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映画 黒澤明『姿三四郎』・『續姿三四郎』1943年
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監督・脚本:渡辺邦男
撮影:西前弘
音楽:牧野由多可
配給: 松竹
動画
https://www.youtube.com/watch?v=rSkZXP07tFg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%9B%E9%83%8E_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
1970年(昭和45年)7月25日公開。松竹製作・配給。監督は渡辺邦男。カラー、ビスタ、88分。同年に日本テレビ系で放送されたテレビドラマ『姿三四郎』の映画化作品。三四郎と檜垣以外のキャストは異なっている。
- 姿三四郎:竹脇無我
- 矢野正五郎:高橋幸治
- 早乙美:尾崎奈々
- 戸田雄次郎:森次浩司
- 壇義麿:小沢忠臣
- 津崎公平:大下哲矢
- 檜垣源之助:高城丈二
- 村井半助:堀雄二
- 玄妙和尚:曾我廼家明蝶
- 門馬三郎:加賀邦男
- お澄:榊原史子
- 君香:白木マリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%9B%E9%83%8E_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%9B%E9%83%8E
柔道創成前後の明治時代を背景に、実在の人物をモデルとした柔術家・柔道家および実在の政治家ら(谷干城、伊藤博文、井上馨など)をおりまぜた登場人物により、さまざまな人間模様、柔術・柔道等の戦い、歴史的事件をとりまく人々などを描く。
主人公の姿三四郎は会津に生まれ、明治15年、17歳で上京した。これは実在の柔道家で講道館四天王の一人、西郷四郎の来歴と全く同じであり、西郷がモデルだと言われる。 また諸説として、他の実在の柔道家でモデルの一人とされ影響を与えたのではないかとされる人物としては、その強さと嘉納治五郎から破門・謹慎を言い渡され後に復帰した経歴の徳三宝[1][2]や、“姿”という珍しい姓と富田常雄が『姿三四郎』を執筆していたころに学生柔道界の花形として活躍していた姿節雄[3][4]などの名も挙げられている。
三四郎は学士の矢野正五郎(やはり講道館柔道の創設者、嘉納治五郎がモデル)の柔道場に入門し、天才児と言われた。他の柔術家やボクサー、空手(唐手)家などに勝利しつつ、人間として成長してゆく。得意技は山嵐。良移心当流の柔術家村井半助との試合、右京が原での檜垣源之助との決闘、峰の薬師での檜垣鉄心・源三郎兄弟との決闘、「すぱあら」(ボクシング)のウィリアム・リスターとの他流試合、砲兵工廠・回向院(えこういん)での琉球人の間諜との格闘、西日本を代表する柔術家津久井譲介との格闘などが有名で、峰の薬師の決闘の地には石碑も建てられた。
今日までに多数の映画、テレビドラマ、漫画作品の原作となり、後の柔道を扱った作品に大きな影響を与えている。また、柔道界で小柄でありながら大きな選手を相手に活躍した選手に「三四郎」とニックネームをつけて呼ぶのは、この作品から取ったものである(重量級の山下泰裕などは「三四郎」とは呼ばれない)。
1942年9月に錦城出版社から『姿三四郎』が(〈巻雲の章〉から〈碧落(へきらく)の章〉まで)、1944年7月に増進堂から『続・姿三四郎』が(〈すぱあらの章〉から〈一空の章〉まで)出版され、それらの好評のあとを受けて1944年から東京新聞に連載された『柔(やわら)』には、〈不惜の章〉から〈明星の章〉までを、1945年に同紙に掲載した『続・柔』には〈琴の章〉から〈落花の章〉までを含んでいた。それに『姿三四郎』の前史にあたる『明治武魂』(〈生死の章〉までを含む)を加え、今日見られるような形にまとまった。『明治武魂』は1944年に大阪新聞に連載されたものである[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%BF%E4%B8%89%E5%9B%9B%E9%83%8E
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【伝説の講道館四天王】西郷四郎の生涯
知識の広場 2024/07/10
必殺技「山嵐」を武器に大柄な相手を次々と投げ、小説『姿三四郎』のモデルとなった伝説の柔道家・西郷四郎の生涯を解説しました。
*目次
【生い立ち】
【嘉納治五郎と富田常次郎】
【必殺“山嵐”】
【突然の出奔】
【姿三四郎】
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富田常雄の小説『姿三四郎』は、大東亜戦争(太平洋戦争)開始の翌年に、最初の姿を現しました。
世の中が文明開化で浮かれている時代に、古い柔術にのめりこんで「柔道」などと名乗り、古来からの柔術諸派を敵に回している帝国大学出の青年矢野正五郎に心酔して、他流との戦いの前面に立って戦う姿三四郎。
発売と同時に、小説『姿三四郎』は大ベストセラーとなりました。
主要登場人物について
姿三四郎
四つの時母を失い、十二才で父と死にわかれた。福島の山奥からなんのアテもなく上京したのは十七のとき。一年ほど車ひきをやりながら苦学し、やがてインテリ柔道家矢野正五郎の道場に入門する。
鹿鳴館時代の浮わついた欧化主義に抵抗し、柔道に象徴される民族精神を回復したいという矢野の理想に三四郎は燃え、共に「柔道」を興してゆく。三四郎は巴投げの戸田雄次郎、大外刈りの壇義麿、寝業の津崎公平と並んで矢野道場の四天王の一人となる。心明活殺流の門間三郎を隅返し、良移心当流の村井半助を山嵐で破り、さらに半助の高弟檜垣源之助と右京ヶ原で対決し、檜垣流唐手の不敗を誇る二人の弟、鉄心、源三郎に狙われる。
意中の人は哀れさの中から生れたような乙美、しかも彼女は三四郎のライバル村井半助の娘である。そのほか南小路子爵の令嬢高子、大家の娘おぎん、娘義太夫の扇之助など三四郎をめぐる女性も少なくない。
このように一方では「柔道」という理想のために闘いつづけ、また一方では若い女性から慕われ、哀しい宿命に泣く恋人を思う貧乏書生三四郎の姿は、いつの時代にもある青春の憧れと象徴である。
檜垣源之助
三四郎の宿敵として右京ヶ原ではその生命を狙った彼でさえ、三四郎の心情と純粋さに触れるや宿怨を忘れ、「姿君自重してくれ、君は僕の生甲斐なのだ」と熱涙を流しながら三四郎の手をしっかり握りしめるのであった。
檜垣源三郎
兄源之助の諫めを諾かず三四郎を殺さんとした彼だが……幼時に脳を病み、源之助にも口を利けなかった彼が三四郎に初めて「負けた」と一言。力や術に負けたのではない、三四郎の「人間」に負けたのである。
真崎東天
豪放磊落、天衣無縫、人を人とも思わぬ豪傑だが三四郎には正に一目惚れ、蔭に日向に三四郎を助け、また助けられる。その桁はずれ、無軌道ぶり、三四郎時にはヘキエキするが……
玄妙和尚
その存在は宮本武蔵に於ける沢庵の如く、三四郎の人生の師、三四郎その初対面の時から頭ごなしにやっつけられて頭が上らないが、可愛いけりゃこそ叱りもする。怒鳴っておいたそのあとで「ふん、あいつ見所があるわい、ホッ、ホッ」とよろこんでいる。
村井半助
彼も亦、三四郎に敗れた柔術家だが、「わしは力いっぱい斗った、姿君のおかげだ」とむしろ感謝し、三四郎を慕う娘乙美の心根を察して三四郎にその将来を引き受けてやってくれと頼みこむ。
香車の安
江戸っ子の心意気も嬉しい掏摸の名人。三四郎への心中立てから乙美の危急を救った事から檜垣源之助にリンチされ、半死半生の目に会い、男の執念一途に源之助の生命を狙うが、三四郎にその無暴を諭されて止む。
左文字大三郎
三四郎を兄とも師とも慕っている少年。二人の出合いがユカイ、尋ね人(門間三郎)の住居を教えてもらった礼に大三郎の食った大福餅の代金を引き受けた三四郎だが、店の婆さんが心配そうに言ったものだ「いいのかい書生さん、あいつ16も食ったんだよ」三四郎せいぜい5個位かと思っていた。おかげで財布は空っぽ。
谷 干城
鹿鳴館からの帰途、暴漢に襲われている三四郎を助けて自分の馬車に引き入れる。欧化万能の軽薄な風潮の中に、ひたむきに柔道一筋に生きる三四郎の生き方を賞で励ます時の大臣閣下。
一、梗概
(ミロ注:読みやすいように、原文にはない段落を入れてあります)
(〔註〕原作の乙美はテレビ映画化にあたって早乙美に変えてあります。)
撫でるように降りすぎて行った夕方の驟雨の後は、春の宵らしいおぼろ月が出た。
姿三四郎が、門間三郎(心明活殺流)に入門しようと出むいた夜、偶然にも門間らが矢野正五郎を闇討ちするのにぶつかった。紘道館道場主の矢野正五郎は学習院講師の文学士、世間で学士柔術とよばれているが、矢野自身は、柔術でなく”柔道”と称している。
門間らの闇討ちに矢野は動ぜず、得意の背負い投げで卑劣漢どもを追い散らした。姿三四郎はそれを見て感激、矢野の門下となった。三四郎は郷里の会津から上京、俥夫をしながら苦学を続けていたのである。
紘道館に住み込んだ三四郎は、めきめき腕をあげ、戸田雄次郎、壇義麿、津崎公平と並んで、四天王とよばれるほどになる。
当時、警視庁は”武術の殿堂”と目されていた。良移心当流の村井半助は、その警視庁の武術世話係を勤めていたが病身だったので、娘の乙美が生活のために田川牛肉店の女中に通っていた。村井の直弟子檜垣源之助が、その乙美に恋慕しているが、乙美は檜垣が嫌いである。
ある雨の日、乙美が下駄の鼻緒を切らして困っているところへ、姿三四郎が通りかかりすげかえてやった。三四郎は、それが村井半助の娘とは知らなかったが、乙美にとっては男性的な三四郎の面顔が、忘れがたいものとなる。
またある日のこと、三四郎は、馬車の暴走するのを取り押さえてやったが、その馬車に乗っていたのは南小路子爵の娘、高子であった。命の恩人の三四郎は、子爵邸で歓待されるが、西洋かぶれの高子が三四郎は気にくわない。紘道館柔道の本旨は、軽薄な欧化主義に抵抗するもので、「忠孝一本の真理から、死の安心を得る武道」なのである。
高子が雨の日に下駄の鼻緒をすげてやった娘と瓜二つなのが三四郎には不思議であった。
警視庁武術世話係と、矢野紘道館が対決試合をすることになり、矢野は三四郎に出場を命じた。いっぽう警視庁側では檜垣源之助が、病身の村井に代って自分の出場をと主張したが、村井は許さなかった。
試合を明日にひかえた夜、三四郎は高子に誘われて鹿鳴館へ行き、そこで、高子とスペイン公使館の書記官の嬌態を見、衝動的に書記官を投げとばした。騒動の中から、抜け出した三四郎は、折りよく通りかかった谷干城(農商務大臣)の馬車に匿われて、逃亡、谷は反政府の硬骨漢である。
警視庁の試合は、小兵の三四郎が大兵の村井半助を山嵐の大業で投げ、三四郎の勝ちとなった。三四郎は、敗者の村井を見舞って、そこで娘の乙美を見ておどろくが、乙美にとって、忘れ得ぬ人が父の仇だったわけである。この時しかし、三四郎は、乙美を愛していた自分に気が付いた。
村井半助は虚脱から死病となるが、三四郎の人柄に惚れこんで、乙美のことを頼むと遺言、その村井の告白によれば、乙美は南小路子爵の落胤で、高子とは異母姉妹なのであった。
その後まもなく檜垣源之助が、失恋の意趣はらしに、三四郎のもとへ決斗状を届けてきた。右京ヶ原の決斗に檜垣を倒した三四郎は、ここでも柔道の”礼”を忘れず、ために檜垣は悔悟して、以後、三四郎を畏敬する仲となる。
やがて三四郎は旅に出た。心機一転を期してのことである。新橋から横浜への車中、慕って来た乙美をふり切った三四郎は、その長旅を広島まで続けて行く。三四郎を可愛がるさいづち和尚に云わせると”煩悩菩提”だが、いまの彼には「女性は修業の敵」なのである。高子にくらべて、おとなしい乙美がいとしいのも事実だが……。
旅からもどって横浜滞留中の三四郎は、大陸浪人真崎東天と知り合った。東天は「日本に足りないのは侍だぞ」といって三四郎の武道を激励する。
乙美が寄食している田川牛肉店が左前になり店主のお仙が、思案にくれていた。乙美は芸妓に出る決心をし、前借りの千円で田川を立て直そうと、紘道館にもどってきた三四郎に相談した。三四郎とて名案もないが、ちょうど、その夜、ドイツのリスター(拳斗選手)と柔道の試合が企画され、賞金が千円であった。
三四郎は、破門を覚悟で出場し、得意の山嵐で、リスターを打ちのめした。もっとも彼とすれば、意地と拳斗への憎しみからの出場だったので、賞金は惜しげもなく倒れたリスターに投げ与えてやった。
田川は、東天の橋渡しで、南小路子爵の融資で再建できた。
矢野正五郎が、熊本の五高校長に赴任のとき三四郎は、かげながら、新橋駅で見送っていた。みずから、”破門”となった彼は、町の俥夫となって身を隠し、東天と乙美が探したが、見つからない。三四郎のいない紘道館は、穴の開いた感じである。
南小路家では、伊藤博文の仲人で高子を南条外交官に嫁がせたいのだが、三四郎を慕っている高子は承知しない。
乙美と高子から慕われている三四郎は、俥夫に姿をかりて東京じゅうを逃げ廻るかのようである。だが東天が、ついに三四郎を見つけ谷干城のところへ連れて行く。
谷も三四郎を憶えていて、二人を星ヶ丘茶寮へ案内したが、そこには刺客が谷を待ち伏せていた。政治ゴロの刺客は、三四郎にとり押さえられ、舌をかみ切って自害した。
東天は、また、三四郎を横浜へ連れていった。日清開戦が迫っていて横浜には清国の艦隊をはじめ、各国軍艦が碇泊している。東天は、横浜の空気から、三四郎に日本の現状を認識させたいのである。
清国海軍士官に見せかけている張は、実はスパイで、曲芸師にも早変わりをする。三四郎は、張の鋭い眼つきに見憶えがあって、東天を誘い両国の曲芸見物に入った。
張はそこで日本の官憲に正体を見破られて脱走を図るが、三四郎がそれを追って格斗となり三四郎も重傷を負った。
東天から、三四郎重傷の報らせが田川牛肉店に届いたとき、ちょうど、高子が田川へ来合わせていた。高子は、お仙と乙美には知らせず、俥を廻して重体の三四郎を南小路家へ運びこみ徹夜で看護したが、うわごとに「乙美さん」とよぶ、三四郎に、さすがの高子も絶望して、南条外交官との結婚にふみきった。
高子は恢復した三四郎と、乙美、東天らに見送られて、ロンドンへ船出した。
矢野正五郎が、高等師範学校長となって帰京し、三四郎は紘道館に復帰した。彼は、年一万本の稽古をめざしていて、娘義太夫の扇之助、以前の下宿のおばさんなどが云ってもてんで受付けない。檜垣源之助は、長崎に帰って、”生々塾”を開いていて、そこの逸材、津久井譲助と、姿三四郎の対決が噂にのぼりだしていた。東西対抗、矢野紘道館と良移心当流の宿命の対決か、津久井の実力を知っている檜垣は、三四郎を負けさせたくないのである。
津久井譲助が上京して、三四郎の動静をさぐっている頃、南条外交官が、ロンドンで客死した。高子は、若き未亡人となって帰国するが、東天に云わすれば「火を抱いて」の帰国であり果して、高子は津久井譲助と肉体関係を結んだ。そして津久井の嫉妬心をかきたてることによって、姿三四郎、ひいてはライバルの乙美に仕返しをしようとする高子は津久井を利用するだけで、愛情はない。
肋膜炎で逗子に静養中の高子を、三四郎は乙美にせがまれて見舞いに出むいた。高子に付き添っている津久井との対決は、必然である。両者は互いに顔だけは見知っていた。
雨の海岸での決斗の果て、三四郎は津久井を倒した。三四郎の身を案じる檜垣源之助がそれとなく見張っていて、津久井に活を入れるが、三四郎は勝ちながらも、相手の実力を見直していた。
京都の、武徳殿開き”東西対抗試合”が目前に迫ってきた。出場の直前、田川の使いが、三四郎を呼びにきて、乙美が肺炎で重態だと告げる。駆けつけた三四郎に、乙美は試合の成功を祈りながら息をひきとった。わずか、三日前、共に将来を語り合いながら村井半助の墓前にぬかずいた乙美だったのに……
出場をしぶる三四郎は、「紘道館らしく戦って、敗れるならばよい、柔道は政治ではない」との矢野正五郎の激励で、ようやく決意が固まった。だが、津久井が急に辞退して、三四郎の不戦勝となった。津久井は、三四郎の人格と実力にふれて、自分が嫌になったのである。
九州柔道界への責任から、津久井はその場で自決した。
武徳殿から京都駅まで来た三四郎は、しかし東京へ帰らぬという。東京へ帰っても乙美はいないのだ。これからどうする、と、訊いた僚友の戸田雄次郎に、「もう一度、俥屋だ」と三四郎は答えた。新しい人生へ出直すつもりである。