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エディット・ピアフÉdith Piaf1915年12月19日 - 1963年10月10日
 
 



【フランス語】愛の讃歌 (Hymne à l'amour) (日本語字幕) - YouTube



日本でも美輪明宏越路吹雪をはじめ色々な歌手のカバーでよく知られている、フランスの国民的シャンソン歌手エディット・ピアフ(Édith Piaf, 1915-1963)のこの歌は、ピアフの作詞、マルグリット・モノー(Marguerite Monnot)の作曲により、1950年に録音されました。1958年のパリ・オランピア劇場でのライブ録音より。
 
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愛の讃歌」(Hymne à l'amour])は、フランスシャンソン歌手エディット・ピアフの歌。作詞はピアフ、作曲はマルグリット・モノーフランス語版英語版による。シャンソンを代表する楽曲として世界中で親しまれている。

 

本作の歌詞は1947年10月、ピアフがアメリカ初公演時に出会い、恋の相手であったプロボクサーマルセル・セルダンが1949年10月28日に飛行機事故で亡くなったのを悼んで作られたと言われてきたが、セルダンの生前に書かれたものであることが判明している。相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子を持つセルダンとの恋愛に終止符を打つために書いたものだと考えられている。レコーディング1950年5月2日

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E8%AE%83%E6%AD%8C

 

 
2016年 10月 10日

エディット・ピアフの「愛の賛歌」日本語訳詞では、本当のところが実感できないのです、の巻。(笑)

https://mitchhaga.exblog.jp/26048894/

エディット・ピアフの「愛の賛歌」日本語訳詞では、本当のところが実感できないのです、の巻。(笑)_c0257904_23273866.jpg
 
えーっ、オリジナルのフランス語からの訳詞ですが、後半部分だけの部分訳でした。すると、『ケチケチせずに、全訳せよ』との、ご要望を頂きましたので、身の程もわきまえず、追加いたしました。何とぞ、ご笑覧を。(笑)
 
はい、この歌は、日本では越路吹雪さんが歌われて有名ですよね。日本語訳詞は岩谷時子さん、まことに見事な訳であります。日本語訳詞は例えばここあたり。
 
越路吹雪 愛の讃歌 歌詞 - 歌ネット
 
 
その名訳でなぜ実感できないのか。
まずは、状況を整理してみましょう。
 
時は1949年10月27-28日です。フランスは、パリ・オルリー空港を飛び立ったニューヨーク行き定期便ロッキードコンステレーションが、中継地アゾレス諸島サンタマリア空港近くの島に墜落し、乗員・乗客全員が死亡する事故が発生します。
この機の乗客の一人が、当時フランス中を湧かせていたボクシングの世界チャンピオン、マルセル・セルダンでした。彼は妻と3人の子がいましたが、エディット・ピアフと恋仲であり、ニューヨークで二人は会う予定でした。
ピアフはそれでも予定されていたステージに立ちます。彼女の親友である、女優マレーネ・ディートリッヒは「愛の賛歌」を歌うのを思いとどまるように頼みますが、ピアフは敢えて歌うのです。
 
なお「愛の賛歌」自体はこの事故が起きる少し前に作られており、1949年9月14日にニューヨークのキャバレー・ヴェルサイユでピアフが歌ったのが初演だそうです。(彼女がこの歌を吹き込むのは翌年の5月2日です)
 
ではなぜ、ディートリッヒはピアフが「愛の賛歌」を歌うのを止めようとしたのでしょうか。それは、『危険な歌詞であったから』です。
ここが日本語訳詞では分からない所ですね。日本語訳詞は熱烈な愛の歌ではあるが、危険な匂いはありません。
 
まずはオリジナルのフランス語歌詞
 
『Hymne à l'amour
 
Le ciel bleu sur nous peut s’effondrer
Et la terre peut bien s’écrouler,
Peu m’importe si tu m’aimes,
Je me fous du monde entier.
 
 
Tant que l’amour inondera mes matins,
Tant que mon corps frémira sous tes mains,
Peu m’importent les problèmes,
Mon amour puisque tu m’aimes.
 
 
J’irais jusqu’au bout du monde,
Je me ferais teindre en blonde,
Si tu me le demandais.
J’irais décrocher la lune,
J’irais voler la fortune,
Si tu me le demandais.
 
Je renierais ma patrie,
Je renierais mes amis,
Si tu me le demandais.
On peut bien rire de moi,
Je ferais n’importe quoi
Si tu me le demandais.
 
Si un jour la vie t’arrache à moi,
Si tu meurs que tu sois loin de moi,
Peu m'importe si tu m’aimes
Car moi je mourrai aussi.
 
Nous aurons pour nous l’éternité,
Dans le bleu de toute l’immensité.
Dans le ciel, plus de problèmes.
Mon amour crois-tu qu’on s’aime ?
Dieu réunit ceux qui s’aiment.』
 
つづいて、みっちのお粗末なる日本語訳詞(汗)
 
『愛の賛歌
 
もしも蒼空が崩れ落ち
そして地が割れようとも
私は気にしない、あなたが愛してくれるなら
私は気にしない
 
私の朝が愛で溢れるかぎり
私の体があなたの腕の中で震えるかぎり
私は気にしない
あなたが私を愛してくれるなら
 
私は世界の果てまで行くわ
私はブロンドの髪にしてみせる
あなたが求めるなら
私は月にだって行く
私は大金も盗んでみせる
あなたが求めるなら
 
私は国を捨て
私は友を捨てる
あなたがそれを望むなら
人にどう笑われようと
私は何でもする
あなたが望むなら
 
もしもある日、運命があなたと私を引き裂き
もしもあなたが死に、遠い存在となっても
構わないわ、あなたが愛してくれるなら
なぜなら、私も一緒に死ぬから
 
私たちは永遠に一緒
果てしない蒼空に
天国には憂いはない
あなた、お互いの愛を信じてる?
神よ、愛し合う2人を再び結ばせたまえ』
 
 
どうでしょう。やっぱり、ちょっと危険な歌詞ですよね。ディートリッヒがピアフの身を心配して、止めたのも分かります。
さて、この事故機には、もう一人フランスの有名人、音楽家ジネット・ヌヴーが搭乗していました。彼女はまだ30歳、将来を嘱望される、天才ヴァイオリニストでした。
偉大な女性ヴァイオリニストとして認められた、世界初の人であったと思います。
 
今回の記事冒頭の画像は、あの運命の日、問題のエールフランス機に乗り込む直前の2人の姿。ヌヴーがセルダンに愛器ストラディヴァリウスを見せているところです。
なお、ヌヴーストラディヴァリウスは1730年製、彼女が1935年のコンクールに出場する際に購入され、その後の成功を共にしたものでした。(彼女はこのコンクールで、あのダヴィッド・オイストラフを抑えて優勝しています)
事故により、このストラディヴァリウスは失われたのですが、どうも丈夫に出来ていたヴァイオリンケースと弓は回収されたようです。肝心のストラディヴァリウスともう一挺の予備のガダニーニは遂に回収されませんでした。ただ、何年か後に、ガダニーニの渦巻き部分がパリで発見されたそうです。誰かが残骸を拾ったのでしょうか。
 
 
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Edith Piaf - Autumn Leaves (Les Feuilles Mortes)



 

枯葉 [歌詞和訳]:Les Feuilles Mortes、Autumn Leaves


イブ・モンタンジュリエット・グレコのフランス語バージョン
エディット・ピアフの英語バージョン。

これが私にとっての「枯葉」のベスト3です。


「枯葉」(Les Feuilles Mortes、Autumn Leaves)は、ジョゼフ・コズマ(Joseph Kosma)の曲に映画「夜の門」(Les Portes de la Nuit )の挿入歌のためにジャック・プレヴェール(Jacques Prévert)が詩を付けました。映画では若きイブ・モンタンが歌っていました。

そして後に、この歌をジュリエット・グレコが歌いヒットさせ、それによりアメリカに移入され、「ムーン・リバー」などの作詞家ジョニー・マーサー(Johnny Mercer)が「Autumn Leaves」として英語の詩を付けました。

英語のバージョンはナット・キング・コールフランク・シナトラなど多くの歌手にカバーされ、スタンダード・ナンバーとなりました。ジャズではスタン・ゲッツが最初に取り上げました。

英語バージョンではヴァースの部分が省かれ、歌詞も過去の恋愛の思い出として訳されています。本当はヴァースにこの歌の味わい深さがあると思うのですが…。

また、ジャック・プレヴェールの原詩は過去の恋愛のみを書いたものではなく、秋の枯葉や海に消える砂の上の足跡に託して、人生の秋を表現しています。この歌が単なる失恋や思い出の歌以上に味わい深いのは、その人生の余情を感じさせるからで、それがヴァースの部分です。

フランス語の原詩もフル・バージョンで歌われることは少ないのですが、省略された2番目のヴァースには、過去の思い出や悔恨からの決別を書いた部分があります。ヒット曲には少し複雑な感情の部分であり、恋愛にテーマを絞ったほうが売れるため省略されるのだと思いますが、ジャック・プレヴェールが詩人であることを示す重要なヴァースなので少し残念です。

とは言え、この曲はシャンソンの名曲中の名曲です。

 

Les Feuilles Mortes フランス語歌詞

Oh je voudrais tant que tu te souviennes
Des jours heureux ou nous étions amis
En ce temps là, la vie était plus belle
Et le soleil plus brûlant qu’aujourd’hui
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle
Tu vois je n’ai pas oublié
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle
Les souvenirs et les regrets aussi
Et le vent du nord les emportent
Dans la nuit froide de l’oubli
Tu vois, je n’ai pas oublié
La chanson que tu me chantais

C’est une chanson, qui nous ressemble
Toi tu m’aimais, et je t’aimais
Et nous vivions, tous deux ensemble
Toi qui m’aimait, moi qui t’aimais
Mais la vie sépare ceux qui s’aiment
Tout doucement sans faire de bruit
Et la mer efface sur le sable
Le pas des amants désunis

C’est une chanson, qui nous ressemble
Toi tu m’aimais, Et je t’aimais
Et nous vivions, tous deux ensemble
Toi qui m’aimait, moi qui t’aimais
Mais la vie sépare ceux qui s’aime
Tout doucement sans faire de bruit
Et la mer efface sur le sable
Le pas des amants désunis.


枯葉(意訳)

ああ私はあなたを忘れはしない
私たちが友人でいた幸せな日々を
あの頃、今日よりも人生は美しく
そして、太陽は明るかった
枯葉がシャベルに集められる
あなたは私が忘れていないことを知っている
枯葉がシャベルに集められる
想い出と後悔とともに
そして、北風がそれらを運び去る
忘却の冷たい夜へ
あなたは私が忘れていないことを知っている
あなたが私に歌ってくれた歌を

それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう

それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう


Autumn Leaves 英語歌詞

The falling leaves drift by the window
The autumn leaves of red and gold
I see your lips, the summer kisses
The sun-burned hands I used to hold

Since you went away the days grow long
And soon I’ll hear old winter’s song
But I miss you most of all my darling
When autumn leaves start to fall

C’est une chanson, qui nous ressemble
Toi tu m’aimais et je t’aimais
Nous vivions tous, les deux ensemble
Toi que m’aimais moi qui t’aimais
Mais la vie sépare ceux qui s’aiment
Tout doucement sans faire de bruit
Et la mer efface sur le sable les pas des amants désunis 


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枯葉 (歌曲) - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E8%91%89_(%E6%AD%8C%E6%9B%B2)

 

『枯葉』(Les Feuilles mortes )は、シャンソンの代表的な楽曲である。

1945年ジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けた。ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成る。

第二次世界大戦後のシャンソンとして、世界的にも有名なスタンダードである。 また、いち早くジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどのレコーディングが存在することでも知られる。

フランス語の原詞のほか、日本語をはじめ各国語の歌詞を与えられ、広く歌われている。 ヘンデルパッサカリアと曲想が類似しているとの研究がある。

 

オリジナル「Les Feuilles mortes」

1945年、ローラン・プティ・バレエ団のステージ「Rendez-vous」の伴奏音楽の一つとしてコズマが作曲したメロディーが原型である。このステージからモチーフを得て翌1946年に製作されたマルセル・カルネ監督の映画「夜の門」(Les Portes de la Nuit )で挿入歌として用いられることになり、映画の脚本にも携わったプレヴェールが新たに詞を付けた。なお、プレヴェールとコズマは、戦時中に製作されたカルネ監督の名作映画「天井桟敷の人々」にもそれぞれ脚本と音楽で携わっていた。歌自体は1947年に出版登録されている。

映画「夜の門」は戦後の世相を背景とした群像劇で、映画に出演した新人歌手イヴ・モンタンによって劇中で歌われたのが歌曲としての「枯葉」のオリジナルとなったが、このバージョンは映画共々ヒットしなかった。しかし、これに続いて当時人気があった知性派のシャンソン歌手ジュリエット・グレコが歌ったことで「枯葉」は世に認知されるようになり、1940年代末から1950年代にかけ広まって、シャンソン界のスタンダード曲となった。

歌手コラ・ヴォケールは1948年にこの曲を取り上げて歌うようになり、何度か録音も行っている。彼女の抑制された端整な歌唱によるヴァージョンはこの曲のもっとも優れた解釈の一つであり、アメリカの大学においてフランス語の授業に「フランス語の美しい発音のサンプル」として使われたというエピソードもある。他にも戦後に活躍した多くのフランス人歌手たちによって歌われており、反骨のアーティストであるセルジュ・ゲンスブールもこの歌を歌っている。

 

英語版「Autumn Leaves」

フランス語歌曲の「枯葉」が、ポピュラー音楽大国のアメリカ合衆国に持ちこまれたのは1949年である。しかし、フランス語の歌詞ではアメリカの一般大衆相手に売れるはずもなく、アメリカでこの曲を売り出そうとしたキャピトル・レコードの方針で、英語歌詞が付けられ、"Autumn Leaves"という英語題で発表された。

 

英語詞を作詞したのはキャピトル・レコードの創立者でもあったジョニー・マーサーである。彼はそれ以前から「P・S・アイ・ラブ・ユー」「ワン・フォー・マイ・ベイビー」「ザッツ・オールド・ブラック・マジック」など数々のヒット曲を作詞し、後にはヘンリー・マンシーニとのコンビで「ムーン・リバー」「酒とバラの日々」の作詞も手がけた作詞家であるが、「枯葉」についてはプレヴェールの原詞に比してかなり感傷過多な内容の歌詞を書いている。

 

この際、マーサーはなぜか、歌の前説となるヴァースの部分に歌詞を付けず、後半のコーラス部分のみを作詞した(「枯葉」のヴァース部分は、ポピュラー音楽としては地味で長いのは確かである)。その結果、アメリカではこの曲のヴァースの部分が(たとえインストゥルメンタルであっても)省略され、なおかつ若干引き延ばされた形で流布してしまい、誰もヴァースを知らないという状況になってしまった。

 

最初にこの英語詞を歌ったのは、1950年のビング・クロスビーであった。以後、1952年のナット・キング・コールのバージョンなどボーカルを中心に何種かのバージョンが送り出されたが決定打にはならず、本格的に広まったのはインストゥルメンタル版でポピュラー・ピアニストのロジャー・ウィリアムズRoger Williams)がヒットを飛ばしてからであった。ウィリアムスのバージョンは、枯葉の舞い散る様をピアノで模したきらびやかなアレンジが大衆に大受けして1955年に全米ヒットチャートで4週連続第1位を達成している。

 

以後、アメリカのポピュラー音楽界におけるスタンダードナンバーとして広く歌われるようになり、フランク・シナトラをはじめとする多くの有名歌手のレパートリーとなった。外国から移入された曲でアメリカのスタンダードナンバーとなった曲では、おそらく「ベサメ・ムーチョ」「イパネマの娘」「イエスタデイ」等と並んでもっとも人気を博した曲の一つであろう。

 

ウィリアムズの影響で、この曲は以後もムード音楽分野では、ストリングスやピアノを用いて無闇に甘ったるく切々と演奏されるのが定番のスタイルとなった。有名無名を問わず無数のオーケストラやピアニストに演奏されるこの種の俗流「枯葉」は、エレベーターミュージック(elevator music:エレベーターの中で流すようなBGM)の大スタンダードナンバーとなり、現在でも全世界のデパートスーパーマーケットコーヒーショップのBGMとして頻繁に流されている。その結果善し悪しは別として日夜新たな聴き手を開拓し、「誰でも聴いたことのある曲」として「枯葉」の知名度を高めている。

 

ジャズの分野では1952年にスタン・ゲッツが録音したのが先駆だったが、ポピュラー界でスタンダードとなったことと、コーラス部分の独特のコード進行がアドリブの素材として好まれたことから、1950年代後半以降、多くの有名なジャズメンによって取り上げられた。ミディアム・テンポで演奏されるキャノンボール・アダレイブルーノート盤『サムシン・エルス』(1958年録音、実質的にはマイルス・デイヴィスのリーダーアルバム)、急速調のピアノで多彩なアドリブを展開するビル・エヴァンスリバーサイド盤『ポートレイト・イン・ジャズ』(1959年録音)は独自の解釈を持ち込んだモード・ジャズを代表とする演奏として殊に有名であり、キース・ジャレットチック・コリア等、コンテンプラリー・ジャズを代表するピアニストに大きな影響を与え続けている。またサラ・ヴォーンのパブロ盤(1982年録音)は原曲の姿をまったく留めないまでの縦横無尽な超高速スキャットで歌われ、その過激さから激しい賛否両論を呼んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E8%91%89_(%E6%AD%8C%E6%9B%B2)

  

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アコーディオン弾き(エディット・ピアフ

Edith Piaf - L' Accordeoniste - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=Edith+Piaf+-+L%27+Accordeoniste+

 

Edith PIAF- " L'Accordéoniste " アコーディオン弾き (1939)


78rpm / France POLYDOR-524 669
recorded in 1939
on HMV-163 gramophone

 

Edith Piaf "L'accordéoniste" | Archive INA


03 avril 1954
Au cours de l'émission "La joie de vivre", Edith Piaf interprète "L'accordéoniste" de Michel Emer.

 

Edith PIAF- " L'Accordéoniste " アコーディオン弾き

L'accordéoniste (2012 Remastered)


L'accordéoniste (2012 Remastered) · Edith Piaf

 


私が愛するフランスの大歌手エディット・ピアフも、売春する女の歌を歌っている。『アコーディオン弾き』がそれだ。歌の主人公は「La fille de joie」とあって、これは「喜びの女の子」とも「場末の女の子」とも訳せるのだが、その意味するところは言うまでもなく売春する女の子を指している。

売春する女の子が惚れているのがアコーディオン弾きで、貧しい生活の中で愛する彼氏がストリートで引くアコーディオンにうっとりしている光景を歌ったものだ。しかし、男は戦争で消えていき、女はひとり取り残される。売春する生活から抜け出せないまあアコーディオンの響きが忘れられない。ピアフが生きていた時代の戦争の匂いがする。そんな歌である。
https://blackasia.net/?p=8715

 

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Edith Piaf - YouTube
 
 
 
 
 

The Best of Edith Piaf

01 - 00:00 - Non, je ne regrette rien
02 - 02:25 - La vie en rose
03 - 05:33 - Hymne à l'amour
04 - 08:59 - Mon manège à moi
05 - 12:09 - La foule
06 - 15:07 - Padam
07 - 18:26 - Milord
08 - 22:58 - Sous le ciel de Paris
09 - 26:16 - L'accordéoniste
10 - 29:31 - Johnny tu n'es pas un ange
11 - 31:44 - L'homme à la moto
12 - 33:50 - Les trois cloches
13 - 38:00 - Une enfant
14 - 41:26 - Plus bleu que tes yeux
15 - 44:36 - Les amants d'un jour
16 - 47:48 - Le chemin des forains
17 - 51:02 - C'est l'amour
18 - 54:06 - C'est merveilleux
19 - 57:15 - Adieu mon coeur
20 - 01:00:24 - Je suis à toi

 

エディット・ピアフ:メドレー
作成者: がくにゃん
https://www.youtube.com/playlist?list=PLvLufmqGCZNm3v2oOK-TT9LSFt1wUSGjx
 

 
 
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エディット・ピアフÉdith Piaf1915年12月19日 - 1963年10月10日)は、フランスシャンソン歌手である。

ピアフは、フランスで最も愛されている歌手の一人だった。彼女の音楽には、傷心的な声を伴った痛切なバラードが含まれ、その生涯を反映しているものが広く知られているが、実は、芝居仕立ての歌や軽快な曲なども歌っており、レパートリーは幅広かった。

生涯

ピアフの有名な曲としては「ばら色の人生 La vie en rose」(1946年)、「愛の讃歌 Hymne à l'amour」 (1950年)などがあげられる。数々の伝記が書かれているにもかかわらず、エディット・ピアフの生涯の多くの事実と出来事は謎に包まれている。彼女はエディット・ジョヴァンナ・ガション(Édith Giovanna Gassion)としてパリ20区の貧しい地区ベルヴィル (Belleville) に生まれた。

 

ピアフはベルヴィル街72の路上で生まれたという伝説があるが、出生証明書によればベルヴィルのトゥノン病院(fr)で誕生したというのが事実である。エディットという名はドイツ軍に処刑されたイギリス人看護婦イーディス・キャヴェル (Edith Cavell) にちなんでいる(キャヴェルが処刑されたのはこの年の10月でパリでも大きな話題となっていた)。ちなみにパリジャンの俗語でを意味するピアフが彼女のニックネームになるのは20年後のことである。

 

母親のアンネッタ・ジョヴァンナ・メラール(Annetta Giovanna Maillard, 1898年 - 1945年)はイタリア系であり、出産当時17歳であった。彼女はリヴォルノの出身でリーヌ・マルサ (Line Marsa) の芸名のもとカフェのシンガーとして働いていた。エディットのミドルネーム「ジョヴァンナ」は母親からのものであった。父親のルイ=アルフォンス・ガション(Louis-Alphonse Gassion, 1881年 - 1944年)は、アルジェリア人の血を引き過去に劇場で演技をしたこともある大道芸人であった。両親は貧しく幼いエディットを養う経済的な余裕がなかったため、まもなく母方の祖母の元に短期間預けられた。しかし彼女はエディットを忌み嫌い育児そのものを拒否したため、ほどなく父親はエディットを、ノルマンディー売春宿を営んでいた自らの母親の元に連れて行った。その後、彼は1916年フランス軍に入隊する。こうしてエディットは、早い時期から娼婦やさまざまな売春宿への訪問者と接触をもち、このような状況は彼女の人格と人生観に強いインパクトを与えた。

 

3歳から7歳にかけて彼女は角膜炎で目が見えなかった。ピアフの伝説の一部として、祖母の元で働く娼婦がリジューのテレーズへ巡礼を行った後にエディットの視力が回復したというものがある。1929年になるとエディットは大道芸をする父と行動を共にする。その後1930年には父に反発してグラン・トテル・ドゥ・クレルモン(Grand Hôtel de Clermont)に一室を取り、父と別れてパリ郊外でのストリート・シンガーとして自身の道を歩むようになる(「Elle fréquentait la Rue Pigalle」を参照)。彼女は16歳で御用聞きの少年、ルイ・デュポンと恋に落ちまもなく子供を産んでいる。生まれた女の赤ん坊はマルセルと命名されたが、2年後に小児性髄膜炎でこの世を去った。

 

歌手活動:第二次大戦期まで

1935年にエディットはナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーフランス語版(Louis Leplée)によって見出され、彼の店で歌を歌うようになる。そのナイトクラブは上流、下流両階層の客達が出入りしていた。ルプレーは、人前に出ることに対して非常に臆病な彼女に店への出演を説得した。エディットの身長は142cmにすぎず、その小柄な体からルプレーは彼女に、後の芸名となる「小さなスズメ」(La Môme Piaf)の愛称を与えた。彼女の最初のレコードはこの翌年に録音された。同年、ピアフの父代わりでありいわばメンターでもあったルプレーは殺害され、ピアフはその共犯者であると告発されるが、無罪とされた。

 

1940年にはジャン・コクトーが彼女のために脚本『Le Bel Indifférent』を執筆する。ピアフはまた、俳優のモーリス・シュバリエや詩人のジャック・ボーガットのような有名人と知己となる。彼女は自らの歌の多くの歌詞を書き、作曲家達と協力した。

 

ピアフの代表曲「ばら色の人生」(この曲は1998年のグラミー賞名誉賞を受賞している。)は第二次世界大戦ドイツ占領下に書かれた。この時期彼女は大変な成功を収め、大きな人気を得る。ワン・ツークラブでドイツ軍高官のために歌を歌うことでピアフはフランス兵捕虜との写真をとる権利を得る。それは表面的には士気を高めるためのものとして行われたが、捕虜達は彼女と共に撮った写真から自らの写った部分を切り取って、脱走計画に使用する偽造文書に貼り付けた。今日、ピアフのレジスタンス運動への貢献はよく知られており、多くの人々が彼女によって救われた。

 

歌手活動:第二次大戦後

戦後、ピアフは世界的な人気を得、ヨーロッパアメリカ合衆国南アメリカで公演旅行を行った。ピアフのアメリカでの人気は『エド・サリヴァン・ショー』へ8度も出演するほどのものであった。1947年10月のアメリカ初公演では大女優で歌手でもあるマレーネ・ディートリヒとも知友を結び、以後2人は生涯にわたる親友となった。この初公演の際にプロボクサーのマルセル・セルダンとも出会う。フランス語を話せたディートリヒは、ピアフの「ばら色の人生」を自らの持ち歌に加えて歌っている。

 

彼女はシャルル・アズナヴールのデビューを手助けし、自らのフランス、アメリカでの公演旅行に同伴させた。アズナブールの他にも、イヴ・モンタンジルベール・ベコージョルジュ・ムスタキなどピアフに才能を見出された歌手は多い。ピアフの生涯の大恋愛はプロボクサーのマルセル・セルダンとの恋愛だったが、セルダンは1949年10月28日にエールフランスロッキード コンステレーション墜落事故にて死亡している。

 

1950年「愛の讃歌」発売。1951年にピアフは自動車事故に遭い、その後深刻なモルヒネ中毒に苦しんだ。

 

ピアフは2度結婚しており、最初の夫は歌手のジャック・パル(Jacques Pills)であった。2人は1952年に結婚し、1956年に離婚した。2人目の夫はヘアドレッサーから歌手、俳優へ転身したテオファニス・ランボウカスTheophanis Lamboukas,「テオ・サラポ」の名で知られる)であった。サラポはピアフよりも20歳も若かったが、ピアフの大ファンであったことが昂じて交際するようになり、2人はディートリヒの介添えのもと1962年に結婚した。夫であるサラポは妻ピアフの死後、妻の残した多額の借金を独力ですべて返済した。

 

パリの「オランピア劇場」はピアフが名声を得た場所であり、またピアフが病死する数ヶ月前に、衰弱してようやく立てるという体調でコンサートを開いた場所でもある。1963年、ピアフは最後の曲「ベルリンの男 L'homme de Berlin」を録音している。

 

47歳になってまもなくの1963年10月10日、ピアフはリヴィエラにより死去する。

死はその翌日に公表されたが、同日に友人のジャン・コクトーが死去した。ピアフの死に衝撃を隠せず「何ということだ」と言いながら寝室へ入りそのまま心臓発作で息を引き取ったという。彼女の公式の命日は死が公表された10月11日とされている。遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女のそのライフスタイルゆえに、カトリック教会のパリ大司教は葬儀におけるミサの執行を許さなかったが、葬儀には無数の死を悼む人々が路上に現れ葬列を見送り、パリ中の商店が弔意を表して休業し喪に服した。墓地での葬儀は40,000人以上のファンで混雑した。シャルル・アズナブール第二次世界大戦後、パリの交通が完全にストップしたのはピアフの葬儀の時だけだったと述懐している。

 

パリ11区のクレスパン・ドゥ・ガスト通り(Rue Crespin du Gast)5番地にエディット・ピアフ博物館がある。

今日、ピアフはフランスで最も偉大な歌手の一人として記憶され、尊敬されている。フランスではいまだに彼女のレコードが売れ続けている。彼女の生涯は悲劇的な私生活と一連の名声、そしてステージ上で轟くような力を備えた声と華奢で小さな姿がコントラストとして現れたものであった。

主な作品

歌唱曲

  • アコーディオン弾き」- L'Accordéoniste (1939)
  • ばら色の人生」 - La Vie en rose (1945)
    • ピアフの持ち歌の中でも最も有名な曲で、各国語で歌詞が付けられ、多数の歌手によって歌われている。
  • 「谷間に三つの鐘が鳴る」[2]- Les Trois Cloches (1945)
  • 「街に歌が流れてた」[3] - Un refrain courait dans la rue(1946)
  • 「小さなマリー」- La p'tite Marie(1950)
  • 愛の讃歌」 - Hymne à l'amour (1950)
    • マルセル・セルダンに捧げられた情熱的な曲で、「ばら色の人生」と並んでピアフの代表作となっている。この歌はJean-Paul Civeyracの映画『Toutes ces belles promesses』の触発となった。
  • 「青のシャンソン」- Chanson bleue(1951)
  • 「パダム・パダム」 - Padam... Padam... (1951)
  • 「あなたに首ったけ」- Je t'ai dans la peau(1952)
  • 「かわいそうなジャン」- La goualante du pauvre Jean(1954)
  • パリの空の下」 - Sous le ciel de Paris (1954)
  • 「憐れみ」- Miséricorde(1955)
  • 「いつかの二人」 - Les Amants d'un jour (1956)
  • 群衆」 - La Foule (1957)
  • 私の回転木馬」- Mon manège à moi(1958)
  • 「エデンブルース」- Éden blues(1958)
  • 「ミロール」 - Milord (1959)
  • 水に流して」- Non, je ne regrette rien(1960)
  • 「私の神様」- Mon Dieu(1960)
  • 「恋は何のために」- À quoi ça serf l'amour(1962)共唱テオサラポ
  • 「愛する権利」- Le droit d'aimer(1962)
  • 「ベルリンの男」- L'homme de Berlin(1963)

映画