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ララ・アンデルセン『リリー・マルレーン Lili Marlene』
1939 Lale Andersen - Lili Marlene (original German version)
Original 78rpm issued on Electrola 6993 - Lied eines Jungen Wachtpostens (Lili Marlen) (Schultze-Leip) by Lale Andersen with Bruno Seidler-Winkler Orch. & Chorus, recorded August 2, 1939
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"Lili Marleen" (Lale Andersen, 1942 [English Version])
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"Lili Marleen" Lale Andersen 1954
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Lili Marleen - Lale Andersen 1962
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歌詞
- Vor der Kaserne vor dem großen Tor
- Stand eine Laterne
- Und steht sie noch davor
- So wollen wir da uns wiedersehn
- Bei der Laterne wollen wir stehen
- Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen
- Unsre beiden Schatten sahen wie einer aus;
- Dass wir so lieb uns hatten
- Das sah man gleich daraus
- Und alle Leute sollen es sehen
- Wenn wir bei der Laterne stehen
- Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen
- Schon rief der Posten: Sie bliesen Zapfenstreich;
- Es kann drei Tage kosten
- Kam'rad, ich komm ja gleich
- Da sagten wir auf Wiedersehn
- Wie gerne würd' ich mit dir gehn
- Mit dir Lili Marleen Mit dir Lili Marleen
- Deine Schritte kennt sie
- Deinen schönen Gang
- Aller Abend brennt sie Doch mich vergaß sie lang
- Und sollte mir eine Leids geschehn
- Wer wird bei der Laterne stehn
- Mit dir Lili Marleen? Mit dir Lili Marleen?
- Aus dem stillen Raume
- Aus der Erde Grund
- Hebt mich wie im Traume dein verliebter Mund
- Wenn sich die späten Nebel drehen
- Werd' ich bei der Laterne stehen
- Wie einst Lili Marleen Wie einst Lili Marleen
-
略訳
- 兵営の前、門の向かいに
- 街灯が立っていたね
- 今もあるのなら、そこで会おう
- また街灯のそばで会おうよ
- 昔みたいに リリー・マルレーン
- 俺たち2人の影が、1つになってた
- 俺たち本当に愛しあっていた
- ひと目見ればわかるほど
- また会えたなら、あの頃みたいに
- リリー・マルレーン
- もう門限の時間がやってきた
- 「ラッパが鳴っているぞ、遅れたら営倉3日だ」
- 「わかりました、すぐ行きます」
- だから俺たちお別れを言った
- 君と一緒にいるべきだったのか
- リリー・マルレーン
- もう長いあいだ見ていない
- 毎晩聞いていた、君の靴の音
- やってくる君の姿
- 俺にツキがなく、もしものことがあったなら
- あの街灯のそばに、誰が立つんだろう
- 誰が君と一緒にいるんだろう
- たまの静かな時には
- 君の口元を思い出すんだ
- 夜霧が渦を巻く晩には
- あの街灯の下に立っているから
- 昔みたいに リリー・マルレーン
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『リリー・マルレーン』(Lili Marleen)は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲。ドイツの歌手・女優、ララ・アンデルセンが1939年2月に録音したバージョンがヨーロッパ全体でヒットした。
1915年にロシアへの出征を前にドイツの詩人ハンス・ライプ(Hans Leip)が、ベルリンのある兵営の営門に歩哨に立った時に創作した詩集『Das Lied eines jungen Soldaten auf der Wacht』(邦題・港の小さな手風琴)に収録されていた詩を原典として、第二次世界大戦直前の1938年に、作曲家ノルベルト・シュルツェ(Norbert Schultze)が曲をつけた。
大戦下での流行
1939年に発売した当初、アンデルセンのレコードは60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、それ以後も放送で繰り返しかけられて人気を得た[1]。もしくは、ベオグラード放送局の職員が、リリー・マルレーンを気に入っていた友人のために放送したとも言われる。
第二次世界大戦下の一時期、21時57分にベオグラードのドイツ軍放送局から流れたこの歌に、多くのドイツ兵が戦場で耳を傾けて故郷を懐かしみ、涙を流したといわれている。また、ドイツ兵のみならずイギリス兵の間にも流行したため、北アフリカ戦線のイギリス軍司令部は同放送を聞くことを禁じた。
アンデルセンは慰問で人気者になったが、長くは続かなかった。1942年夏、アンデルセンと親しい関係にあったロルフ・リーバーマンがユダヤ人であったことが当局に知られてアンデルセンは歌手活動が禁止され、アンデルセン盤の原盤が廃棄される事態となる。ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相の指示により「リリー・マルレーン」のタイトルとメロディ自体は残され、別バージョンが作られた。
カバー
歌の主語は明らかに男性兵士だが、何故か女性歌手によって歌われることが多い。日本でのカバーについては後述する。
ベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒの持ち歌としても知られている。第二次世界大戦当時、ナチス政権下のドイツを離れ、アメリカの市民権を得ていたディートリヒは進んで連合軍兵士を慰問し、この歌を歌った。そのため、ディートリヒはドイツで敵側の人間(反逆者)と見なされ、ドイツでは戦後も不人気となった。
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ララ・アンデルセン - トピック
https://www.youtube.com/channel/UC_fuLEQxc0bINZv-ytIza0w
ララ・アンデルセン & ウィナー・ミュラーズ・オーケストラ
作成者: 日向唏
https://www.youtube.com/playlist?list=PLjhGDPdc9KahDKNFTS0BsIiT_JeBQ3BD0
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ララ・アンデルセン(Lale Andersen , 本名リーゼロッテ・ヘレネ・ベルタ・ボイル、1905年3月23日 - 1972年8月29日)は、ドイツの歌手・女優。第二次世界大戦中に歌った「リリー・マルレーン」は世界的なヒットとなった。
生い立ち
ララは1905年北ドイツの港町ブレーマーハーフェンに生まれた。17歳で画家パウル・エルンスト・ヴィルケ(1894年 - 1971年)と結婚、3人の子供(ビョルン、カルメン・リッタ、ミヒャエル)が生まれるが、3人目の子が生まれてすぐ結婚は破綻した。1929年、24歳のララは子供たちを家族に預けてベルリンへ行き、ドイツ劇場の俳優養成学校に通ったと言われている。1931年に正式に離婚すると、ベルリンのキャバレーなどのステージに立つようになったが、当時の芸名は「リゼロット・ヴィルケ」であった。1933年から1937年まで、チューリッヒの劇場に出演していた際、生涯の友人となる作曲家ロルフ・リーバーマン(1910年 - 1999年)と出会う。1938年以降は、ミュンヘンのキャバレーや小劇場に出演し、ドイツ民謡(Volkslied)、シャンソン、流行のヒット曲などを歌っていた。この頃の芸名は「ララ・アンデルセン」となっている。1937年にハイデルベルクでピアニストのカール・フリードリヒ・パッシェと知り合い、その後6年間、舞台やレコード録音の際のピアノ伴奏を任せている。1943年にパッシェが出征した後、ララは結局パッシェ以上のピアニストにはめぐり会えなかった。
ララとリリー・マルレーン
1939年、ミュンヘンのキャバレーに出演していた際にララはひとつの歌に出会った。ハンス・ライプ(1893年 - 1983年)の詩にノルベルト・シュルツェ(1911年 - 2002年)が曲をつけた歌「リリー・マルレーン」である。ララはこの曲をレコーディングしたが、当時は約700枚がリリースされただけであり、60枚しか売れなかったと言われている。しかし、販売店に山積みになっていた売れ残りのレコードから、店員がドイツ軍の前線慰問用レコード200枚の中に2枚紛れ込ませた。それが1941年の秋に初めて流され、以後放送で繰り返しかけられて人気を得た。ナチス・ドイツ占領下のベオグラードラジオが所蔵する数少ないレコードの中の1枚であった。
しかし、恋人たちの別離を歌った陰鬱な歌詞が士気に悪影響を及ぼすとして、ナチス政府の宣伝相ゲッベルスはこの曲を嫌悪し、ラジオ放送を禁止とする処分を下した。それでも戦地での兵士の人気は一向に衰えず、なぜラジオで流れないのかという問い合わせが多数寄せられたため、ベオグラード・ラジオは放送終了直前、毎晩21時57分に「リリー・マルレーン」を流す決定をした。毎晩21時57分になると、戦場ではドイツ軍、連合国軍を問わず、兵士たちはラジオをつけて聴いていた。
「リリー・マルレーン」を取り上げられ、チューリッヒで親しくなったリーバーマン初め多くの音楽家たちがユダヤ人であったこともあり、ララは歌手活動を禁じられてしまい、自殺を図るが未遂に終わる。9ヶ月後、歌手活動の再開を許可されたものの、ララは帝国文化院(Reichskulturkammer)の監督下に置かれ、「リリー・マルレーン」を歌うことは許されなかった。ゲッベルスの命令で「勇壮なドラム伴奏を付けた軍歌版」の「リリー・マルレーン」を新たに作ったほか、終戦までの活動としてはプロパガンダに関するものばかりで、映画への出演が1本と英語で何曲か歌うのみであった。しかし「リリー・マルレーン」は、マレーネ・ディートリヒが曲をカバーして米軍を慰問したこともあり、アメリカにも広まっていった。
再婚と歌手への復帰
終戦の直前、ララは北海に浮かぶ東フリースラント諸島のランゲオーク島に移住して、歌手としては引退するが、1949年にスイス人作曲家アルトゥール・ボイル(1915年 - 2010年)と再婚した。1952年、ララは自分で作詞しボイルが作曲した歌で歌手に復帰し、1956年にはある映画の中で「リリー・マルレーン」を歌っている。1960年代にはヨーロッパとアメリカ、カナダのコンサート・ツアーを敢行したほか、1970年になるとテレビ番組に多数出演して活躍した。夫ボイルはララのために約20曲の歌を作り、ララ本人も作詞を手がけている(作詞時のペンネームはニコラ・ヴィルケ)。1969年と1972年に本を出版、1972年の自伝は当時のベストセラーになったが、その出版直後、ウィーンで死亡した(死因については心臓発作か肝臓癌か不明)。67歳。遺体はランゲオーク島に埋葬されている。
映画『リリー・マルレーン』
1981年に楽曲『リリー・マルレーン』を題材にした西ドイツ映画『リリー・マルレーン(ドイツ語版)』が公開された。
監督:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、主演:ハンナ・シグラ。
主人公の歌手・ヴィリーが戦争に翻弄される悲劇が描かれるが、ララと思しき主人公など登場人物の背景には事実と異なる点が多い。また日本では、この映画は事前の予想に反し全く不発だった。
著書
Wie werde ich Haifisch? – Ein heiterer Ratgeber für alle, die Schlager singen, texten oder komponieren wollen(1969年)
Der Himmel hat viele Farben(1972年)