich Holländer. Il s'agit de la version gravée pour Polydor, différente de ...

出典:Marlene Dietrich

 

 

13位 私のブロンド・ベイビー

13位 私のブロンド・ベイビー

マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけました。

Marlene Dietrich - Quand L'Amour Meurt - YouTube
Marlene Dietrich - Quand L'Amour Meurt (Recorded from 1930 - 1939)

出典:Marlene Dietrich - Quand L'Amour Meurt - YouTube

 

 

12位 世界は若かった

12位 世界は若かった

マレーネ・ディートリッヒは、ハリウッド進出のきっかけとなった本作で、完璧なまでのファム・ファタールを体現して世界中を魅了しました。

Marlene Dietrich,  Du, Du, Liegst Mir Im Herzen. - YouTube
Marlene Dietrich. Old German Folk Song :

出典:Marlene Dietrich, Du, Du, Liegst Mir Im Herzen. - YouTube

 

11位 私は誰のものか知りません

11位 私は誰のものか知りません

リリー・マルレーンを思う兵士のやるせない心情が歌われ、第二次世界大戦中にドイツ軍を中心としたヨーロッパ各国の兵士らの間で流行歌となりました。

 
マレーネ・ディートリヒ - YouTube

出典:マレーネ・ディートリヒ - YouTube

 

 

マレーネディートリッヒの歌人気ランキング 10位〜6位

10位 小粋なローラ

10位 小粋なローラ

第1集の内容を補完するように、1928年にベルリンのレビューで活躍していた時代の録音から、“ドイツのセックス爆弾"としてハリウッドへ進出して大成功を収め、やがて第2次世界大戦が勃発、という時期の歌声が収録されています。

Marlene Dietrich Der Blonde Engel - 音楽CD | MUUSEO
1.金髪の女にご用心2.小粋なローラ3.フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン4.私は誰のものか知りません5.世界は若かった6.大都会に住んでいても孤独7.ジョニー(もし、貴方の誕生日だったら)8.さあ、皆さん(男の中の男)9.何故、泣かなくちゃいけないの10.ペーター11.私のブロンド・ベイビー12.パフ13.ハッシュ・リトル・ベイビー14.ちょっぴり孤独の側で15.マリー・マリー16.愛の嵐17.ハーモニカで聞いた歌18.リリー・マルレーン19.兵舎にて20.花はどこへ行った21.風に吹かれて22.若い恋人達のテーマ23.ベルリンのスーツ・ケース24.お母さん私を許せますか25.リトル・ドラマー・ボーイ [ジャンル] CD [タイトル] マレーネ・ディートリッヒ [メーカー名] 東芝EMI [レア度] 2 [入手した価格] 2548円 by Velvetミュージアム 【みんなの「音楽CD」コレクション】

出典:Marlene Dietrich Der Blonde Engel - 音楽CD | MUUSEO

 

 

9位 金髪の女にご用心

9位 金髪の女にご用心

現在まで、スタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌われるようになりました。シャルル・トレネの「ラ・メール」と並んでフランスで最も売れた曲と言われています。

Marlene Dietrich_
The Film from

出典:Marlene Dietrich_

 

 

8位  die antwort weiß ganz allein der wind

8位  die antwort weiß ganz allein der wind

第二次世界大戦下、兵士に愛されたドイツの名曲です。ヨーロッパ各地に広がり、広く歌われていた曲です。こちらはドイツ語バージョンで、マレーネディートリヒが歌っていたものです。

歌詞では、恋人リリー・マルレーンを思う兵士のやるせない心情が歌われ、第二次世界大戦中にドイツ軍を中心としたヨーロッパ各国の兵士らの間で流行歌となりました。『リリー・マルレーン Lili Marleen』の歌手としては、1939年のリリース時にレコーディングしたドイツの女優・歌手ララ・アンデルセンが有名です。

Marlene Dietrich   Die Antwort weiss ganz allein der Wind - YouTube
 

出典:Marlene Dietrich Die Antwort weiss ganz allein der Wind - YouTube

 

 

 

7位  la vie en rose

7位  la vie en rose

1946年のエディット・ピアフ(Édith Piaf)の代表曲です。ピアフ作詞、ルイギ(フランス語版)作曲。日本語では「ばら色の人生」の邦題でも知られています。現在まで、スタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌われるようになりました。シャルル・トレネの「ラ・メール」と並んでフランスで最も売れた曲と言われています。

この歌がヒットした当初、ピアフの同僚や彼女の作曲チームには予想外であったが、観客の人気を集めるようになりました。1998年製作のエディット・ピアフのドキュメンタリーも「La Vie en Rose」と名付けられました。

Marlene Dietrich - La Vie en Rose - YouTube
Berns Salonger, Stockholm. Oct .19th 1963

出典:Marlene Dietrich - La Vie en Rose - YouTube

 

 

 

6位 das hobellied

6位 das hobellied

Hobelliedは、 ウィーンの民俗劇 Der Verwenderの Ferdinand RaimundによるValentinのカプレットの1つとして書かれたもので、 Conradin Kreutzerが音楽を作曲しました。

歌は、ピーター・アレクサンダー、グスタフ ・ヴァルダウ、ポール・ホルビガー、ハンス・モーザー、ジョセフ ・マインラッド、ウォルター ・コウト 、ハインツ・ペッター、マレーネ・ディートリッヒなどの有名な俳優歌手によって歌われています。

Marlene Dietrich, Das Hobellied. - YouTube
Marlene Dietrich.

出典:Marlene Dietrich, Das Hobellied. - YouTube

 

 

マレーネディートリッヒの歌人気ランキング 5位〜1位

 

5位 愛の嵐

5位 愛の嵐

ドイツのヒットメーカーだったフリードリッヒ・ホレンダーによって作曲された1931年の作品です。グレタ・ケラーやマレーネ・ディートリッヒによって歌われたが、いずれもさらっとした雰囲気で歌われていました。

 

マレーネ・ディートリッヒが歌ったドイツの歌だが、映画ではヒロイン役のシャーロット・ランプリングが半裸で歌う猥雑なシーンになっています。

Marlene Dietrich and Friedrich Holländer - Wenn  ich mir was wünschen dürfte... 1930 - YouTube
Marlene Dietrich, Klavierbegl. Fr. Holländer - Wenn ich mir was wünschen dürfte (When I Presume To Wish For Something) (Holländer), HMV 1930 (Germany) NOTE: ...

出典:Marlene Dietrich and Friedrich Holländer - Wenn ich mir was wünschen dürfte... 1930 - YouTube

 

 

 

4位 リリー・マルレーン

4位 リリー・マルレーン

第二次世界大戦下、兵士に愛されたドイツの名曲です。ヨーロッパ各地に広がり、広く歌われていた曲です。こちらはドイツ語バージョンで、マレーネディートリヒが歌っていたものです。

歌詞では、恋人リリー・マルレーンを思う兵士のやるせない心情が歌われ、第二次世界大戦中にドイツ軍を中心としたヨーロッパ各国の兵士らの間で流行歌となりました。『リリー・マルレーン Lili Marleen』の歌手としては、1939年のリリース時にレコーディングしたドイツの女優・歌手ララ・アンデルセンが有名です。

リリーマルレーン Lili Marleen カタカナ歌詞【マレーネディートリッヒ Marlene Dietrich】 - YouTube
第二次世界大戦下、兵士に愛されたドイツの名曲、リリーマルレーン。ヨーロッパ各地に広がり、広く歌われた曲です。マレーネディートリヒの声を聞き取っていますが、ドイツ語独特の音がカタカナ表記できない場合があります。予めご了承下さい。他の洋楽はこちらに↓ ★リリーマルレーン英語版 https://foreign-song...

出典:リリーマルレーン Lili Marleen カタカナ歌詞【マレーネディートリッヒ Marlene Dietrich】 - YouTube

 

 

 

3位  裏部屋の男たち~映画「砂塵」より

3位  裏部屋の男たち~映画「砂塵」より

1939年に製作・公開されたアメリカ合衆国の映画からの一曲です。マレーネ・ディートリヒ初の西部劇映画であり、共演にジェームズ・ステュアート、ジョージ・マーシャルが監督しました。

この作品はトム・ミックスが主演した1932年版『ミックスの再起』のリメイクです。1996年、アメリカ議会図書館により「文化的、歴史的、審美的価値がある」としてアメリカ国立フィルム登録簿に登録されています。

 

 

 

2位 花はどこへ行った

2位 花はどこへ行った

世界で一番有名な反戦歌とも言われる[要出典]フォークの楽曲です。アメリカンフォークの父とも形容されるピート・シーガーによる作詞作曲であり、シーガーの代表作でもあります。

最初の録音の後、歌詞の一部をジョー・ヒッカーソン(Joe Hickerson)が補った形で広まったことから、シーガーとヒッカーソンの共作ともされる一曲になっています。

花はどこへ行った♫ 静かなる反戦の祈り - YouTube
「アメリカのフォークシンガーで反戦を訴えたピート・シーガーが、ロシアの文豪ショーロホフの

出典:花はどこへ行った♫ 静かなる反戦の祈り - YouTube

 

 

 

 
1位  また恋してしまったの~映画「嘆きの天使」より

1位  また恋してしまったの~映画「嘆きの天使」より

1930年のドイツ映画『嘆きの天使』で、生真面目な教授を破滅に導く踊り子を演じたマレーネ・ディートリッヒは、ハリウッド進出のきっかけとなった本作で、完璧なまでのファム・ファタールを体現して世界中を魅了しました。

アンニュイで退廃的な雰囲気と美貌に、ディートリッヒの代名詞となる100万ドルと称された脚線美、セクシーな歌声は、今もとても魅力的で人を引き付ける力がありますね。

Marlene Dietrich (マレーネ・ディートリッヒ)♪Falling In Love Again♪  (また恋したのよ)1930年 ドイツ 映画「嘆きの天使」より 78rpm record - YouTube
英国製 HMV style 6 蓄音機

出典:Marlene Dietrich (マレーネ・ディートリッヒ)♪Falling In Love Again♪ (また恋したのよ)1930年 ドイツ 映画「嘆きの天使」より 78rpm record - YouTube

 

マレーネディートリッヒの人気曲ランキングについてまとめ

マレーネディートリッヒの人気曲ランキングをご紹介しました。

1位  また恋してしまったの~映画「嘆きの天使」より
2位  花はどこへ行った
3位  裏部屋の男たち~映画「砂塵」より
4位  リリー・マルレーン
5位  愛の嵐

いかがでしたか?どれも名曲で、すてきな曲がたくさんありましたね。ぜひ、マレーネディートリッヒの歌人気ランキングを参考にして、お気に入りを見つけてみてください。

https://celeby-media.net/I0001547/&page=1

 

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マレーネ・ディートリヒ - YouTube

https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92

 

Marlene Dietrich - YouTube

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マレーネ・ディートリヒ - トピック - YouTube

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マレーネ・ディートリッヒ ザ・ベスト - YouTube

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Falling in Love Again - YouTube

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Merry Christmas and A Happy New Year from Marlene Dietrich - YouTube

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Musical Echoes of Marlene Dietrich - YouTube

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Feliz Navidad y próspero Año Nuevo de Marlene Dietrich - YouTube

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マレーネ・ディートリヒ - Wikipedia

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マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich、1901年12月27日 - 1992年5月6日)は、ドイツ出身の女優歌手

1920年代ヴァイマル共和国ドイツ映画全盛期に花開き、1930年代からはハリウッド映画に出演、1950年代以降は歌手としての活動が多かった。

経歴

生い立ち

アメリカの負傷兵を見舞う(1944年)

1901年に、プロイセン王国近衛警察士官の次女としてベルリンで生まれる[1]。幼くして父が病死、継父も第一次世界大戦で戦死した[2]。マレーネは生活費を稼ぐため酒場などで歌っていた。18歳で国立ヴァイマル音楽学校に入学しヴァイオリニストを目指すが、手首を痛めて音楽家の道を断念した。エリーザベトという姉がいたが、妹であるマレーネとは異なり容姿に恵まれず、2人は不仲であった[2]

映画デビュー

1921年マックス・ラインハルトの演劇学校に入学、翌年1922年9月に舞台デビュー、1923年4月までに5演目の7つの役で計92回舞台に立ったという[3]。また、舞台の合間にゲオルク・ヤコビドイツ語版監督の『小さなナポレオン英語版』のメイド役で映画デビュー[4]1924年に、助監督のルドルフ・ジーバーと結婚。同年12月には娘マリアを出産するが、ジーバーとは別居となる。夫はカトリックであり、離婚が認められていなかった。

1930年ベルリンの舞台に立っていたところを映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグに認められ、ドイツ映画最初期のトーキー作品『嘆きの天使』に出演。大きく弧を描く細い眉[注釈 1]に象徴される個性的かつ退廃的な美貌と、「100万ドルの脚線美」[注釈 2]と称えられるスタイル、加えてセクシーな歌声で国際的な名声を獲得した。

アメリカへ

同年、パラマウントに招かれてアメリカ合衆国に渡り、ゲイリー・クーパーと共演した『モロッコ』でハリウッド・デビュー、アカデミー主演女優賞にノミネートされた(『モロッコ』は日本語字幕映画の第1作である)。1932年の『上海特急』では先行して人気を得ていたスウェーデン出身のグレタ・ガルボと並ぶスターの座を確立する。ユダヤ人監督スタンバーグとのコンビで黄金時代を築く。

1935年の『西班牙狂想曲』がヒットしなかったのを最後に、スタンバーグ監督との公私にわたる関係を解消、しばらく低迷する。当時のドイツの指導者であるアドルフ・ヒトラーはマレーネがお気に入りだったようで、ドイツに戻るように要請したが、ナチス党を嫌ったマレーネはそれを断って、1939年にはアメリカの市民権を取得した[5]ため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となる。

アメリカ軍への慰問(1944年)

第二次世界大戦開戦後の1940年代に入ると西部劇ブロードウェイの舞台にも立って活躍した。また、ドイツ軍の占領下のフランスからジャン・ギャバンも渡米しており交際、やがて、自由フランス軍にギャバンは志願したが、文通は続け、やがて仏領アルジェリアで再会した。

第二次世界大戦中の1943年からは、アメリカ軍USO(前線兵士慰問機関)の一員として活動、アメリカ軍兵士の慰問にヨーロッパ各地を巡り、反ドイツの立場を明確にした。戦地で兵士が口ずさんでいた『リリー・マルレーン』をおぼえ、対独放送でも歌った。なお、1944年にはバルジの戦い中のアルデンヌにおいてアメリカ軍の慰問を行った際に急襲してきたドイツ軍に捕えられそうになったが直前に回避し事なきを得た。

1945年5月7日、マレーネは連合国軍が解放したベルゲン・ベルゼン強制収容所に姉のエリーザベトがいると知り、収容所に向かう[6]。マレーネは自身が反ナチスであるため、それが原因でナチスの不興を買い、エリーザベトが収容所に収容されていたと考えていたが、実際にはエリーザベトは夫と共にドイツ軍人用の映画館を経営しており、その映画館の客には収容所の看守もいた[7]。マレーネは対ドイツ戦のための慰問活動をしていたため、衝撃を受ける[7]。マレーネは姉の存在が今後の活動に支障が出ると考え、エリーザベトに生活の援助はするが、自身がマレーネの姉であることを口外しないように約束させた[7]

戦後、独ソ両軍による市街戦で壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に母は急死した[8]。また、戦後しばらくパリでギャバンと暮らしたが次第に疎遠となり別れた。第二次世界大戦中の功績によりアメリカからは1947年大統領自由勲章(アメリカ市民として最高の栄誉)、フランスからはレジオンドヌール勲章を授与された。1947年10月、フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフのアメリカ公演中に出会い親友になる。

歌手活動

若い女優の登場で映画出演の機会は減ったが、ラスベガスでのリサイタル依頼があり、成功をおさめ1950年代からは歌手としての活動が多くなり、アメリカ合衆国やヨーロッパを巡業。1958年からはバート・バカラックと組んでいる[9]1960年には念願の故郷ドイツでの公演を行った。マレーネは「裏切り者」と罵声を浴びせられながらも、暖かい歓待も受けるという彼女に対するドイツ人の複雑な感情を見せつけられた。1970年大阪万博(EXPO'70)と1974年に来日してコンサートを行った[注釈 3](1948年にも極東駐留の将兵への慰問のため日本にも立ち寄っており、その時に土産として買ったいわゆる豆カメラのひとつ「マイクロ」が報道され、同機の輸出が急速に伸びたという逸話がある[10])。

1976年、浮名を流したジャン・ギャバンと夫を立て続けに亡くした。

引退

1975年9月、オーストラリア、シドニーでのコンサート中に足を骨折して活動を引退せざるをえなくなる[11][12]。 引退後はパリに隠棲[12]。引退から時期がたってもファンレターは絶えず、「パリ市。マレーネ・ディートリヒ様」と書くだけで手紙が届いたという。引退後の姿はまったく謎に包まれており、人々の興味の対象となった。1982年秋には、マクシミリアン・シェルによるインタビューを受けている[12]。また、そのインタビューの中で、「きょうだいはいましたか?」と聞かれ、マレーネはたった一言「いいえ」と答えた[12]

ドイツの大衆紙『ビルト』が、ある老女の写真を「現在のマレーネ・ディートリヒだ」とスクープを出したことがあるが、彼女の親族によって否定された。

それまで生まれた地ベルリンを語ることはなかったが、1989年ベルリンの壁崩壊の際には、いつになく興奮して「私は生粋のベルリンっ子よ、素晴らしいわ私の街は自由よ」と語ったという。

死去

1992年パリ8区モンテーニュ大通りの自宅で死去。死因は肝臓と腎臓障害であったとされる。亡くなる前の12年間は寝たきりであったという。葬儀はパリのマドレーヌ寺院で行われ、その後遺骸がベルリンに移されベルリンでも葬儀が行われた。

その遺骸は同年、彼女の望み通りベルリンの母の墓の横に葬られた。死後、ベルリン中心のポツダム広場に隣接した広場が「マレーネ・ディートリヒ広場」と命名された。

2002年、ベルリン名誉市民となった。

自伝では同時代映画人達を毒舌も交えて回顧している。一度だけ組んだフリッツ・ラングには特に辛辣で、「いかにもドイツ人らしい野心家」と切り捨てている。ラングはユダヤ系のオーストリア人だが、同書ではユダヤ系もオーストリア生まれも区別なく、自らも含めて「ドイツ人らしい」という形容を良い意味でも悪い意味でも多用している。

主な出演作品

公開年 邦題
原題
役名 備考
1930 嘆きの天使
Der blaue Engel
The Blue Angel
ローラ・ローラ  
モロッコ
Morocco
アミー・ジョリー  
1931 間諜X27
Dishonored
X27  
1932 上海特急
Shanghai Express
上海リリー(マデリーン)  
ブロンド・ヴィナス
Blonde Venus
ヘレン・ファラデイ  
1933 恋の凱歌
The Song of Songs
リリー  
1934 恋のページェント
The Scarlet Empress
ゾフィア(後のエカチェリーナ2世  
1935 西班牙狂想曲
The Devil is a Woman
コンチャ・ペレス  
1936 真珠の頚飾
Desire
マドレーヌ・ド・ボープレ  
沙漠の花園
The Garden of Allah
ドミニ・エンフィルデン  
1937 鎧なき騎士
Knight Without Armour
アレクサンドラ・ウラディノフ  
天使
Angel
マリア・エンジェル・バーカー  
1939 砂塵
Destry Rides Again
フレンチー  
1940 妖花
Seven Sinners
ビジュー・ブランシュ  
1941 焔の女
The Flame of New Orleans
クレール・ルドゥー  
大雷雨
Manpower
フェイ・デュヴァル  
1942 淑女の求愛
The Lady Is Willing
エリザベス・マッデン  
スポイラース
The Spoilers
チェリー  
男性都市
Pittsburgh
ジョジー・ウィンターズ  
1944 キスメット
Kismet
ジャミラ  
1946 狂恋
Martin Roumagnac
ブランシュ・フェラン  
1947 黄金の耳飾り
Golden Earrings
リディア  
1948 異国の出来事
A Foreign Affair
エリカ・フォン・シュルートウ  
1950 舞台恐怖症
Stage Fright
シャーロット・インウッド  
1952 無頼の谷
Rancho Notorious
アルター・キーン  
1956 八十日間世界一周
Around the World in Eighty Days
サロンのホステス  
モンテカルロ物語
The Monte Carlo Story
マリア・ド・クレヴクール侯爵夫人  
1957 情婦
Witness for the Prosecution
クリスティーネ  
1958 黒い罠
Touch of Evil
ターニャ  
1961 ニュールンベルグ裁判
Judgment at Nuremberg
ベルトホルト夫人  
1964 パリで一緒に
Paris, When It Sizzles
本人 クレジットなし
1979 ジャスト・ア・ジゴロ
Schöner Gigolo, armer Gigolo
ゼーメリング男爵夫人 カメオ出演
1984 MARLENE/マレーネ
Marlene
  ナレーションのみ
 
  •  

著書

  • Dietrich, Marlene (1962). Marlene Dietrich's ABC. Doubleday
    • マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒのABC』福住治夫 訳(新版2005年)、フィルムアート社、1989年。ISBN 4845989778
  • Dietrich, Marlene (1979). Nehmt nur mein Leben: Reflexionen. Goldmann
    • マレーネ・ディートリッヒ『ディートリッヒ自伝』石井栄子・伊藤容子・中島弘子 訳、未来社、1990年。ISBN 4-62-471054-1
 

通称

本名はマリー・マグダレーネ・ディートリヒ(Marie Magdalene Dietrich)であるが、彼女はファーストネームミドルネームを合わせて1つとして現在良く知られている通称を自身で創造した。つまりMarie Magdaleneの太文字部分を合わせ、マレーネ・ディートリヒ(Marlene Dietrich)とした。

 

第二次世界大戦開戦後アフリカ戦線で敵味方両軍の間でブレークした『リリー・マルレーン』はララ・アンデルセンが最初にリリースしたものである。原題は"Lili Marleen"とディートリヒの通称・マレーネ("Marlene")とスペルが若干異なるが、英語読みすると似た発音になる。彼女は"Lili Marlene"としてカバーして、連合軍兵士を慰問した。日本では『リリー・マルレーン』はマレーネのオリジナルと見なされているほどである。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%92

 

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銀幕の大女優マレーネ・ディートリッヒはニューヨークのアパートで Electro-Voice のBaronet のスピーカーを使っていたらしく、1997年のサザビーズ・オークションに、GE社の"Stereo Classic 7700"ステレオアンプ、ガラード社のRC型オートチェジャーとセットで出品された。

 

モノラル時代のスピーカーは指向性が広いので、ステレオのように正面で聴くのではなく、部屋の響きを織り交ぜて斜め横から聴くのが本来の姿である。


コーナーホーンと言えばスピーカーの王様のごとく高額な大型システムを思い浮かべるかもしれないが、1950年代に Electro-Voice のコーナーホーン箱が7種類あったなかで、Baronetは最も小さい末っ子。


 Baronet の高さ 50cm×幅35cm はこの時代のコーナーホーンの中でも最も小さいもので、逆に言えば、RCA MI-4400(ラビリンス箱)や Lowther TP1、あるいは広告だけだった JBL Hartsfield などの特別な存在を除くと、一般の人が手に入れられる8インチ用のエンクロージャーでは、もっとも複雑な構造をもつものともいえる。


Baronetは、Klipsch Horn社からFolded Corner Hornのパテント(US Pat. 2310243、2373692)の供与を受けており、おそらく Paul Wilbur Klipsch 自身が設計したコーナー型バックロードホーン箱である。

Klipsch 氏の特許は基本的にKホーンと呼ばれる低域キャビネットにあり、Patrician や Georgian に搭載されている。

本家の Kllipsch ホーンにはエレボイのユニットを搭載したバージョンもあったことから、両社は良い協力関係にあったといえる。Baronet、Aristcrat、Regency などはそれより小さいシリーズはショート・バックロードホーンであり、エレボイからの要請をうけて設計しなおしたと思われる。


 Klipsch氏は日本ではあまり有名ではないが、1940年にコーナーホーンを特許申請し、1935年に J.B.Lansing 氏が開発したシェラーホーンとは違い、家庭用で劇場並の迫力ある低音再生を可能にしたもの。

この方式の面白さは、低音再生を強制的な電気増幅や共振ではなく、実物大のアコースティックな響きで解決した結果、大容量のホールの感覚に近い空気感が得られるところにある。(逆に言えば、クラブ・ジャズのようなタイトな低音とは異なる) 

英米のスピーカー製造における Klipsch 氏の影響力は非常に大きく、1940~50年代においてどのメーカーもコーナー型バックロードホーンが最も高級機種として羽振りをきかせていた。

ちなみにアメリカン・タンノイと呼ばれる機種は、米国で Klipsch 氏の特許があるので販売できなかったため製造されたもの。

コーナーホーンの多くが日本で有名ではない理由は、ひとつは家屋の規模の問題、もうひとつは物品税が高価なため、システムでのスピーカー輸入が阻まれた結果、バラ売りユニットの性能だけが幅を効かせて、エンクロージャーの性能まで思いが及ばなかったからであろう。


Hi-Fi初期の1950年代は、キット製品に人気があり、アンプをはじめエンクロージャーのマニュアルや図面を¢50~$1で売っていた。

当時は Hi-Fi機器が電蓄から抜け出したばかりの時代で、例えば Decca 社の Decola のような一体型コンソールは超高級品であって、Hi-Fi 対応のパーツを掻き集めたバラ売りが最も経済的だった。


KD7キットの言葉を借りると

「Baronet はその名のとおり、Hi-Fiスピーカー用のエンクロージャーとして、小さなアパート、子ども部屋、避暑地の別荘など、重たく嵩張るものが歓迎されないどの場所でも良質な音楽の要求に応えます。

Baronet の造りは大きな容積のエンクロージャーではありませんが、再生音の高忠実性と周波数特性を犠牲にしません」とある。

当時の量販店の広告にも「省スペース(Space Saver)システム」という文字が躍るほどで、ミニマムなオーディオ・システムとしてBaronetは注目を浴びていた。

 Baronetの置き方はこのコンパクトな箱により、標準とされるコーナー&床置きはもとより、壁掛けやディスクトップの置き方も多くみられる。

私もモノラルならディスクトップがお勧めである(壁掛けは昔の校内放送の思い出が悪くあまり気乗りしない)。

エレボイ社のカタログには "for Close Lisning" と書いてあり、ややモニター的な聴き方に近いような気がするが、パーソナルに音楽を楽しむために、小音量でちょっとした読書コーナーを作るには最適である。

モノラル時代のスピーカーは指向性が広いので、ステレオのように正面で聴くのではなく、部屋の響きを織り交ぜて斜め横から聴くのが本来の姿である。


http://quwa.fc2web.com/Audio-103.html

 

上の図版でも女性の姿が目立つが、Baronetは大げさではなく音楽を楽しみたいユーザーに希求していて、シンプル=人間の生活中心の思想が現れている。

これはエレボイの看板「Temple of Tone(音響の神殿)」とは趣向が大きく違うものの、Baronetのもつ可能性を巧く言い当てているように思える。

 

 かの銀幕の大女優マレーネ・ディートリッヒも、ニューヨークのアパートでBaronet(それもフルレンジのみの初期型)を使っていたらしく、1997年のサザビーズ・オークションに、GE社の"Stereo Classic 7700"ステレオアンプ、ガラード社のRC型オートチェジャーとセットで出品された。

 

アパートの居間はグランドピアノを置くサロン風の部屋だが、よくヨーロッパの音楽家が比較的質素なステレオを自宅に置いていることの例に漏れず小粒なシステムながら、いずれも1950年代のビンテージである。

 

映画用の Altec ではなく、さりとてステレオ時代に躍進した JBLや ARでもなく、初期型の Baronetであるあたりは、彼女の活躍した時期を考えると、これがちょうど良かったのかもしれない。ゴージャスなジャズ・バンドを従えるよりは、ピアノに寄り添って静かに歌う彼女の姿とも重なる。
http://quwa.fc2web.com/Audio-103.html